第11話 夜間点検の幽霊騒ぎ
午後十時を回ると、デパートという巨大な箱は完全に動きを止める。
一階から七階までの華やかな照明はすべて落とされ、昼間は高級な香水や地下の惣菜の匂いが入り混じっていたフロアも、夜になればただの静まり返った暗闇の空間へと変貌する。
その暗闇を抜けた最上階、屋上遊園地は、さらに別の顔を持っていた。
街灯の光が届かない吹きさらしの屋上は、淡い月明かりと、遠くに見える新宿の高層ビル群の赤い航空障害灯だけが頼りだ。
昼間は子どもたちの歓声で賑わうパンダカーや木馬たちも、夜の闇の中では、魂を抜かれた抜け殻のように不気味なシルエットを描いて静まり返っている。
「・・おい、小林くん。そっちの入り口はちゃんと鍵閉まってるか?」
真鍮製の懐中電灯を震える手で握りしめながら、佐々木警備員が甲高い声で尋ねてきた。
「はい、佐々木さん。南側のシャッターも施錠よしです。異常ありませんよ」
健一が油まみれの作業着のポケットに手を突っ込みながら答えると、佐々木は大げさに咳払いをした。
佐々木は御年五十八歳。
「元・敏腕の交番勤務」を自称し、腰には重そうな特殊警棒を下げているが、実は極度の怖がりである。
特に、この夜の屋上遊園地を異常なほど嫌っていた。
「異常なし、異常なし、ね。結構なことだ。いいか小林くん、警察の基本は『かもしれない運転』だ。誰もいないかもしれないが、いる『かもしれない』。この暗闇に、よからぬ者が潜んでいる『かもしれない』からな!」
「はあ。でも佐々木さん、屋上なんて風が冷たいだけで、泥棒が盗むような高価なものなんて何一つないですよ」
「バカモノ。泥棒だけが不審者とは限らんのだ。ここにはな・・出るんだよ」
「出る?」
佐々木は声を潜め、懐中電灯の光を自らの顎の下から当てた。
昭和の怪談話の定番スタイルだ。
「昔、この屋上で迷子になったまま、親に見捨てられた子どもがいてな・・夜な夜な、泣きながらメリーゴーランドを回しに来るという噂が・・」
「やめてくださいよ、佐々木さん。ただでさえ寒いのに」
健一が苦笑した、その瞬間。
ガタンッ!
暗闇の奥、メリーゴーランドの方向から、硬い金属音が響いた。
「ひいぃっ!?」
佐々木が悲鳴を上げ、反射的に健一の背中にしがみついた。
元警察官の面影は完全に消えていた。
「ちょ、佐々木さん、痛い痛い! 首絞めないで!」
「で、出た! 絶対出たぞ! 小林くん、君、ちょっと見に行ってきなさい!」
「俺がですか!? あんた警備員でしょ!」
押し問答をしている間にも、カサッ、カサカサッ、という何かが蠢くような音が聞こえてくる。
さらに、懐中電灯の光の端で、白い影がフワリと宙を舞ったのが見えた。
「うわあああ! 白い服の女の子だ! 足がない!!」
佐々木は完全にパニックになり、健一を盾にしてガタガタと震え始めた。
健一も心臓がバクバクと鳴っていた。
霊感など全くないが、この暗闇と不気味なシルエットの中で白い影を見せられれば、嫌でも背筋が凍る。
しかし、盾にされている以上、確認しないわけにはいかない。
「だ、誰かいるんですか・・?」
健一は、その辺に転がっていたデッキブラシを構え、恐る恐るメリーゴーランドの方へと近づいた。
停止した木馬たちの隙間。
月明かりに照らされて、確かに白い影がしゃがみこんでいる。
「・・動くなっ!」
健一が半ばヤケクソで叫びながらデッキブラシを突き出した瞬間。
「ひゃあっ!」
白い影が、可愛らしい短い悲鳴を上げてビクッと肩を揺らした。
「・・えっ?」
「・・健一くん?」
暗闇の中で顔を見合わせた二人は、間の抜けた声を同時に上げた。
白い影の正体は、白いモヘアのカーディガンを羽織った奈緒だった。
彼女の手には、虫取り網のような小さな網が握られている。
「な、奈緒ちゃん!? なんでこんな時間に・・」
「ご、ごめんなさい! 驚かせるつもりじゃなかったの。実は・・」
奈緒が申し訳なさそうに網を下げると、その先にある木馬の耳の上に、一羽の白いオカメインコがちょこんと止まっていた。
