第1話 地上八階、時速四キロの就職口
油と錆の匂いは、地上三十メートルの風に吹かれても消えない。
昭和六十三年の十月。
空はどこまでも青く抜けていて、見下ろせば街中が熱気に浮かれていた。
テレビをつければ、信じられないような高値で株が買われている。
誰もが右肩上がりの夢を信じて疑わない。
スクランブル交差点を急ぎ足で渡る男たちは、一様に肩幅の広いダブルのスーツを着込み、脇には分厚いシステム手帳を抱えている。
女たちは前髪を高く立ち上げ、鮮やかな原色の服で夜の街を闊歩する。
けれど、東十条にある老舗デパート『松坂屋百貨店』の屋上だけは、時のエアポケットに取り残されたように静まり返っていた。
小林健一は、黒ずんだウエスを手に、プラスチック製のパンダの背中を磨いていた。
パンダといっても、動物園にいる笹を食む生き物ではない。
百円玉を背中のスリットに投入すると、不器用な電子音を響かせながら時速四キロでノロノロと動く、コイン式のバッテリーカーだ。
背中の白い塗装はすっかり剥げ落ち、下地のくすんだ灰色が露出している。
耳の部分は、誰かにかじられたように欠けていた。
ウエスで強くこすると、ただでさえ薄い塗装がさらに剥がれそうになる。
健一の手元は自然と及び腰になった。
ウエスについた黒い汚れは、真下の道路から立ち上る排気ガスと、風に乗ってきた砂埃が混ざった屋上特有の垢だった。
何度拭いても、パンダは新品には戻らない。
ただ、少しだけマシになるだけだ。
少しだけマシにするために、健一の時給六百円の時間が費やされている。
健一は今年で二十二歳になった。
春に四年制の大学を卒業したが、就職先は決まらなかった。
正確に言えば、決まらなかったのではなく、決めることができなかった。
何十社と面接を受けた。
履歴書を書き、志望動機をひねり出し、面接官の目を見てハキハキと答える練習をした。
しかし、面接の途中でいつも息が詰まった。
「我が社に入って、君は何を成し遂げたいのか」
そう問われるたび、頭の中は真っ白になった。
成し遂げたいことなど、何もなかったからだ。
ただ、普通に生きて、普通に給料をもらって、普通に歳を取りたかった。
だが、この狂騒の時代において、「普通」は最も価値のない言葉だった。
結果として、手元には不採用通知の山だけが残った。
同級生たちが真新しいスーツを着て満員電車に揺られている間、健一はこの吹きさらしの屋上で、パンダの背中を拭いている。
それが悲劇かと言えば、そうでもない。
むしろ、結果が出る前の息苦しさから解放され、少しだけ安堵すらしていた。
就活というゲームから降りた人間にとって、ここは悪くない場所だった。
「おい健一、ボーッとしてねえでスパナ寄越せ。十ミリだ、十ミリ」
低くしゃがれた声に背中を小突かれ、健一は慌てて工具箱に手を突っ込んだ。
「あ、はい。・・ええと、辰じい、十ミリってどれでしたっけ」
「バカ野郎、手のひらで覚えろって言ったろ。頭ばっかりデカくて四大学出たってよ、ネジ一本締められねえんじゃ、そこらのスズメのほうがまだ役に立つぞ」
耳に赤鉛筆を挟み、油じみた作業着を着た辰巳虎造が、ぎょろりとした目で睨みつけた。
今年で六十四歳。
定年をとっくに過ぎてなお、この屋上遊園地の遊具を一手に引き受けている専任の整備工だ。
健一は小さく頭を下げ、冷たい金属のスパナを渡した。
辰じいは無言でそれを受け取ると、ひっくり返ったパンダカーの底面に潜り込んだ。
カチャリ、カチャリと、油まみれの歯車を回す音が響く。
辰じいの手は、節が太く、指先には黒い油が染み付いて洗っても落ちない色になっていた。
何十年も、機械と向き合ってきた手。
「・・それにしても辰じい、こいつ、本当に直るんですか」
おずおずと尋ねると、辰じいはスパナを動かす手を止めずに鼻を鳴らした。
「直らねえ機械があるかよ。人間と違ってな、油を差して歯車を噛み合わせてやりゃ、機械は絶対に嘘をつかねえんだ」
辰じいはぷすぷすと煙草の煙を吐き出しながら、モーターの奥に指を突っ込んだ。
