第10話 日曜日、嘘のダブルデート
日曜日。
デパートの屋上遊園地が、家族連れやカップルで最も賑わう書き入れ時である。
夜間整備と平日の清掃をメインとする健一にとっては、数少ない完全休養の日だった。
木造モルタル築三十年の安アパート。
六畳一間の万年床で、健一は天井のシミをぼんやりと数えていた。
開け放した窓からは、近所の家から流れてくる日曜昼ののどかなバラエティ番組の笑い声や、どこかの母親が布団を叩くパンパンという音が聞こえてくる。
ぼんやりと、屋上で微笑む奈緒の顔を思い浮かべていた時だった。
玄関先に置かれた黒電話が、ジリリリリリ!と耳をつんざくようなベルの音を鳴らした。
「うわっ!」
飛び起きて受話器を取ると、不機嫌そうな女の声が鼓膜を打った。
『ちょっと健一! 何でこんなに出るの遅いのよ!』
「真理か・・お前なぁ、せっかくの休みに心臓止まるかと思ったぞ。どうしたんだよ」
『いいから、今すぐ新宿のアルタ前に来なさい。一時間後よ』
「はあ? なんで俺が」
『うちの銀行の同期の男が、急に風邪で合コン来られなくなったの! 男の数が一人足りないのよ! あんた、どうせ暇でしょ! 絶対来なさいよ、遅刻したら承知しないからね!』
ガチャッ、ツーツー。
有無を言わさぬ一方的な通話が終わった。
受話器を握りしめたまま、健一は深いため息をついた。
幼馴染の暴力的な誘いは、幼稚園の砂場時代から何一つ変わっていない。
渋々立ち上がり、押し入れを開ける。
バブルの好景気に湧く街中を歩くには、あまりにも貧相なワードローブ。
数年前に買った流行遅れのスタジアムジャンパーと、膝の抜けたジーンズしかない。
(・・まあいいか、どうせ数合わせのサクラだし)
健一は適当な服を突っかけ、重い足取りで新宿へと向かった。
休日の新宿は、圧倒的な人の波で溢れかえっていた。
東口の巨大なスクリーンの下には、待ち合わせをする若者たちがひしめき合っている。
男たちは肩パッドの入ったソフトスーツを着崩し、女たちはワンレン・ボディコンにシャネルのマトラッセのバッグを揺らしている。
その中、真理は一際目立っていた。
原色に近い真っ赤なボディコンシャスのワンピース、太いベルトでウエストを絞り、足元はピンヒール。
前髪を高く立ち上げたトサカ前髪は、スプレーでカチカチに固められている。
「遅い! あと五分遅れてたら殺してたわよ」
「無茶言うなよ、電話から一時間って・・お前、なんだよその格好。気合入りすぎだろ」
「当たり前でしょ! 今日の相手は一流商社の男たちなんだから。あんたこそ、何そのヨレヨレの服! 一緒に歩くこっちの身にもなりなさいよ」
真理は健一のスタジャンを忌々しげに睨むと、強引に彼の腕を引っ張った。
「いい? あんたは私の中学の同級生で、今は・・そうね、広告代理店でアルバイトしてるってことにしておきなさい。パンダカー磨いてるとか、絶対言っちゃダメだからね!」
「わかってるよ・・」
連行されたのは、歌舞伎町の入り口にある、薄暗い地下のカフェバーだった。
店内には、マイケル・ジャクソンの新曲が重低音で響き、天井ではミラーボールがギラギラと光を乱反射させている。
テーブルにはすでに、いかにも高給取りといった風情の、仕立ての良いスーツを着た男たちが三人と、真理の銀行の同期だという華やかなOLが二人座っていた。
「遅れてごめんなさぁい。こちら、助っ人で呼んだ小林くんでぇす」
真理は、健一の前で見せる凶暴な顔からは想像もつかないような、甘ったるい猫撫で声で健一を紹介した。
健一は顔を引きつらせながら、「ど、どうも」と頭を下げる。
テーブルの上には、カラフルなカクテルや、綺麗に盛り付けられたカルパッチョなどが並べられ、バブルの享楽的な空気が満ちていた。
合コンが始まると、男たちは自慢話と武勇伝のオンパレードだった。
「この前、会社の金で六本木を飲み歩いてさぁ」
「俺なんか、ボーナスでBMWの頭金入れちゃったよ」
真理や他のOLたちは「すごぉい!」「さすがですねぇ」と手を叩いて持ち上げる。
健一は完全に蚊帳の外で、端っこでちびちびとウーロン茶をすするしかなかった。
そんな時、真理の隣に座っていた、巻き髪の同期OL・沙織が、所在なげな健一に目を留めた。
「ねえねえ、小林くん? だっけ。広告代理店でバイトしてるんだって?」
「あ、はい・・まあ、少しだけ」
健一がしどろもどろに答えると、沙織は身を乗り出してきた。
香水のツンとした甘い匂いが漂う。
「すごーい、業界人なんだ! どんなタレントさんに会ったことある? 私、そういう仕事してる人って尊敬しちゃうな」
沙織は、健一の腕に軽くボディタッチをしながら上目遣いで微笑んだ。
普段、屋上の油まみれの男たち(主に辰じい)としか接していない健一は、パニックに陥った。
「い、いや! 俺なんて全然下っ端で、コピー取りとか、お使いばっかりで・・」
「うふふ、謙遜しちゃって。小林くんって、意外と可愛い顔してるよね。真理の同級生だっけ? 今度、二人で遊びに行かない?」
ドギマギして顔を真っ赤にする健一。
その瞬間。
ガンッ!