「夕方のケージ掃除の時、一羽逃がしちゃって。どうしても見つからなくて、夜になれば大人しくなるかと思って、店長にお願いして鍵を開けてもらったの」
事情を聞いて、ようやく事態を飲み込んだ佐々木警備員が、健一の背中から離れて大きく咳払いをした。
「コホン。まったく、相原くん。夜間の立ち入りは原則禁止だぞ。もし私が本気を出して特殊警棒を抜いていたら、大惨事になっていたところだ」
「すみません、佐々木さん・・」
平謝りする奈緒を見て、健一は呆れ半分、安堵半分でため息をついた。
「まあ、不審者じゃなくてよかったじゃないですか。佐々木さん、あとは俺が手伝うんで、巡回の続きをお願いしますよ」
「うむ。そうだな。私は下の階の『重要保安区域』の警備に戻るとしよう。火の元だけは気をつけるようにな!」
佐々木は逃げるように踵を返し、早歩きで明るい階段の方へと消えていった。
警備員が去り、屋上には再び静寂が戻った。
遠くで車のクラクションが小さく聞こえる。
秋の夜風が、奈緒の柔らかな髪を揺らした。
「ごめんね、健一くん。お仕事の邪魔しちゃって」
「いや、俺は別にいいけど・・それより、あのインコ、どうやって捕まえるの?」
健一が見上げると、白いオカメインコはメリーゴーランドの中心に近い、高い装飾ポールの上に移動していた。
「暗闇なら鳥はあまり動かないんだけど、あの子、少し臆病で・・下手に追いかけると、屋上の外に飛んでいっちゃうかもしれない」
「そっか。じゃあ、俺がそーっと近づいて、上からこの上着を被せるよ。奈緒ちゃんは下で網を構えてて」
健一は着ていた作業着の上着を脱ぎ、ゆっくりとメリーゴーランドのステージに足を踏み入れた。
電気が落ちたメリーゴーランドの内部は、外から見るよりもずっと暗く、入り組んでいた。
馬車や木馬の隙間を縫うようにして、中心のポールへと近づいていく。
ギシッ、と古い床板が鳴る。
その音に驚いたのか、インコがバサッと羽ばたき、さらに奥の、木馬が密集している暗がりへと逃げ込んだ。
「あ、待って!」
奈緒も後を追い、木馬の隙間へと潜り込んでくる。
二人は、横並びに配置された三頭の木馬の間に、挟まれるようにして身を屈めた。
「しっ。あそこに」
健一が囁くと、奈緒がこくりと頷き、健一のすぐ横に並んだ。
その瞬間、健一の心臓が、先ほどの幽霊騒ぎとは全く別の理由で、激しく脈打ち始めた。
暗闇の中。
冷たい木馬の胴体に挟まれた、畳半畳ほどの狭い空間。
奈緒との距離は、ほんの数センチしか離れていない。
彼女が息をするたびに、白いカーディガンがかすかに健一の腕に触れる。
微かに漂ってくるのは、シャンプーの甘い香りと、石鹸の清潔な匂いだった。
それは、屋上に染み付いた油と鉄錆の匂いとは対極の、女の子の柔らかい香りだ。
(ち、近すぎ・・!)
健一は、自分の心音が奈緒に聞こえてしまうのではないかと気が気ではなかった。
極度の緊張で喉が渇き、呼吸が浅くなる。
奈緒の方をチラリと見ると、月明かりに照らされた彼女の横顔は、インコを見据えて真剣そのものだった。
長いまつ毛が瞬き、白い首筋が暗闇にふわりと浮かび上がっている。
眼下には、バブルの狂熱に浮かされる新宿のネオンサインが、まるで別世界のようにチカチカと輝いている。
しかし、このメリーゴーランドの暗がりだけは、完全に世界から切り離された二人きりの『密室』だった。
「健一くん、今だわ」
奈緒の小さな囁き声が、健一の耳元をくすぐった。
「あ、ああ、いくぞ」
健一は息を詰め、ゆっくりと手を伸ばした。
インコが羽を広げようとした瞬間、バサッ!と作業着を見事に被せることに成功した。
「捕まえた!」
「すごい、健一くん!」
暴れるインコを作業着ごと優しく包み込み、健一は大きく安堵の息を吐いた。
緊張の糸が切れた瞬間、どっと汗が吹き出してくる。
「よかった・・。これで、無事にケージに戻せるね」
奈緒は、インコを受け取ると、ホッとしたように微笑んだ。
その笑顔の距離の近さに、健一は再び慌てて視線を逸らした。
「お、おう。よかったな」
無愛想に答えるのが精一杯だった。
