第2話 非常階段のぬるい缶コーヒー
夜間作業の終わりは、いつも前触れもなく訪れる。
空の東端が白み始めると、屋上の空気を支配していた油と錆の匂いが、朝の冷たい風によって少しだけ薄められる。
気温が下がり、コンクリートの床にうっすらと夜露が降りる時間。
徹夜で、色褪せた観覧車のゴンドラを磨いていた。
手に持ったウエスは昨夜よりもさらに黒く重くなり、絞れば真っ黒な油滴が垂れそうだった。
指の関節は寒さと疲労で強張っている。
軍手を外すと、爪の間にまで油汚れが入り込んでいた。
洗っても、もう完全には落ちない汚れだ。
午前六時。
デパートの下の道路では、始発のバスが重いエンジン音を響かせて通り過ぎていく。
タイヤがアスファルトを擦る音。
遠くで鳴るトラックのクラクション。
街が目を覚ます音。
バブルの狂乱の中で、誰もが急いでいる。
少しでも早く、少しでも先へ。
そんな下界の焦燥感から切り離されたこの場所で、一人でウエスをバケツに投げ込んだ。
水面が揺れ、油の膜が虹色に光る。
吐く息は白く、作業着の薄い生地を通して冷気が肌を刺した。
バケツの横には、使い古された真鍮のブラシや、油差しが転がっている。
これらもすべて、辰じいが何十年も使い込んできた道具たちだ。
柄の部分は手垢で黒光りし、持ち主の指の形に合わせて微妙にすり減っている。
そんな道具たちを片付けながら、自分の手がまだ何も生み出していないことに気づかされる。
自動販売機の前に立った。
塗装の剥げた、古いタイプの赤い自動販売機。
「あたたかい」と書かれたランプが、薄暗い中で鈍く光っている。
ポケットから百円玉を取り出した。
冷え切った指先で、硬貨を投入口に押し込む。
チャリン、という軽い音。
ボタンを押すと、ガコン、という無愛想な音とともに、赤い缶コーヒーが転がり出てきた。
続けてもう一枚入れ、同じようにもう一本の缶コーヒーを買う。
当時はまだ、プルタブを完全に切り離すタイプの缶だった。
リングに人差し指を引っかけ、力を込めて引きちぎる。
プシュ、という短い音と一緒に、甘い珈琲の匂いが漂った。
切り離された金属のリングをポケットに突っ込む。
ポケットの中には、これまで引きちぎった幾つものリングが溜まっていた。
熱い缶で、両手を包むようにして温める。
向かう先は、いつもの場所。
屋上の北端にある、非常階段の踊り場。
そこは、デパートの従業員たちすら滅多に立ち入らない、完全な死角だった。
重い鉄の扉を押し開けると、冷たい風が顔を叩いた。
手すりには赤茶けた錆が浮き、階段の隅には枯れ葉が吹き溜まっている。
冷たいコンクリートの段差に腰を下ろし、甘すぎる珈琲を喉に流し込む。
胃の腑がじんわりと熱くなる。
徹夜明けの体には、この安っぽい甘さが丁度良かった。
遠くの空には、まだ明け残る月が白く浮かんでいる。
下界の騒音が少しずつ大きくなっていくのを背中で聞きながら、空になった缶の底を見つめていた。
ガチャリ。背後で、重い鉄扉が開く音がした。
振り返ると、白い割烹着姿の女性が立っていた。
相原奈緒だった。
手には、小さなちりとりと箒を持っている。
髪は後ろで無造作に束ねられ、化粧の気配はない。
寝起きのままのような、飾らない姿だった。
「あ・・小林さん」
少し驚いたように目を丸くし、それから控えめに会釈した。
「おはようございます」
「おはようございます。早いですね」
「鳥たちの世話があるので。朝一番にケージの掃除をしておかないと、開店に間に合わなくて」
奈緒はちりとりを壁際に立てかけ、非常階段の冷たい風に身をすくめた。
薄い割烹着一枚では、十月の朝風は冷たいはずだ。
「ここは、風が通りますね」
「寒いですよ。よかったら、これ」
横に置いてあった、もう一つの缶コーヒーを差し出した。
まだプルタブを開けていない、熱い缶だ。
「・・ありがとうございます。いただきます」
奈緒は少し躊躇ってから缶を受け取り、少し離れた段差に腰を下ろした。
カチッ、とプルタブを引きちぎる音が響く。
二人の間には、コンクリートの階段三段分の距離があった。
下界では、通勤電車の走る音が徐々に間隔を狭めている。
しかし、この踊り場だけは、深い静寂に包まれていた。
「夜勤、お疲れ様でした。今日は冷えましたね」
奈緒が缶コーヒーを両手で包み込みながら言った。
手元の缶から、白い湯気が微かに立ち上っている。
奈緒の手元を見ると、小鳥に引っ掻かれたのか、指先に小さな赤い傷がいくつかあった。
「ええ。観覧車のゴンドラを磨いてたんですが、途中から指の感覚がなくなってきて。最後の方は、自分が何を拭いてるのか分からなくなりましたよ」
「観覧車・・。あそこの一番上から見る景色、どんな風なんでしょうね」
奈緒が少しだけ空を見上げた。
「俺も乗ったことはないんです。いつも外側から拭いてるだけで。中に入ったことは一度もありません」
「そうなんですか。なんだか、不思議ですね。毎日触れているのに、乗ったことがないなんて」
奈緒は小さく笑った。
その笑顔は、朝の光の中では少しだけ透き通って見えた。
「奈緒さんは・・」
「はい」
「その、鳥の世話、大変じゃないですか。朝も早いし。生き物相手だと、休みもないでしょう」
奈緒は手元の赤い缶を見つめ、少しだけ間を置いた。
