第4話 スナックコーナーの赤い彗星
デパートの屋上の北西角、色褪せた三色のテント屋根の下に、「スナック・オアシス」という仰々しい看板を掲げたプレハブ小屋がある。
名前こそ横文字のハイカラな響きだが、実態はうどんとフランクフルト、それに少しばかりの駄菓子やラムネを売るだけの古ぼけた軽食店だ。
換気扇からは、甘辛い醤油とカツオ出汁の匂いが一年中漂っており、錆びついた金属と古い機械油の匂いが支配する屋上遊園地の中で、そこだけが妙に温かく、そして強烈な生活感を放っていた。
その店をたった一人で切り盛りしているのは、三波洋子、通称「洋子ママ」だ。
年齢は五十代の半ば。
パンチパーマ一歩手前の強烈なパーマヘアに、トラやヒョウの顔が大きくプリントされた派手なシャツを好み、その上に真っ白な割烹着を羽織るという、大手デパートの統一された清潔な規格から完全に逸脱したファッションを貫いている。
彼女は、この屋上がまだ子どもたちで溢れかえっていた全盛期を知る数少ない生き証人であり、辰じいと並んで屋上の主のような存在だった。
「ほらよ、健一。いつもの月見うどん。今日は特別にネギ多めにしてやったよ。あんた、最近少し顔色が悪いからね。しっかりビタミン摂って、精つけなさい」
パイプ椅子に腰掛けた健一の前に、もうもうと湯気を立てるプラスチック製のどんぶりがドンと置かれた。
「ありがとうございます、ママ。でも、夜勤前にあんまり食べすぎると、作業中に眠くなるんですよね」
「甘いこと言ってんじゃないわよ。夜風に吹かれて冷たい機械の油まみれになる仕事なんだから、腹の底からガツンと温めておかないと風邪引くわよ。それに、あんたの不調は気温のせいだけじゃないだろ? 若いんだから、もっとシャンとしなさいな」
ズズッ、とうどんをすすっていた健一の動きがピタリと止まった。
熱いダシの香りにむせそうになりながら、健一は慌てて口の周りを手の甲で拭った。
「な、なんのことですか。俺はいたって健康ですよ。就職浪人っていう身分以外は」
「とぼけんしゃないわよ。アタシの目は誤魔化せないよ。ここから屋上全体が、あんたたちの動き一つ一つまで、お見通しなんだからね」
洋子ママは、どんぶりの横に七味唐辛子の小瓶を置きながら、菜箸の先でスナックコーナーから斜め右方向をピシリと指し示した。
そこには、緑色のネットで囲われた「小鳥・鑑賞魚コーナー」がある。
夕方のオレンジ色の西日が差し込む中、いつもの白い割烹着姿の相原奈緒が、小鳥のケージを一つ一つ丁寧に洗っている姿が見えた。
「奈緒ちゃんがケージの掃除してる時、あんた、パンダカー磨くふりしてずっと横目で見張ってんじゃないの。首の角度がおかしくなってるわよ。この前なんか、パンダの尻尾ばかり三十分も熱心に磨いてたじゃないか。あんなに一点集中で磨かれたら、いくら機械のパンダだって照れて赤くなるわよ」
「見張ってなんかいませんよ! たまたま、パンダの向きがそっちだっただけで・・それに、汚れがひどかったんです、尻尾の裏側が」
「へえ、パンダってのは器用な生き物ねえ。自分の意志で首の向きをペットコーナーに変えるのかい。・・で? 結局のところ、声はかけたの?」
洋子ママが、カウンターから身を乗り出してニヤニヤと意地悪く笑った。
「・・朝、非常階段で少しだけ」
「少しだけって、あんたねえ」
洋子ママは大げさにため息をつき、腰に手を当てて天を仰いだ。
「昭和も終わろうってこのご時世に、中学生の初恋みたいなことやってんじゃないわよ。アッシー君だのメッシー君だのって、下界の男たちはみんな必死で札束切って女の尻追いかけてるのに。あんたは屋上で、パンダの尻拭いてるだけじゃない。もっとガツンといきなさいよ、ガツンと。映画に誘うとか、メシ食いに行くとか」