「痛っ!!」
テーブルの下で、健一の脛に鋭い痛みが走った。
真理がピンヒールの先端で、容赦なく健一の足を蹴り上げている。
「真理、お前・・」
健一が抗議しようと真理を見ると、彼女は般若のような顔で健一を睨みつけていた。
「沙織ぃ〜、こいつ全然ダメな男なんだから、やめといた方がいいよぉ? 仕事も続かないし、優柔不断だし、趣味は百円玉を弾いて自販機に入れることくらいしかないんだからぁ」
真理は甘い声のまま、健一を粉々に打ち砕く言葉を笑顔で放った。
「えー、でも私、小林くんみたいな純朴な感じの人、好きだよ?」
沙織が引き下がらずに健一に顔を近づけた瞬間、真理はカルーアミルクのジョッキをドン!とテーブルに叩きつけた。
「ダメなの!!」
「えっ?」
突然の真理の大声に、場が静まり返る。
「あっ、いや・・ほら、こいつ、今、好きな子がいて、その子に一途だから! ねえ、健一! 屋上の小鳥コーナーの、地味で大人しい子に首ったけなのよねえ!」
ヤケクソのように叫ぶ真理の言葉に、健一は頭に血が上った。
「おい真理! お前、なんで奈緒ちゃんを出すんだよ!」
「事実でしょ! あんたがデレデレしてるから、沙織が勘違いするんじゃない!」
「俺は別にデレデレなんてしてない! 大体、俺を呼んだのはお前だろうが!」
一流商社の男たちも、同期のOLたちも、突然始まった幼馴染の大ゲンカにポカンと口を開けている。
真理は怒りに任せて、ウオッカベースの強いカクテルをジョッキで一気に飲み干すと、バン!と立ち上がった。
「もういい! 私、帰る!」
真理はシャネルのバッグをひったくると、フラフラとした足取りで店を飛び出していった。 「あ、おい! 真理!」
健一は慌てて千円札を数枚テーブルに叩きつけ、「すいません!」と頭を下げて、真理の後を追った。
地下の階段を駆け上がると、新宿のネオンの海に、真っ赤なワンピースの真理がふらふらと歩いているのが見えた。
「おい、真理! 待てよ!」
健一が腕を掴むと、真理は「触らないで!」と振り払おうとしたが、足元がおぼつかず、そのまま健一の胸に倒れ込んできた。
強い酒の匂いと、高価な香水の匂いが混ざり合っている。
「バカ、飲みすぎだろ。なんであんなにキレるんだよ」
「・・うるさい。あんたのせいよ。あんたが、沙織なんかにヘラヘラ鼻の下伸ばしてるから・・」
真理の声は、いつもの勝気なトーンからは想像もつかないほど、弱々しく震えていた。
「とにかく、あっちの公園で少し休もう」
健一は、ぐったりとした真理の肩を抱え、近くの小さな公園のベンチに座らせた。
公園の周りには、建設途中のビルのクレーンが夜空に向かってそびえ立ち、遠くの道路からはタクシーを呼ぶ酔っ払いの大声が響いている。
狂乱のバブルの底で、この古びたベンチだけが、まるで屋上遊園地のように静かだった。
隣に座った真理は、膝を抱え、シャネルのバッグを胸に抱きしめるようにしてうつむいていた。
「・・私ね」
ぽつりと、真理が口を開いた。
「銀行に入って、親も親戚もみんな喜んでくれたの。『一流企業のOLだ、すごいわね』って」
健一は黙って、自動販売機で買った冷たい缶コーヒーを真理の頬に当てた。
真理はビクッと体を震わせたが、コーヒーを受け取り、プルタブをパキッと開けた。
「でもね、実際はただの『お茶汲みマシーン』よ。
朝一番に出社して、部長の机を拭いて、男の行員たちのために何十杯もお茶を入れて。
会議の資料を延々とコピーして、夕方になったら灰皿の吸い殻を片付けるの」
真理の言葉には、深い疲労と諦めが滲んでいた。
