第3話 狂乱の足音とパンダの左曲がり
デパートの屋上の片隅、スナックコーナーの横には、緑色の公衆電話が一台だけポツンと置かれている。
昭和六十三年。
街中のどこにでも電話ボックスがあり、人々はテレホンカードの残数を気にしながら早口で言葉を交わしていた。
ダブルのスーツを着た中年のサラリーマンが、受話器を肩に挟みながら、緑色の電話機にテレホンカードを滑り込ませた。
ジ、という機械音がして、液晶パネルの数字が減っていく。
カードの表面には、不自然なほど日焼けした水着のアイドルの写真が印刷されていた。
「だから、あのゴルフ会員権は今が買い時だって言ってるじゃないか。二千万? 安いもんだよ。来月には三千万になる。・・ああ、融資の件はうちの支店長がなんとかするから」
大声で交わされる会話は、下界の狂騒をそのままこの空に近い場所に持ち込んだようだった。
二千万、三千万という数字が、風に乗って流れていく。
小林健一は、その声を聞き流しながら、目の前のパンダカーの底面に潜り込んでいた。
右手に握っているのは、油まみれのプラスドライバー。
二千万円のゴルフ会員権の契約がまとまろうとしているその十メートル横で、健一は一回百円の乗り物の修理に悪戦苦闘している。
「違う、そこじゃねえ。もう少し奥のギアだ」
隣で寝転がっている辰じいが、苛立たしげに舌打ちをした。
「奥って言っても、手が届かないですよ」
「指先で探れ。目で見るな。手触りでギアの噛み合わせを感じるんだよ」
言われた通りに指を伸ばすが、べっとりとついた古いグリスが邪魔をして、部品の境目がよく分からない。
パンダカーは、昨日から完全に動かなくなっていた。
百円玉を入れても、電子音すら鳴らない。
辰じいの診断によれば、左に曲がる癖を長年放置したせいで、駆動系のギアに無理な負荷がかかり、ついに噛み合わせが外れたのだという。
「だいたい、こんな古い機械、部品の替えなんてないんじゃないですか?」
顔に落ちてきた油の雫を手の甲で拭いながら言うと、辰じいは短い煙草を口に咥えたまま鼻を鳴らした。
「替えがなけりゃ作るんだよ。それが整備工ってもんだろ」
「でも、これだけガタがきてたら、新しいのを買った方が・・」
「バカ野郎」
辰じいの低い声が、サラリーマンの大声を一瞬だけかき消した。
「新しいのを買えば済む話なら、俺たちはここにいらねえんだよ。お前もな」
その言葉に、健一は息を呑んだ。
テレホンカードの度数が切れる音がした。
ピー、ピー、という甲高い警告音。
サラリーマンは慌てて財布から新しいカードを取り出し、古いカードと素早く差し替えた。
吐き出された古いカードには、使用済みを示す小さな穴が一列に並んで空いている。
穴の数は、その人間が費やした時間と情報の量だ。
空前の好景気の中では、情報は金と同義だった。
誰よりも早く情報を掴み、誰よりも早く電話をかける。
そのスピード競争から振り落とされた人間は、敗者として扱われる。
就職活動の面接会場で、健一が感じていた息苦しさは、まさにその「スピード」だった。
数秒で気の利いた答えを返し、自分を高く売り込む。
テレホンカードの度数が減っていくような焦燥感の中で、健一は言葉を失い続けた。
「ほら、そこだ。その六角ボルトを緩めろ」辰じいの指示に従い、ラチェットレンチを差し込む。
固く錆びついたボルトは、簡単には回らない。
体重をかけて押し込むと、ギギギ、という嫌な音を立てて、少しだけ動いた。
「よし、そのまま一気に回せ」言われるがままにレンチを動かすと、ようやくボルトが外れ、黒ずんだギアボックスが姿を現した。
中は、金属の削りカスと劣化したグリスでドロドロになっていた。
「ひどい有様だな」
辰じいが身を乗り出し、油まみれの指で直接ギアに触れた。
「長年、無理な体勢で走らされてたからな。左に曲がる癖を無理やり直そうとするから、余計に負担がかかったんだ」
「直そうとしない方が良かったんですか?」
「機械には機械の『都合』がある。生まれつき左に曲がりやすい設計になってるなら、その個性を殺しちゃダメなんだよ。人間様が無理やり真っ直ぐ走らせようとするから、こうして中身がぶっ壊れる」
辰じいは、ボロ布でギアの汚れを丁寧に拭き取りながら言った。
「人間も同じだ。無理やり自分を曲げりゃ、いつかどこかのギアが吹っ飛ぶ」
その言葉は、健一の胸の奥に深く突き刺さった。
自分を無理やり真っ直ぐ走らせようとして、壊れかけたのは自分自身だった。
リクルートスーツという窮屈な外装を纏い、面接官の望むような「真っ直ぐな若者」を演じようとした結果、就職戦線というコースの途中で動けなくなった。
「・・辰じい」
「あ?」
「俺も、ギアが外れてるんですかね」
辰じいは手を止めず、チラリと健一を一瞥した。
「お前はギアが外れてるんじゃねえ。最初から噛み合ってすらいねえんだよ」
身も蓋もない言い方だったが、妙に納得できた。
「だから、こうして油にまみれてんだろうが。今はとりあえず、このパンダのギアでも噛み合わせとけ」
「・・はい」
健一は新しいグリスを指に取り、ギアの隙間に慎重に塗り込んでいった。
一時間後。
組み直しが終わったパンダカーの前に、健一と辰じいが立っていた。
ポケットから百円玉を取り出し、祈るような気持ちでスリットに投入する。