「しょうがないじゃないですか。俺、そういう器用なことできないし。それに、奈緒さんには奈緒さんの生活があるんだから、いきなり踏み込んだら迷惑になりますよ。俺みたいな、将来の保証も何もないフリーターが声かけたって・・」
「出たよ、特許許可局もびっくりの優柔不断。相手の気持ちを慮ってるふりして、自分が傷つくのが怖いだけじゃないの。だから就職面接でも落とされるんだよ」
痛いところを的確に突かれ、健一はうどんの汁を黙って飲み干した。
言い返せないのは、洋子ママの言う通りだったからだ。
奈緒とは、非常階段で缶コーヒーを分け合う程度には話せるようになった。
しかし、それ以上の距離を詰める言葉を、健一は持っていなかった。
就職活動で何十社からも「お祈り手紙」をもらい続け、社会から必要とされていないという無力感に苛まれている今、誰かに正面から向き合い、自分を受け入れてもらう自信がどこにもなかった。
「すみませーん・・きつねうどん、一つ。お揚げ二枚乗せでお願いします・・」
重苦しい沈黙を破るように、ひょろりとした、消え入りそうな声が響いた。
振り返ると、スナックコーナーの前に若い女が幽鬼のように立っていた。
ワインレッドの制服に、お揃いの丸い帽子。
手には真っ白な手袋。
デパートの華と持て囃される、エレベーターガールだ。
しかし、その顔には華やかさの欠片もなく、どんよりとした疲労が死相のようにべったりと張り付いている。
「おや、ミカちゃんじゃないの。珍しいわね、こんな時間に。シフトは抜けて平気なの?」
「洋子ママ・・私、もうダメです。下界の空気が薄すぎて、このままじゃ窒息死しそう・・」
新人エレベーターガールのミカ(十九歳)だった。
彼女は健一の隣のパイプ椅子に座るなり、白い手袋を乱暴に外してカウンターに突っ伏した。
「どうしたのよ。また嫌な客にでも当たった? それとも上司の嫌味かい?」
「客だけじゃないですよぅ。今日はバーゲンの初日で、開店からずっと満員のエレベーターにすし詰め状態。酸素は足りないし、マダムたちの高級香水の匂いが混ざり合って異臭騒ぎ一歩手前だし・・おまけに、五階の婦人服売り場のオツボネ様が、私が案内間違えたってバックヤードでネチネチネチネチ説教してきて・・。一日中、引きつった笑顔の作りすぎで、顔の筋肉が勝手に痙攣してるんです」
ミカは自嘲気味に両手で頬をゴシゴシと揉んだ。
バブル景気で浮かれる下界のデパートは、連日黒山の人だかりだ。
一階から八階まで、人々のあくなき欲望と万札が乱れ飛ぶように渦巻いている。
その最前線の密室で、笑顔を振りまき続け、頭を下げ続けるエレベーターガールは、端から見る優雅さとは裏腹に、まさに神経を削る激務だった。
ミカは奈緒の短大時代の後輩であり、奈緒を慕ってよく屋上に愚痴をこぼしに来ていた。
屋上の人間たちにとって、ミカは「下界」の動向や噂話を取り次いでくれるスパイのような役割も果たしていた。
「大変だな、ミカちゃんも」
健一が声をかけると、ミカは恨めしそうに健一を横目で睨みつけた。
「健一さんはいいですよね。夜中の屋上で、文句も言わない機械相手にボケーっとしてればお給料もらえるんだから。私なんか、毎日生身の欲深き人間相手に神経すり減らして、靴擦れで足から血を流してるんですよ」
「ボケーっとはしてないよ。一応、これでも真面目に整備してるし、子どもの安全を守るっていう責任もあるんだ」
「同じですよ。下界の、あの血で血を洗う女の闘争や、バーゲンの奪い合いに比べたら、屋上なんて天国みたいなもんです。・・あーあ、早く『アレ』が始まらないかなあ。そうすれば、こんな無駄な苦労もしなくて済むのに」
ミカが何気なくこぼした言葉に、健一はピクリと反応した。
「アレって、なんのこと?」
「あれ、聞いてないんですか? 屋上を全部潰して、最新のビアガーデンにするっていう噂」
