第5話 雨の日の観覧車と二人の傘
九月の終わり、秋の入り口に差しかかる頃の夕立は、何の予告もなく突然にやってくる。
つい十分前までオレンジ色に染まっていた空が、真っ黒なインクを零したように急激に暗くなり、冷たい風が吹き抜けたかと思うと、アスファルトを叩きつけるような大粒の雨が降り始めた。
バラバラバラ、という激しい音が屋上全体を包み込む。
残っていた数組の親子連れやカップルは、悲鳴を上げながら慌てて屋内の階段へと逃げ込んでいった。
健一は、慌てて倉庫からブルーシートを引っ張り出し、雨に弱い古い遊具たちに覆いをかけて回った。
辰じいは今日は非番だ。
一人で広い屋上を走り回らなければならない。
特に、電子回路がむき出しになりかけているパンダカーや、座席のクッションが破れている木馬には、念入りにシートを被せる必要がある。
これを怠ると、明日辰じいから雷が落ちる。
雨に打たれながら必死で作業を終えた頃には、健一の作業着はすっかり濡れそぼり、髪からは水滴が滴り落ちていた。
ふと視線を上げると、屋上の隅にある緑色のネットの下で、奈緒が立ち尽くしているのが見えた。
小鳥たちのケージにはすでにしっかりとビニールカバーがかけられており、作業自体は終わっているようだが、彼女自身は屋根の小さなひさしの下で、降りしきる雨を前に立ち往生している状態だった。
今日はもう、客が戻ってくることはないだろう。
屋上遊園地は、事実上の営業終了だ。
健一は足早にスナックコーナーの裏手に回り、自分のロッカーからビニール傘を取り出した。
骨の先が一本折れていて、開くと少しだけいびつな形をしている、いかにも健一らしい冴えない傘。
それを片手に、水たまりを避けながら奈緒の元へと駆け寄る。
「奈緒さん、大丈夫ですか? すっかり降られちゃいましたね」
健一が声をかけると、奈緒はほっとしたように柔らかく微笑んだ。
「小林さん。はい、すごい雨ですね。鳥たちは濡れずに済んだんですけど、私、傘を持ってくるのを忘れてしまって」
奈緒の白い割烹着の肩口も、少しだけ雨の染みを作っていた。
「天気予報、晴れだったのに。山の天気と屋上の天気は変わりやすいって、辰じいも言ってましたから」
「そうですね。・・困りました。少し小降りになるまで待とうかと思うんですけど、止みそうにないですね」
奈緒が空を見上げると、厚い雨雲がどっしりと居座り、遠くで雷鳴が響いている。
健一の心臓が、突然ドクンと大きく跳ねた。
これは、いわゆる「チャンス」というやつではないのか。
手には、一本のビニール傘。
目の前には、傘を持たない奈緒。
脳内で、先ほどの洋子ママの『もっとガツンといきなさいよ』というハスキーな声がリフレインする。
「あ、あの・・」
声が上ずった。
「もしよかったら、俺の傘、使いますか?」
「え? でも、それだと小林さんが濡れてしまいます」
「俺は、あそこに自分のロッカーがあるんで。タオルもあるし、最悪、スナックコーナーのテントで雨宿りできるから。奈緒さんは、帰らないといけないでしょ」
嘘だった。
ロッカーにタオルなど入っていないし、スナックのテントは雨漏りがひどい。
だが、ここで見栄を張らなければ男が廃る。
健一がいびつな形の傘を差し出すと、奈緒は少し困ったように眉を下げた。
「そんな、申し訳ないです。・・あの、もしよろしければ」
「は?」
「駅まで、ご一緒しませんか? 傘、入れていただいてもいいですか?」
相合傘。
その三文字の破壊力が、健一の脳天に雷のように直撃した。
相合傘。
それは、青春の特権であり、恋の始まりを告げる神聖な儀式である。
しかし、二十二年間、女性とまともに付き合ったことのない健一にとって、それはもはや未知の領域、未踏の密林ジャングルであった。
健一の右手に握られた傘の柄から、ジワジワと汗が滲み出ている。
奈緒は、健一の左側に立っていた。
その距離、わずか二十センチ。
「すみません、お邪魔します」
奈緒が少しだけ体を寄せてくる。
フワリと、石鹸のような、そして少しだけ雨の匂いが混ざったシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。
(ちかッ・・! 近い近い近い!)
