第6話 ブランド物の紙袋と手作り弁当
九月の半ばを過ぎたというのに、アスファルトから立ち昇る熱気はしぶとく街に居座っていた。
しかし、地上八階のデパートの屋上には、秋の気配を孕んだ涼しい風が吹き抜け始めている。
傾きかけた西日が、色褪せた遊具たちや点在するベンチを、どこかノスタルジックな黄金色に染め上げていた。
下界の喧騒、熱病に浮かれた人々の嬌声や、行き交うタクシーのクラクションは、ここまで届かない。
遠くで回るアドバルーンと、この吹きさらしの空間だけが、まるで昭和のまま時間が止まっているかのように静かだった。
健一は、ひび割れたビニールレザーのシートを持つパンダカーの背中を、油の染み込んだウエスで丁寧に磨いていた。
「お前、どうしても左に曲がりたがるんだよなあ。素直に真っ直ぐ進めばいいのに」
健一はパンダの丸い耳を撫でながら、誰にともなく独りごちた。
就職活動に全敗し、周りの同級生たちが一流企業で「ビジネスマン」としてのスタートを切り、六本木や赤坂で豪遊している中、自分だけがすっかり取り残されている。
真っ直ぐ進めず、どうにも左に逸れてしまうこの旧式のパンダカーは、どこか自分自身の不器用な生き方を映しているような気がして、健一には妙に愛着が湧いていた。
特技である指先の弾きで、百円玉を投入口に見事な放物線を描いて放り込む。
チャリン、という小気味よい音の直後、ウィーンと唸る微かなモーター音が響く。
「うん、少しはマシになったかな・・」
「健一くん、今日も熱心だね」 ふいに柔らかい声がかかり、健一が顔を上げると、小鳥コーナーの片付けを終えた奈緒が立っていた。
彼女の手には、洗い立ての小鳥の水浴び用の陶器がある。
色褪せた花柄のエプロン姿だが、彼女の佇まいには、どんな高級な服にも負けない清潔感と芯の強さがあった。
「いや、ただの暇つぶしみたいなもんだよ。辰じいがうるさいからさ。少しでも調子悪いと、すぐ俺の手抜きだって怒るんだ」
健一は照れ隠しに頭を掻いた。
奈緒とこうして何気ない会話を交わす時間が、今の健一にとって一番の安らぎになっていた。
彼女の穏やかな空気に触れていると、自分が世間の波から置いてきぼりにされているという焦燥感が、少しだけ和らぐのだ。
カツン、カツン、カツン。
その時、コンクリートの床を叩く、ひどく場違いで硬質なヒールの音が響いた。
二人が振り返ると、夕日を背にして立つシルエットがあった。
「健ちゃん、相変わらず冴えない格好で何やってんのよ」
現れたのは真理だった。
流行りの鮮やかなロイヤルブルーのボディコンシャスなスーツに、肩パッドがしっかりと入ったジャケット。
ワンレングスの黒髪をかき上げる手首には、重々しいゴールドのブレスレットが光っている。
彼女の周囲だけ、世間を席巻している狂乱の熱気がそのまま持ち込まれたようだった。
その手には、青山に本店を構える高級DCブランドの、一目でそれとわかる艶やかなロゴ入り紙袋が提げられている。
「真理? お前、今日仕事は?」
「今日は丸の内で新人向けの接遇研修。早く終わったから、わざわざ寄ってあげたのよ」
真理はツンと顎を上げ、奈緒を上から下まで値踏みするように一瞥した。
奈緒は静かに微笑み、「いらっしゃいませ」と軽く会釈しただけだった。
真理はその落ち着いた態度に少しだけ眉をひそめ、持っていたブランド物の紙袋を健一の胸にドンと乱暴に押し付けた。
「ほら、これ」
「なんだよ、これ。服か?」
「バカね、違うわよ。お弁当」
「は? お弁当?」
紙袋の中から出てきたのは、服やバッグではなく、上品なちりめんの風呂敷に包まれた、ずっしりと重い三段重の弁当箱だった。
「研修のあと、お料理教室の体験に行ってきたの。作りすぎちゃったから、余り物だけど食べていいわよ。健ちゃん、いつもコンビニのシャケ弁当とか焼きそばパンばかりで栄養偏ってそうだし」
「余り物って・・料理教室で作ったもの、持って帰れるのか?」
「い、いいから開けてみなさいよ!」
健一が戸惑いながら風呂敷の結び目を解き、一番上の重の蓋を開けると、中には目を疑うような光景が広がっていた。
色鮮やかに揚がった大きな海老の天ぷら、中心がほんのりと薔薇色に染まった手作りのローストビーフ。
ウインナーはただのタコさんではなく、細かい切れ込みの入ったカニさんやペンギンになっており、人参や大根は桜や松の形に精巧に飾り切りされ、隙間なく美しく詰め込まれていた。
「うわ・・なんだこれ。料亭の仕出し弁当かよ。これ本当にお前が作ったのか?」
「・・私が作っちゃおかしいっていうの!? 捨てるのもったいないから持ってきただけなんだからね!」
真理は顔を赤くして早口にまくしたてた。
彼女はチラリと奈緒の顔色を窺った。
「私たちは幼馴染で、私は彼にこんな手の込んだ手作り弁当を作れる特別な関係なのよ」という無言のアピール。
それは、世の女性たちが繰り広げる、マウンティングという名の不器用な牽制だ。
真理の胸の奥には、黒々とした焦燥感と劣等感が渦巻いていた。
今日の接遇研修で一日中叩き込まれたのは、お辞儀の角度やお茶の淹れ方、そして「男性行員を立てるための美しい振る舞い」ばかりだった。
総合職の男性たちと同じように大学を出たのに、自分に与えられるのはコピー取りや雑用ばかりの「腰掛けOL」という役割。