ドン、と洋子ママがどんぶりをカウンターに置いた音が、妙に大きく響いた。
「ちょっとミカちゃん、それ本当かい? アタシのこのスナックも潰されるってこと?」
「詳しいことは分かんないですけど・・でも、エレベーターの中で、本社の開発部のエリートさんたちがそんな話してましたもん。『この屋上の面積なら、三百席は取れる』とか『昭和の遺物は一掃して、若者向けのトレンディな空間にすべきだ』とか。・・まあ、私としては、エレベーターの案内アナウンスが『屋上遊園地』から『スカイ・ビアテラス』に変わる方が、響きがカッコよくていいんですけどね。泥臭いより、スマートな方が今の時代に合ってますし」
昭和の遺物。
一掃する。
その無機質で冷たい言葉の羅列が、健一の胸に鋭い刃のように突き刺さった。
辰じいが毎日油にまみれて守ってきたパンダカーやメリーゴーランド。
奈緒が大切に世話をしている小鳥たち。
そして、自分を受け入れてくれたこの吹きさらしの空間。
それらがすべて、ひとまとめに「遺物」として片付けられてしまうのか。
せっかく見つけた自分の居場所が、足元から音を立てて崩れ去っていくような不安が、健一の全身を覆った。
「あら、意外と分かってるじゃない。その制服ちゃん」
背後から、高いヒールの音がカツカツと響いた。
振り返ると、野村真理が腕を組んで立っていた。
今日は真っ赤なボディコンシャスなスーツだ。
まるで闘牛士のムレータのように、鮮烈で攻撃的な赤。
肩幅を強調したシルエットに、体にぴったりと張り付くタイトスカート。
バブルの波を一身に浴びたようなその派手な姿は、色褪せた屋上の景色の中で、明らかに異質で浮いていた。
「真理・・お前、また来たのか」
「またとは何よ。幼馴染の生存確認に来てあげてるんじゃない」
真理はミカの隣のパイプ椅子に、これみよがしに足を組んで腰を下ろした。
ミカは真理の派手な装いと、そこから漂うシャネルの強い香水の匂いに、あからさまに顔をしかめ、手で鼻を覆った。
「なんだか、今日は屋上が随分と騒がしいわね。そこのエレベーターガール、まさかサボり?」
「サボりじゃありません、正当な休憩中です! それに、あなた部外者ですよね? 従業員専用の非常階段から上がってくるなんて、ルール違反ですよ。それにその匂い、小鳥たちが可哀想です!」
ミカが噛み付くが、真理は涼しい顔で鼻で笑った。
「部外者だけど、お客よ。お金を払えばどこにいたって文句はないでしょ。・・ママ、コーラ一つ。瓶のやつね」
「あいよ。真理ちゃん、今日も気合入ってんねえ。目がチカチカするわ。あんまりギラギラしてると、屋上のカラスに突かれるよ」
洋子ママは面白がるように、冷えた瓶コーラをドンと置いた。
「当然でしょ。今日は金曜日だもの。花金よ。これから赤坂で、大手商社の男たちとパーティーなの。あなたたちみたいに、屋上でうどんすすって終わるような安い金曜日じゃないの」
真理はコーラの栓を抜きながら、挑発的な視線を健一に向けた。
「それにしても、あんたたち呑気ねえ。屋上が潰されるって聞いて、焦らないの?」
「・・真理も、その噂、知ってたのか?」
「銀行にいるとね、デパートの融資話なんてすぐ耳に入ってくるのよ。ここのデパート、本業の売り上げは絶好調なのに、屋上だけが何年も赤字を垂れ流してるんでしょ。そりゃあ、テコ入れもするわよ。不良債権はさっさと切り捨てる。それが今の時代のやり方だもの」
真理の言葉は、冷酷なまでに正論だった。
反論する言葉が見つからず、健一は膝の上で拳を固く握りしめた。
「で? 健ちゃんはどうすんの。ここが潰れたら、いよいよ行くアテないじゃない。また履歴書持って、あちこち頭下げて回るわけ?」
「そんなの・・後で考えるよ」