「だがまあ、こいつは頑固だ。昔からまっすぐ走らねえ。右の車軸が少し狂っててな、どうしても左へ、左へと曲がっちまう」
「左へ曲がるパンダ・・。なんか、俺みたいですね」
自嘲気味に呟くと、辰じいはパンダの下から顔を出し、呆れたようにため息をついた。
「へっ、お前なんぞと一緒にすんな。こいつは客を乗せてりゃ、曲がりながらでも前に進む。お前はただ立ち止まって、世間の尻を眺めてるだけじゃねえか」
痛いところを突かれ、健一は押し黙った。
返す言葉がない。
確かに、立ち止まっている。
就職のレールから外れ、どうしていいか分からないまま、とりあえず目の前のパンダを拭いているだけだ。
前にも進めず、かといって後戻りもできない。
地上八階という、空にも地面にも属さないこの中途半端な場所が、今の自分にはひどく居心地が良かった。
パンダの背中を拭く手には、もう力が入っていなかった。
黒ずんだウエスをバケツの水でゆすぐ。
水面に、作業着姿の情けない男の顔が映っている。
ため息をついて顔を上げた。
視界の端で、色褪せた観覧車のゴンドラが、風に吹かれてギイと小さく鳴った。
ガチャリと、非常階段の重い鉄扉が開く音がした。
「健ちゃん! また油まみれになってんの? みっともない」
カツカツと小気味のいいヒールの音を響かせて現れたのは、野村真理だった。
肩パッドの入った鮮やかなグリーンのスーツに、丁寧にブローされたソバージュヘア。
唇には濃い赤のルージュ。
大手都市銀行の紙袋を誇らしげにぶら下げた幼馴染は、屋上の埃っぽさを嫌うように鼻にシワを寄せる。
近づいてくると、油と錆の匂いの中に、香料の強いシャンプーの匂いが混ざった。
「朝シャン」という言葉が流行り始めた頃だ。
毎朝、髪を洗い、念入りにセットしてから出勤する。
それが、時代の最先端を走るOLの身だしなみだった。
「真理・・お前、仕事は?」
「とっくに終わったわよ。健ちゃんと違って、世の中のOLはアフターファイブってものがあるの。はいこれ、おばさんに頼まれた晩ごはんのおかず。ついでに寄ってあげたんだから、感謝しなさいよね」
銀色のアルミホイルに包まれたタッパーを胸に押し付けながら、真理は不満げに息を吐いた。
タッパーはまだ、ほんのりと温かい。
「相変わらず、しけた場所ね。下はあんなに賑わってるのに、ここだけ時間が止まってるみたい」
真理は腕を組み、屋上を見渡した。
その言葉の通り、屋上は静かだ。
平日の夕方。
客の姿はまばらで、数台のバッテリーカーと、色褪せた観覧車、そして古びたメリーゴーランドが、夕日を浴びて長い影を落としているだけ。
「別にいいだろ。俺にはこれくらいが丁度いいんだよ」
タッパーを受け取りながら言うと、真理は柳眉を吊り上げた。
「丁度いいわけないでしょ。四大学まで出て、こんなところでバイトなんて。おばさんも心配してたわよ。健一はいつまであんなことやってるんだろうって」
言葉は、いつも容赦がない。
痛いところを的確に突いてくる。
だが、健一は知っていた。
この攻撃的な態度の裏には、真理自身の苛立ちが隠されていることを。
真理は大手都市銀行に就職したが、総合職ではない。
一般職だ。
いわゆる「腰かけOL」というやつで、今日任された仕事といえば、支店長の茶の温度調整と、伝票の束に真っ直ぐハンコを押すことだけだったはずだ。
総合職の同期の男たちが外回りで日焼けしていく中、真理の指先は朱肉の赤に染まるだけだ。
男性社員と同じように、あるいはそれ以上に優秀であっても、重要な仕事は任されない。
数年働いて、適当な社内の男を見つけて結婚し、退職する。
それが、会社から期待されている「キャリア」だった。
真理はそれに不満を抱いている。
時代は変わりつつあると言われているが、銀行という古い体質の組織では、女性はまだ花扱いでしかない。
ブランド品の紙袋を持ち歩き、派手な服を着るのは、その空虚さを埋めるための武装のようなものだ。
自分はただのお茶汲みじゃない。