数年で寿退社することが当然とされる職場で、自分という人間の価値など誰も見ていない。
華やかなブランド服や煌びやかなアクセサリーは、自分は決して添え物などではないという、世間に対する惨めな抗議の鎧だった。
そんな息苦しい毎日の中で、飾らない昔のままの幼馴染の健一だけが、ありのままの自分に戻れる唯一の場所だった。
しかし、最近の健一はいつもこの屋上のこと、そして「奈緒」という女性のことばかり話すようになった。
自分が築き上げてきた虚飾の世界にはない、本物の安らぎを健一が別の場所で見つけてしまうことが、たまらなく不安で、恐ろしかったのだ。
しかし、奈緒の反応は真理の予想を完全に裏切るものだった。
「わあ、すごい・・! とっても美味しそうですね」
奈緒は目を輝かせ、無邪気に弁当箱を覗き込んだ。
「ローストビーフの火の通り具合、本当に絶妙ですね。それにこのお野菜の飾り切り、すごく細かい。真理さん、お仕事もされているのにお料理もお上手なんですね」
そこには、嫌味も、嫉妬も、対抗心も微塵もなかった。
心底感心したような奈緒の透き通った声に、真理は出鼻を挫かれたように言葉を詰まらせた。 「あ、えっと・・まあ、これくらい普通よ。女の子なら誰でも・・」
「私、手先が不器用だからこういうの本当に尊敬しちゃいます。健一くん、よかったね。こんな素敵なお弁当作ってもらえて」
奈緒の屈託のない笑顔と、どこか大人びた余裕のある態度は、真理の心にチクリと、しかし深く鋭く突き刺さった。
(・・何よ、それ。どうしてそんなに余裕なのよ)
真理は、自分がひどく滑稽なピエロに思えてきた。
高いお金を出して買った高級なスーツを着て、ブランド品の紙袋をわざわざ見せびらかすように提げて、「余り物」だと嘘をついてまで、昨日の夜遅くから仕込んで指先を切り傷だらけにしながら作った手作り弁当を押し付けに来た。
奈緒に見せつけるために。
健一は私のものだと主張するために。
けれど奈緒は、そんな真理の薄っぺらい見栄や牽制を、まるでそよ風のように軽やかに、そして優しく受け流してしまった。
色褪せたエプロン姿の奈緒はどうだ。
給料も待遇も決して良くない屋上の隅っこで、小鳥たちの世話をする仕事に誇りを持ち、誰かと比べることなく、自分の足で真っ直ぐに立っている。
自分軸で生きている彼女の前では、自分の着飾ったブランド服が、ただの虚勢に思えてならなかった。
勝負を挑んだはずなのに、自分の方が圧倒的に惨めだった。
「・・私、もう行くわ。友達と六本木でディナーの約束があるから」
これ以上ここにいれば、惨めな涙が溢れ出しそうで、真理は逃げるように踵を返した。 「お、おう。弁当サンキュ。タッパー、洗って返すよ」
「捨てていいわよ、そんなの!」
半ば自暴自棄に叫び、真理は小走りで屋上を後にした。
カツン、カツンというヒールの音が、夕暮れの屋上に妙に虚しく響き、非常階段の重い扉がバタンと閉まる音と共に完全に消えていった。
真理の足音が聞こえなくなった後、健一は手の中の豪華な弁当箱と奈緒を交互に見た。 「・・あいつ、何しに来たんだ? あんな高そうな服着て、ブランド物の紙袋に弁当なんか入れて。六本木でディナー食う奴が、わざわざこんな重い弁当持ってくるか?」
健一の心底不思議そうな顔に、奈緒はふふっと小さく吹き出した。
「健一くんって、本当に鈍感」
「えっ、何が? 俺、なんか変なこと言ったか?」
「真理さん、すっごく健一くんのこと大切に思ってるんだよ。女の子が『余り物』って言って持ってくるあんなに凝ったお弁当はね、一番食べてほしい人のために、前の日の夜から一生懸命、心を込めて準備するものなの。紙袋だって、きっと健一くんに格好悪いところを見せたくなくて、一番綺麗な袋を選んだんだと思う」
「前の日の夜から・・マジで?」
健一は信じられないというように、もう一度弁当箱を見た。
確かに、これだけの種類のおかずを、研修帰りの短い時間で作れるはずがない。
ウインナーの細工や野菜の飾り切りには、とてつもない時間と手間がかかっているはずだった。
奈緒は夕暮れの空を見上げ、少しだけ寂しそうな、けれど優しい声で言った。
「ちゃんと、残さず食べてあげてね。真理さんの気持ち、いっぱい詰まってるから」
その奈緒の横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
健一は、奈緒の穏やかな表情の奥に、何か見えない壁のようなものを感じて胸がざわついた。
真理の不器用な愛情と、奈緒の大人びた優しさ。
二つの感情の狭間で、健一はどう振る舞えばいいのか分からなかった。
「・・ああ、食べる。冷めないうちに」
健一はパンダカーの横に腰を下ろし、甘い卵焼きを一つ口に運んだ。
少し焦げた端っこの味が、昔から知っている真理の味だった。
「美味い・・」
健一は、手の中の弁当箱のずっしりとした重みを感じながら、夕焼け空に消えていった真理の後ろ姿を思い返していた。
あの強気な言葉の裏で、彼女がどんな思いでこの弁当を作ったのか。
そして、それを笑顔で受け流した奈緒は、本当はどう思っていたのか。
甘い卵焼きの匂いと、微かに残る高級な香水の香りが、秋の入り口の風に吹かれて入り混じっていた。
遠くのビル群にネオンが灯り始める中、屋上の空は、いつの間にか深い藍色へと変わり始めていた。