「大変なこともあります。でも、鳥たちは嘘をつきませんから。ちゃんと世話をすれば、きれいな声で鳴いてくれます。・・実家の商売とは、違って」
後の言葉は、風の音に紛れるほど小さかった。
実家の事情で短大を中退したということは、風の噂で聞いていた。
バブルの狂乱の中で、恩恵を受ける者もいれば、波に飲み込まれていく者もいる。
奈緒の実家がどちらだったのか、深く聞くことはできなかった。
聞いてはいけない気がした。
他人の領域に踏み込む権利が、今の自分にはないような気がしていたから。
「・・俺は」
沈黙を埋めるように、口を開いた。
「俺は、何十社も面接に落ちて、ここに流れ着きました。人間相手の面接で、嘘をつくのが下手だったみたいで」
自分からそんなことを話したのは、初めてだった。
親にも、辰じいにも、ましてや幼馴染にも言えなかった本音だった。
奈緒は何も言わず、ただ静かに耳を傾けている。
その静けさが、ひどく心地よかった。
「辰じいが言ってたんです。機械は嘘をつかないって。鳥も同じなんですね」
奈緒はゆっくりと頷いた。
「はい。同じだと思います」
二人の視線が交差する。
三段分の距離が、少しだけ縮まったような気がした。
その時。
カン、カン、カン。
非常階段の下から、硬い靴音が響いてきた。
リズミカルで、迷いのない足音。
ヒールの音。
従業員用の通路から、誰かが上がってくる。
階段の踊り場から下を覗き込むと、鮮やかなグリーンのスーツを着た女が、足早に階段を上ってくるところだった。
野村真理だった。
「・・真理?」
思わず声を上げると、真理は顔を上げ、不機嫌そうに眉をひそめた。
「ちょっと健ちゃん、なんでこんな所にいるのよ。探したじゃない」
息を少し切らしながら、踊り場にたどり着いた。
朝の冷気の中に、高級な香水の匂いが広がった。
完璧にセットされたソバージュヘア。
肩から提げたブランド物のバッグ。
耳元には、朝日に反射して光る大振りのイヤリング。
これから「戦場」へ向かう、武装したOLの姿だった。
「なんでって・・ここで休憩してたんだよ。お前こそ、仕事前になんでこんな所に。駅の方向、逆だろ」
「おばさんに頼まれたのよ。『健一が弁当忘れていったから届けてやって』って。ほんと、出勤前にいい迷惑」
真理は持っていた唐草模様の風呂敷包みを、無造作に膝に押し付けた。
「悪い。わざわざ」
「別にいいわよ。・・で?」
真理の視線が、三段上に座っている奈緒へと向けられた。
奈緒は小さく会釈した。
真理は一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに冷たい笑みを浮かべた。
「朝から随分といいご身分ね。夜勤明けのバイト君と、鳥の世話係さん? 世間のサラリーマンが満員電車に押し潰されてる時間に、のんきに缶コーヒーで朝食会?」
トゲのある言葉だった。
奈緒は、ただ静かに視線を落とした。
「おい真理、言い過ぎだろ」
咎めると、真理はフンと鼻を鳴らした。
「事実でしょ。いいわね、気楽な稼業は。こっちはこれから、総合職の男たちのために、机を拭いてお茶を淹れる作業が待ってるのよ。お湯の温度が少しでも低いと、支店長が機嫌悪くするんだから」
真理の口調は早口で、どこか焦燥感を帯びていた。
その言葉の端々に、隠しきれない苛立ちが滲んでいる。
派手なスーツを着て、流行の最先端を歩いているように見えて、真理もまた、理不尽なシステムの中で擦り減っているのだ。
机拭きとお茶汲み。それが、彼女に与えられた「仕事」だった。
「・・大変だな。お前も」ぽつりと言うと、真理はハッとしたように口を噤んだ。
同情されたことが、プライドを傷つけたのかもしれない。
真理は、見えない埃を払うようにスーツのスカートを軽く叩いた。
「別に、大変じゃないわよ。・・それより、早くその汚い作業着脱いで、まともな服着なさいよね。じゃあね」
真理は踵を返し、足早に階段を下りていった。
カツカツというヒールの音が、少し乱れているように聞こえた。
真理の姿が見えなくなると、踊り場には再び静寂が戻ってきた。
遠ざかる足音と、下界から聞こえる車の走行音。
「・・すみません。あいつ、口が悪くて」謝ると、奈緒は静かに首を振った。
「ううん。・・きれいな人ですね。野村さん」
奈緒の声には、微かな羨望が混ざっているように聞こえた。
「きれい・・かな。昔から知ってるから、口うるさいお節介焼きにしか見えなくて」
奈緒は缶コーヒーを両手で包み直した。
「彼女も、戦っているんですね。自分の居場所で」
奈緒の言葉に、ハッとした。
真理も戦っている。
奈緒も戦っている。
では、自分は?
手の中の缶コーヒーは、もうすっかり冷めていた。
空を見上げると、朝はもう始まっていた。
眩しい光が、コンクリートの踊り場を白く照らし出す。
デパートの開店を知らせるチャイムが、遠くの方で鳴り始めた。
「・・戻ります。鳥たちが、お腹を空かせているので」
奈緒が立ち上がり、空になった缶をゴミ箱に捨てた。
「あ、はい。お疲れ様です・・」
奈緒の後ろ姿が見えなくなるまで、動けなかった。
膝の上の弁当包みが、少しだけ重く感じられた。
地上八階の非常階段。
ここから一歩も動けないまま、また新しい一日が始まろうとしていた。