インコを無事にケージに戻した後、二人は非常階段の踊り場に腰を下ろした。
ここは、従業員だけが知っている、ちょっとしたサボり場所だ。
天井には、虫除けのオレンジ色の保安灯がボヤッと点灯しており、それが二人の顔に温かい影を落としている。
健一は、自動販売機で買ってきた温かい缶の『おしるこ』と『コーンポタージュ』を奈緒に差し出した。
「ほら、冷えただろ。好きな方選んで」
「ありがとう。じゃあ、おしるこにする」
奈緒はプルタブをカシュッと開け、両手で缶を包み込むようにして頬に当てた。
「はぁ、温かい。本当に助かったわ。健一くんがいなかったら、私、朝まで泣きながら探してたかも」
「大げさだな。でも、なんであんなに必死だったんだ? たかが鳥一羽・・って言ったら怒られるかもしれないけど、最悪、始末書書けば済む話だろ?」
健一がぽつりと言うと、奈緒は缶の口を見つめたまま、少し寂しそうに微笑んだ。
「・・あのインコね、一番小さくて、他の鳥からいじめられてばかりだったの。餌箱にも近づけなくて、いつもケージの隅っこで縮こまってて」
奈緒の静かな声が、非常階段に響く。
「でも、私が手のひらに乗せて餌をあげると、すごく一生懸命に食べるのよ。不器用で、臆病で、でも必死に生きようとしてる。それを見てたら・・なんだか、自分みたいだなって思って」
奈緒の実家は、地方で小さな町工場を営んでいたが、バブルの煽りを受けた大企業の強引な下請け切りに遭い、倒産寸前まで追い込まれたという。
その煽りで、奈緒は短大を中退せざるを得なくなり、東京の片隅のこのデパートで契約店員として働いている。
「世の中はこんなに景気が良くて、みんな楽しそうに高い服を買って、海外旅行に行ってるのにね。私だけが、そこからポツンと弾き出されて、忘れられちゃったみたい」
奈緒は、遠くのネオンサインを見つめた。
「だからかな。あの子が逃げた時、このまま暗闇の中に消えちゃったら、あの子の存在自体が最初からなかったことになっちゃう気がして。どうしても、見つけてあげたかったの」
いつも明るく振る舞っている奈緒が、初めて見せた深い『孤独』だった。
健一は、コーンポタージュの缶を強く握りしめた。
奈緒の言葉は、痛いほどよくわかった。
就職戦線で全敗し、同級生たちが立派な社会人として歩き出す中、自分だけが時速四キロのパンダカーに乗って、左へ左へと逸れ続けている。
誰も自分のことなんて見ていない。
誰からも必要とされていない。
そんな焦燥感と孤独感を、健一もずっと抱えていた。
「・・わかるよ」
健一は、ぽつりと呟いた。
「俺もさ、いつも思ってた。下の階の奴らは、みんな凄いスピードで進んでてさ。俺だけが、この屋上でずっと立ち止まってるみたいだって」
奈緒が、静かに健一の方を向いた。
オレンジ色の灯りの下で、彼女の瞳が潤んでいるのが見えた。
「でもさ」
健一は、言葉を探すように宙を見つめた。
「今日、奈緒ちゃんがあのインコを必死に探したみたいに・・どんなに小さくて不器用な奴でも、ちゃんと見ててくれる人はいるんだよな。俺が磨いてるこの遊具たちだって、辰じいがちゃんと『声』を聞いてやってる」
健一は、照れくさそうに頭を掻いた。
「俺も・・奈緒ちゃんのこと、ちゃんと見てるからさ。弾き出されてなんかいないよ」
健一なりの、精一杯の不器用な告白だった。
非常階段の風が、少しだけ止んだ。
奈緒は驚いたように目を丸くした後、ふわりと、花が咲くような柔らかい笑顔を見せた。
「ありがとう、健一くん。すごく、嬉しい」
奈緒が少しだけ体を寄せ、彼女の肩が、健一の作業着の袖に軽く触れた。
コーンポタージュの缶から伝わる熱よりも温かい温度が、袖口からじんわりと伝わってくる。
オレンジ色の保安灯の下。
冷たい秋の夜気の中で、二人は言葉を交わすことなく、お互いの体温と、少しだけ共有できた孤独の余韻を味わっていた。
遠くで、最終電車の走るガタンゴトンという音が規則正しく響いている。
狂騒から遠く離れたこの場所で、二人の距離は、時速四キロで確かに少しだけ近づいていた。