時代に乗っているイケてる女だ。
そう自分に言い聞かせるための、鎧。
だからこそ、健一のふがいない姿を見ると、苛立ちが募るのだろう。
男なら、いくらでも上を目指せるのに。どうしてそんなところでくすぶっているのか、と。
「心配かけて悪いとは思ってるよ。でも、今はこれでいいんだ」
視線を逸らして言うと、真理は大きくため息をついた。
「ほんと、昔からそうよね。波風立てないように、ひっそり隠れてばっかり」
真理は作業着の袖口についた真っ黒な油染みを見た。
「そんなに汚れて。洗濯するおばさんの身にもなってよね」
「作業着なんだから仕方ないだろ」
「仕方ないって言葉、健ちゃん好きよね」
ふい、と顔を背ける。
その視線が、屋上の隅へと泳ぐ。
そこには、ひっそりと佇む『小鳥と鑑賞魚コーナー』があった。
夕暮れの西日を浴びながら、白い割烹着姿の女性が、鳥籠に一つずつ布のカバーをかけている。
相原奈緒。
風に揺れる短い黒髪を耳にかけ、小鳥に何かを囁きかけては、ふっと柔らかく微笑んでいる。
真理のような華やかさはない。
化粧も薄く、服も地味。
だが、夕暮れの光の中に溶け込むようなその静かな佇まいに、健一はいつも目を奪われていた。
視線が奈緒を追っていることに気づくと、真理は鼻で笑った。
「ふーん。今日もあの子を見てたわけ?」
「・・見てないよ」
慌てて否定すると、真理は意地悪く口角を上げた。
「嘘ばっかり。耳まで真っ赤よ。・・ま、私には関係ないけどね。でも健ちゃんには一生無理じゃない?」
「だから、違うって」
「せいぜいペンギンと油にまみれて、青春をドブに捨てればいいんじゃないの」
言い捨てると、ハイヒールを鳴らして踵を返した。
カツカツという足音が、非常階段の向こうへ消えていく。
その足取りは、来たときよりもどこかぎこちなく、苛立ちを隠せないように見えた。
残された香水とシャンプーの甘い匂いは、すぐに屋上の風に吹き飛ばされ、再び油と錆の匂いが戻ってきた。
タッパーの温もりだけが、手のひらに残っている。
「帰ったか、あのじゃじゃ馬」
辰じいがパンダの下から這い出しながら言った。
「ええ。相変わらず嵐みたいでしたよ」
「お前も大変だな。あんなのに好かれて」
「好かれてなんかいないですよ。ただの腐れ縁です」
苦笑すると、辰じいは煙草を携帯灰皿に押し付けた。
「鈍い野郎だ。機械の故障より分かりやすいサインが出てるってのによ。まあいい、今日の作業はここまでだ。片付けろ」
「はい」
ウエスをバケツに投げ込み、工具を片付け始める。
夕日がビルの谷間に沈みかけ、屋上の空が茜色から深い群青色へと変わっていく。
デパートの巨大なネオンサインが、ジジジという低い音を立てて点灯した。
赤い光が、色褪せた遊具たちを照らし出す。
ネオンの光は、少しだけ嘘くさい色をしている。
下界の狂騒をそのまま空に映し出したような、毒々しい赤。
工具箱を倉庫に運ぶ途中、ペットコーナーの前に立ち止まった。
奈緒は、最後の鳥籠にカバーをかけ終えたところだった。
「お疲れ様です」声をかけると、奈緒は振り返り、軽く会釈した。
「お疲れ様です、小林さん」
声は小さく、控えめだ。
小鳥のさえずりが、布の向こうからくぐもって聞こえる。
鳥の餌の匂いが、夜風に混ざってふわりと漂ってきた。
「もう閉めちゃうんですね」
「はい。鳥たちは夜、早く寝かせてあげないといけないので」
奈緒は鳥籠を愛おしそうに撫でた。
「今日は、よく鳴いてましたね。文鳥」
「ええ。天気が良かったからかもしれません。小林さんのところは、どうですか?」
視線が、ひっくり返ったパンダカーに向けられる。
「あいつですか。相変わらず左にしか曲がらないみたいです。辰じいが言うには、車軸が狂ってるらしくて」
「左にしか曲がらないパンダ・・ふふっ、なんだか可愛らしいですね」
小さく笑った。
その笑顔を見ると、胸の奥で何かが静かに波打った。
真理の笑顔が太陽だとしたら、奈緒の笑顔は月だった。