「考えてない証拠ね、それ。まあ、せいぜい今のうちに、あの子との思い出作りでもしとけば? どうせ、屋上がなくなれば縁も切れる関係なんでしょ」
真理の視線の先には、ペットコーナーで文鳥のケージを洗い終え、額の汗を拭っている奈緒の姿があった。
奈緒は、屋上の喧騒から切り離されたように、一人で黙々と作業を続けている。
「・・あんたなんかに、あの子は落とせないと思うけどね」
真理は、コーラを一口飲み、氷のように冷たい声で言った。
「住む世界が違うのよ。あの子は、ああ見えて自分の足でしっかり立ってる。あんたみたいに、逃げ場所を探して屋上にしがみついてるだけの男とは、釣り合わないわよ」
その言葉は、健一の最も触れられたくないコンプレックスを正確にえぐった。
自分でも分かっている。
自分はただ、下界の競争から逃げてきただけの敗者だ。
奈緒のように、自分の仕事に誇りを持ち、前を向いて生きている人間とは違う。
それでも。
「落とすとか、そういうんじゃないんだよ。俺はただ・・」
「ただ何よ。言ってみなさいよ。どうせ気の利いたことなんて言えないんでしょ?」
真理が身を乗り出し、健一を睨みつけた。
「ただ・・手伝ってくる!」
健一はパイプ椅子から勢いよく立ち上がった。
ガタン、と椅子が後ろに倒れる音が響く。
真理の言葉に反論できない悔しさと、奈緒の隣に行きたいという理屈抜きの衝動が、健一の背中を押した。
健一は真理に背を向け、逃げるようにペットコーナーの方へと走っていった。
「なんだ、あいつ。ほんと、ガキみたい。逃げてばっかり」
真理は倒れたパイプ椅子をヒールで蹴り直し、呆れたように息を吐いた。
しかし、その目は笑っていなかった。
遠くで、健一が奈緒に声をかけている。
奈緒が驚いたように振り返り、健一が何かを言いながら、ぎこちない手つきでホースを受け取る。
水跳ねを気にしながら、二人が笑い合う姿が見えた。
奈緒がクスリと笑い、健一も照れくさそうに頭を掻きながら笑い返す。
その光景から、真理は目を逸らすことができなかった。
胸の奥で、ジリジリと何かが焦げるような痛みが走る。
その痛みの正体が何なのか、真理自身にも分かっていなかった。
いや、分かっているのに認めたくないだけだった。
「真理ちゃんも、素直じゃないねえ」
洋子ママが、カウンターを布巾で拭きながらボソリと言った。
「は? 何が?」
「ほんとは、健一にあんな女のところ行ってほしくないんだろ? 真っ赤な服着て、精一杯気を引こうとしたって、あの子は鈍感だから気づかないよ。あんたのその武装は、下界の男には通用しても、あの子には通用しないんだよ」
「・・ ママ、変な勘違いしないでよ! 私があんな情けない男をどうこうしようなんて、一ミリも思ってないわよ! 私はただ、幼馴染として、現実を見なさいって忠告してあげてるだけで・・」
「はいはい。そういうことにしておくわ。でもね、あんまり強がってると、本当に大切なものを失っちまうよ。素直になれないのは、あんたの弱ささ」
洋子ママは豪快に笑い飛ばし、新しいうどんの麺を湯に放り込んだ。
隣でうどんをすすっていたミカが、ポツリと呟いた。
「・・なんか、下界より、屋上のほうがよっぽどドロドロしてるじゃないですか。全然オアシスじゃない。これじゃ休憩にならないですよ」
「うるさいわね、制服ちゃん! 文句があるなら早くうどん食べて下界に戻りなさいよ!」
真理は怒鳴り散らしながら、真っ赤なスーツの裾を強く握りしめた。
夕日に照らされた真理の姿は、まるで燃え上がる火の玉のようだった。
スナックコーナーに現れた、赤い彗星。
その苛立ちは、自分でも制御できないほどに膨れ上がり、不器用な三角関係をさらに複雑なものへと焦がしていった。
遠くでは、健一と奈緒の間に流れる穏やかな時間が、真理の焦燥感をますます煽るように、静かに続いていた。