チャリン。
一秒の沈黙の後、ガタッという音とともに、聞き慣れた電子メロディが流れ始めた。
『おもちゃのチャチャチャ』の、少し間の抜けた音色だ。
パンダカーは、時速四キロのゆっくりとしたスピードで、前進を始めた。
「動いた・・!」
声を上げると、辰じいは腕を組んで得意げに鼻を鳴らした。
「当たり前だ。俺を誰だと思ってやがる」
パンダカーは、ゆっくりと、しかし確実に前へ進んでいく。
そして、数メートル進んだところで、やはり少しずつ左へと軌道を描き始めた。
「結局、左に曲がるのは治ってないですね」
「それでいいんだよ。こいつはそういう星の下に生まれた機械だ」
左へ曲がりながらも、止まることなく進み続けるパンダカー。
その不器用な姿が、なぜかとても愛おしく思えた。
「直ったんですね」
背後から、不意に声がした。
振り返ると、相原奈緒が立っていた。
いつもの白い割烹着姿。
手には、小鳥の餌が入ったバケツを持っている。
「奈緒さん。ええ、なんとか」
奈緒は、ゆっくりと円を描いて走るパンダカーを見つめ、ふっと柔らかく微笑んだ。
「左に曲がりながらでも、ちゃんと進んでる。なんだか、勇気が出ますね」
その言葉に、ハッとした。
奈緒もまた、この不器用な乗り物に何かを重ね合わせているのだろうか。
「そうですね。不格好ですけど、立ち止まってるよりはずっといい」
そう言うと、奈緒は静かに頷いた。
秋の西日が、二人の横顔をオレンジ色に染めている。
パンダカーの電子メロディが、二人の間に流れる穏やかな時間を優しく包み込んでいた。
「ちょっと、何やってんのよ。みっともない」
雰囲気を切り裂くような、鋭い声だった。
非常階段の方から、野村真理が歩いてくる。
今日は一段と派手だった。
紫色の鮮やかなボディコンシャスなスーツに、大振りのゴールドのイヤリング。
肩には、黒いキルティングのチェーンバッグが揺れている。
誰が見ても、これから六本木か赤坂のディスコへ繰り出す「時代の最先端を行く女」だった。
「真理・・お前、その格好」
「仕事終わりだもの。今日はこれから、商社の男たちとマハラジャでパーティーなのよ。健ちゃんたちみたいに、夜まで屋上で油売ってる暇はないの」
真理は、わざとらしくヒールを鳴らして二人に近づいた。
香水の匂いが、屋上の空気を一瞬で塗り替える。
「パーティーって、お前、そんな柄じゃないだろ」
「柄とか関係ないの。時代に乗れる時に乗っておかないと、損でしょ。・・で? 壊れたおもちゃが直ったからって、二人で感動のご対面?」
真理の視線が、奈緒へと向けられた。
奈緒は餌の入ったバケツを両手で持ち直し、小さく会釈した。
「お疲れ様です、野村さん」
「・・お疲れ様。相変わらず、地味なエプロンね。そのままじゃ、どこにも遊びに行けないじゃない」
真理の言葉には、明らかな棘があった。
奈緒の静かで飾らない佇まいが、真理の過剰な武装を際立たせてしまっていることに、真理自身が気づいているからだ。
「遊びに行く予定は、ありませんから。鳥たちの世話がありますし」
奈緒は、真理の刺々しい言葉を波風一つ立てずに受け流した。
その大人びた態度が、真理の苛立ちをさらに煽る。
「そう。大変ね、生き物相手は。私には絶対無理だわ」
真理はふい、と顔を背け、健一を見た。
「健ちゃんも、いつまでもこんな泥臭いことやってないで、少しは世間を見なさいよ。今夜、私の友達紹介してあげようか? いい刺激になると思うけど」
「俺はいいよ。ディスコなんて行ったって、隅っこで壁になってるだけだし」
「相変わらず卑屈ね。そういうところがダメなのよ」
真理は畳み掛けるように言ったが、健一の視線はすでに真理から外れ、奈緒の方へと向いていた。
奈緒が持っているバケツが少し重そうに見えたからだ。
「手伝いますよ、奈緒さん。そのバケツ」
「あ、大丈夫ですよ。そんなに重くないですから」
「でも、さっき腕を痛そうにしてたじゃないですか。貸してください」
自然な動作でバケツを受け取ると、奈緒は少しはにかんで「すみません」と頭を下げた。
二人の間に流れる、ごく自然で温かい空気。
それは、真理がどれだけ派手な服を着ても、どれだけ大きな声を出しても、決して入り込むことのできない領域だった。
真理は、チェーンバッグの紐をギュッと握りしめた。
胸の奥で、ドロドロとした黒い感情が渦を巻いている。
なんだろう、これは。
ただの幼馴染だ。
冴えない、優柔不断で、就職もできなかった落ちこぼれ。
自分とはもう、住む世界が違うはずの人間。
なのに、なぜあんな地味な女に向けられる笑顔に、これほど胸がざわつくのか。
「・・もういいわ。勝手に油にまみれてれば」
真理は踵を返し、非常階段の方へ向かって歩き出した。
カツカツ、カツカツ。
怒りをぶつけるようなヒールの音が、屋上に響く。
「真理、気をつけて帰れよ」
健一の呑気な声が背中から聞こえたが、真理は振り返らなかった。
振り返れば、自分の顔がひどく歪んでいることに気づかれてしまうから。
鉄扉を乱暴に開け、階段を下りた。
胸のざわつきは、収まるどころかますます大きくなっていた。
屋上では、パンダカーの『おもちゃのチャチャチャ』が、まだ途切れ途切れに鳴り続けていた。
真理の足音を追いかけるように、その電子メロディはいつまでも響いていた。