決して明るくはないが、暗闇の中でそっと足元を照らしてくれるような、そんな優しさがある。
奈緒もまた、この時代から取り残された人間の一人だった。
実家の事情で短大を中退し、ここで契約店員として働いている。
背負っているものは、就職浪人の健一よりも重いかもしれない。
それでも、いつも静かに微笑んでいる。
「置かれた場所で、ちゃんときれいな声で鳴く」
それが信条だと、いつか聞いたことがあった。
「・・奈緒さんは」
思わず口を開いていた。
「奈緒さんは、ずっとここにいるんですか」
質問の意図が自分でもよく分からない。
ただ、この静かな時間が、いつまでも続いてほしいと願っていた。
奈緒は少しだけ目を伏せ、鳥籠の縁を指でなぞった。
「分かりません」
その一言は、呼吸のように軽かった。
「家の事情もあって・・いつまで続けられるか。でも、私はこの屋上が好きです。静かで、誰も急いでいなくて」
「俺も、好きです。ここが」
言葉に、もう一度微笑んだ。
「うん」
それは返事というより、ただの相槌だったかもしれない。
だが、健一にとっては、それだけで十分だった。
起承転結の「結」がない会話。
それでも、心が通じ合ったような気がした。
二人の間に、静かな沈黙が降りる。
気まずい沈黙ではない。
屋上の風が隙間を埋めてくれる、心地よい沈黙。
遠くで、ゴオオという重低音が響いた。
見上げると、夕闇の空に、巨大なクレーンの腕が伸びていた。
駅前の再開発ビルを建設するためのものだ。
巨大な鉄の塊が、空を切り裂くように動いている。
クレーンの先端で、赤い航空障害灯がゆっくりと点滅している。
時代の足音は、確実にこの頭上まで迫っていた。
あと数か月もしないうちに、この屋上遊園地が取り壊され、きらびやかなビアガーデンに生まれ変わるという噂は、すでに健一の耳にも届いている。
この静かな場所は、もうすぐ消えてなくなるかもしれない。
左に曲がるパンダも、色褪せた観覧車も、奈緒の鳥たちも。
すべてが新しく塗り替えられていくかもしれない。
立ち止まっている時間すら、奪われようとしていた。
「おい健一! なに油売ってんだ! 早く来い!」
倉庫の方から、辰じいの怒鳴り声が聞こえた。
「あ、すみません! 今行きます!」
奈緒に軽く頭を下げ、辰じいのもとへ走った。
「どうしたんですか?」
「こいつだよ。百円玉が詰まりやがった」
辰じいが指差したのは、パンダカーの横にある別の遊具、電動ペンギンの乗り物だった。
投入口の奥に、銀色の硬貨が引っかかっているのが見える。
ポケットから、自分の百円玉を取り出した。
「ちょっと貸してください」
ペンギンの前にしゃがみ込み、投入口の角度を見定める。
親指の爪に百円玉を乗せ、スナップを利かせて弾いた。
就職活動では何の役にも立たなかった、唯一の特技。
履歴書の特技欄に書こうとして、三秒で消しゴムをかけた技。
チン、という甲高い音が響き、弾かれた百円玉が投入口の奥で詰まっていた硬貨に命中した。
見事なビリヤード。
二枚の硬貨が連なって奥へ落ちる音がした。
チャリン、チャリン。
次の瞬間、ペンギンカーから電子音の『おもちゃのチャチャチャ』が流れ始めた。
ガタガタと車体が震え、時速四キロの速度で、ペンギンがゆっくりと前進し始める。
どこか調子外れで、途切れ途切れのメロディ。
「おっ、直ったじゃねえか。お前、変な特技持ってんな」
辰じいが感心したように言った。
「これくらいしか、取り柄がないんですよ」
苦笑しながら、ノロノロと進むペンギンを見つめた。
不格好で、時代遅れで、誰の役にも立たない乗り物。
でも、今は動いている。
ただ前に進むだけで、こんなにも一生懸命だ。
ポケットの中で、残りの百円玉を握りしめた。
金属の冷たい感触が、指先に伝わる。
ただ、ここで立ち止まっていることしかできない自分。
それでも、この屋上にいる間だけは、自分が存在していると確かに感じることができた。
ネオンサインの赤い光の下、ペンギンカーはゆっくりと、左へ左へと曲がりながら進んでいった。