健一の心の中の警報機が、赤色灯を回してけたたましく鳴り響いた。
デパートの従業員通用口を抜け、裏通りに出る。
駅までの道のりは、歩いて十分ほど。
普段ならあっという間の距離だが、今の健一にとっては永遠にも等しい長さに感じられた。
第一の関門は、「歩幅」だ。
自分のいつものペースで大股で歩けば、奈緒を置いてけぼりにして傘の外に出してしまう。
かといって、ゆっくり歩きすぎると不自然極まりない。
健一は、奈緒の足元をチラチラと横目で見ながら、その歩幅に完全にシンクロさせるという神業に挑んでいた。
右、左、右、左。
少しでもズレると、傘のバランスが崩れる。
第二の関門は、「傘の角度」である。
男たるもの、相合傘で女性を濡らしてはならない。
これは全人類の鉄則。
健一は、傘の柄を垂直に保ちながら、微妙に、ごく自然を装って奈緒の方へと傘を傾けていた。
しかも、折れた骨の部分が奈緒の方にいかないように、手首を不自然に捻っている。
その結果、健一の右肩は完全に傘の外にはみ出し、雨粒が容赦なく降り注いでいる。
冷たい。
しかし、そんなことはどうでもいい。
今、自分の右肩が濡れていることなど、取るに足らない犠牲だ。
これは名誉の負傷である。
「小林さん、右肩、濡れてませんか?」
奈緒が下から覗き込むようにして、気遣う声をかけてきた。
「え? あ、全然! 全然濡れてませんよ! 俺、右肩だけ防水仕様みたいなところあるんで!」
意味不明な強がりを口にしてしまい、健一は激しい自己嫌悪に陥る。
防水仕様ってなんだ。
俺はテントかブルーシートか。
奈緒は目を丸くした後、クスリと笑った。
「ふふ、防水仕様なんですか。でも、風邪引いちゃいますから、もう少し入ってください」
そう言って、奈緒がさらに一歩、健一の方へ身を寄せた。
肩と肩が、一瞬だけ触れ合う。
ピシャーン!健一の脳内に、再び落雷がきた。
心臓の音が、雨音をかき消すほどにうるさい。
ドッドッドッドッ。
頼む、この爆音が奈緒さんに聞こえませんように。
「・・雨の日の屋上って、なんだか不思議ですね」
奈緒が、雨に霞む街頭の灯りを見つめながらぽつりと言った。
「いつもは賑やかなのに、突然、世界から切り離されたみたいになります。少しだけ、寂しくて、でも安心するような」
「・・分かります」
健一は、震える声をなんとか押さえ込んで、平静を装って答えた。
「下界の騒音が消えて、自分たちだけが取り残されたみたいな気分になりますよね。俺、そういう屋上も好きです。何も考えずに、ただそこにいられる気がして」
「ふふ。小林さんは、本当に屋上が好きなんですね」
「はい。・・まあ、他に居場所がないってのもあるんですけど」
「そんなことないと思いますよ」
奈緒のまっすぐな視線が、健一に向けられる。
「小林さんが機械を直してる時の顔、とても真剣で、いい顔してます。パンダを拭いてる時も。そういう自分の居場所を大事にできる人は、どこへ行っても大丈夫だと思います」
その言葉が、健一の胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
これまで誰にも言ってもらえなかった言葉。
就職活動でズタズタになり、社会から不要だと言われ続けた自尊心を、奈緒の柔らかな声がそっと肯定し、包み込んでくれるような気がした。
駅前広場に到着した。
雨は相変わらず激しく降っているが、駅の構内には帰宅を急ぐ多くの人が行き交っている。
「ありがとうございました、小林さん。本当に助かりました」
改札の手前で、奈緒が深く頭を下げた。
「いえ、俺も駅前まで来る用事があったんで・・」
嘘だ。
本当は屋上に戻って夜間警備の佐々木さんに鍵を預け、明日の作業の準備をしなければならない。
「右肩、本当にごめんなさい。風邪引かないように、帰ったらしっかり温まってくださいね」
「はい。奈緒さんも、気をつけて」
奈緒が改札を抜け、振り返って小さく手を振る。