「同期の男たちは、どんどん重要な仕事を任されて、研修で海外に行ったりしてる。でも、私たち一般職の女は、どんなに成績が良くても、どんなに頑張っても、誰も仕事の中身なんて見てくれない。『女の子は若くて愛嬌があるのが一番だね』って、頭を撫でられるだけ」
真理は、缶コーヒーの表面に結露した水滴を、赤い爪の指先でなぞった。
「先輩たちに言われるの。『女の賞味期限はクリスマスケーキと同じ』だって。二十五歳を過ぎたら売れ残りで、価値がなくなるから、早くいい男を見つけて寿退社しなさいって。・・ふざけてるわよね。私、別に腰かけのつもりで入ったわけじゃないのに」
健一は、言葉を返すことができなかった。
ブランド品で身を固め、いつも自信満々に振る舞っていた真理。
彼女の鎧の裏側に、これほどまでの焦燥感と、女性としての尊厳をすり減らすような絶望が隠されていたとは、思いもしなかった。
「合コンだって、本当は行きたくない。でも、行かないと『付き合いが悪い売れ残り』って言われる。いい男を捕まえるのが、私の『仕事』みたいになってるのよ」
真理は自嘲気味に笑い、目尻に浮かんだ涙を指で乱暴に拭った。
「・・バカみたい。ブランド物の服着て、高い化粧品塗って、自分を高く売るために必死になって。自分がショーウィンドウに並んだ商品みたいで、吐き気がする」
夜風が、真理の固められた前髪を少し揺らした。
「・・なあ、真理」
健一が慰めの言葉を探そうとした時、真理が突然、健一のスタジャンの袖をギュッと強く掴んだ。
「健ちゃん」
真理は、真っ赤になった顔を上げ、潤んだ瞳で健一を見つめた。
「私・・怖いのよ。自分がどんどん、空っぽのマネキンみたいになっていくのが。誰も、本当の私を見てくれない。ただの『若い女の子』として消費され捨てられるのが怖いの」
真理の震える手が、健一の服を強く握りしめている。
「ねえ、健ちゃん・・。昔みたいに、私を一番にしなさいよ」
それは、プライドの高い真理が、初めて健一に見せた、剥き出しの弱音だった。
「幼稚園の時みたいに、一番に私を守ってよ・・。あの地味な小鳥の女じゃなくて、私を見てよ・・」
真理の瞳から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、赤いワンピースの膝を濡らした。
健一の心臓が、早鐘のように打ち始めた。
ドギマギして、どこを見ていいのかわからない。いつもの気の強い幼馴染が、すがりつくように泣いている。その脆さと、不器用な愛情表現に、健一の胸の奥がギュッと締め付けられた。
「真理、お前・・」
健一は、震えそうになる手を必死に押さえながら、真理の頭にポン、と不器用に手を乗せた。
「・・お前は、マネキンなんかじゃないよ。昔から、生意気で、口が悪くて、負けず嫌いで・・でも、誰よりも一生懸命な真理だろ」
健一の言葉に、真理はしゃくりあげながら、健一の胸に顔をうずめた。
「バカ・・健ちゃんのくせに、偉そうに・・」
ネオンの瞬く新宿の夜。
遠くでは、バブルの熱狂に踊る大人たちの喧騒が続いている。
しかし、この小さな公園のベンチには、健一と真理の、不器用で、どうしようもなくすれ違う二人だけの時間が静かに流れていた。
健一は、泣き疲れて眠ってしまった真理を背負いながら、夜道を歩いた。
彼女のシャネルのバッグが、健一の背中でコツン、コツンと揺れる。
(・・俺は、どうすればいいんだろう)
奈緒への純粋な想いと、幼馴染である真理の隠された孤独。
時速四キロの不器用な青春は、複雑なトライアングルの迷路で立ち止まれなくなっていた。