健一も、傘を持ったまま不器用に手を振り返した。
奈緒の姿が人混みに消えていくのを見届けた後、健一は大きく息を吐き出した。
「・・はあぁぁぁ・・」
全身の力が抜け、その場にへたり込みそうになる。
極度の緊張の糸が切れ、ドッと疲労が押し寄せてきた。
右肩はびしょ濡れで、シャツが肌に張り付いてひどく冷たい。
しかし、そんな不快感を上回るほどの圧倒的な幸福感だった。
相合傘。
肩と肩が触れ合った。
歩幅を合わせた。
思い出すだけで、顔の筋肉が制御不能になり、だらしない笑みが浮かんでしまう。
健一は、折れた骨が一本飛び出しているいびつなビニール傘を、愛おしそうに見つめた。
この傘は、一生捨てない。
なんなら家宝にして床の間に飾ろう。
その様子を、駅前広場の大きな柱の陰から、氷のように冷たく、そして熱く燃える視線で見つめている者がいた。
野村真理。
真理は、銀行の帰りに急な雨に降られ、デパートの一階でわざわざ買ったばかりの高級なブランド傘を差して駅まで来ていた。
そこで偶然、一つのビニール傘に入って歩いてくる健一と奈緒の姿を目撃してしまった。
健一の右肩がずぶ濡れになっているのも、奈緒が健一に寄り添うように歩いていたのも、奈緒の言葉に健一が真剣な顔で頷いていたのも、すべて見た。
そして何より、奈緒を見送った後の健一の、あのだらしないほどに緩み切った、心底幸せそうな笑顔。
真理の胸の奥で、ドス黒い炎がメラメラと音を立てて燃え上がった。
手元の高級傘の柄を、ギリギリと嫌な音が鳴るほど強く握りしめる。
「・・なによ、あれ」
声が震えていた。
ただの幼馴染だ。
幼稚園の砂場からの付き合いで、あいつのダメなところは誰よりも知っている。
優柔不断で、意気地なしで、自分から女の子を誘うなんて絶対にできないヘタレ男だ。
それなのに、あの地味な女に対してだけは、あんな顔をするのか。
私には絶対に見せない、あんな無防備で、情けないほど幸せそうな顔。
「・・バカみたい。なんで私が、あんなやつを・・」
真理は、吐き捨てるように呟いた。
しかし、その言葉は健一に向けられたものなのか、それとも、こんなにも激しく動揺し、嫉妬に狂いそうになっている自分自身に向けられたものなのか、真理にも分からなかった。
分かっているのは、今すぐあの女の胸倉を掴んでやりたいという暴力的な衝動と、健一の右肩を拭いてやりたいという矛盾した感情が、自分の中で暴れ回っていることだけ。
目頭が熱くなるのを感じ、真理は慌てて目を瞬いた。
雨のせいだ。この冷たい雨のせいだ。
真理は、健一に気づかれないように、足早に駅の反対方向へと踵を返した。
高いヒールの音が、雨音にかき消されていく。
胸の奥で暴れる痛みを誤魔化すように、真理は必死で前を向いて歩き続けた。
一方その頃、下界のさらに遠く。
本社ビル開発部の一室では、冷たい蛍光灯の光の下で、一人の男が図面と向き合っていた。
エリート若手社員、黒木隆である。
完璧に着こなしたダブルのスーツ。
広い机の上には、胃薬の空き瓶が無造作に転がっている。
彼の手元にあるのは、「デパート屋上・新規ビアガーデン化プロジェクト」の最終図面だ。
図面には、観覧車やパンダカーがあった場所に、大きな赤いバツ印が書き込まれている。
「・・昭和の遺物は、すべて撤去」
黒木は、万年筆の先で図面をトントンと叩きながら、独り言のように呟いた。
「時代は変わる。利益を生まない感傷など、一円の価値もない。・・そうだろ?」
黒木の冷徹な目が、図面の向こうにある「利益」という数字だけを見据えている。
しかし、その万年筆の先は、図面の端に描かれた古い遊具のシルエットの上で、微かに迷うように止まっていた。
バブルの狂騒に背中を押され、時代は容赦なく古いものを切り捨てようとしている。
健一たちがささやかな幸せを感じていた屋上のモラトリアムの時間は、確実に終わりへと近づいていた。
雨は、夜が更けても止む気配を見せず、街を冷たく濡らし続けていた。




