第12話 金魚すくいと浴衣の綻び
一九八八年の夏。
アスファルトの照り返しが厳しくなり始めた七月の第一日曜日、デパートの屋上遊園地では恒例の『ちびっ子七夕まつり』が開催されていた。
普段はのんびりとしている屋上も、今日ばかりは下界の喧騒に負けない熱気に包まれている。
紅白の横断幕が張り巡らされ、スピーカーからは夏の定番であるTUBEのヒット曲が、少し音割れしながら陽気に流れていた。
ビニールプールに浮かべられた色鮮やかな水ヨーヨー。
氷柱の中に閉じ込められたオモチャ。
ガリガリと手回しの機械で削られるかき氷の、いちごシロップの甘ったるい匂い。
綿飴の機械がブーンと唸りを上げ、ガラス瓶に入ったラムネのビー玉がカランと涼しげな音を立てる。
バブル景気で海外旅行や高級リゾートがもてはやされる時代にあって、この屋上の七夕まつりは、まるで昭和三十年代から時計の針が止まったかのような、古き良き日本の夏祭りの風情を色濃く残していた。
健一は、汗で背中にへばりつく青い作業着の袖をまくり上げながら、かき氷機の氷を運んだり、ゴミ箱の回収に走り回ったりと、朝から息をつく暇もないほど働かされていた。
「ふう・・やっと一息つける」
夕暮れ時。
西の空がオレンジ色に染まり、屋上に吊るされた提灯にぽつぽつと明かりが灯り始めた頃、健一は自販機で買った缶のスポーツドリンクを喉に流し込んだ。
ふと視線を上げると、小鳥コーナーの前に設けられた特設の『金魚すくい』の屋台に、見慣れた、しかし全く見慣れない姿の女性が立っているのが目に入った。
「・・えっ」
健一は、手に持っていた缶を落としそうになった。
そこにいたのは、奈緒だった。
彼女は今日、いつもの地味な制服ではなく、浴衣姿で店番をしていた。
紺色の生地に、白く凛とした朝顔が描かれた、クラシックで清楚な浴衣。
普段は下ろしている柔らかな髪は、うなじが見えるようにきっちりと上に結い上げられ、銀色の小さなかんざしを挿している。
帯は淡い黄色で、彼女のほっそりとした腰のラインを上品に際立たせていた。
夕暮れの提灯の光に照らされたその横顔は、ため息が出るほど美しかった。
健一の心臓が、ドックン、と大きく跳ねた。
いつもは「優しい小鳥のお姉さん」という印象の奈緒が、今日ばかりは、手の届かない別世界の女性のようにハッとさせられる色香を放っていた。
健一は釘付けになり、情けないほどだらしない顔で奈緒の姿を見つめていた。
「・・ちょっと。何、鼻の下伸ばしてんのよ」
不意に、背後から鋭い声が飛んできた。
「うわっ!」
振り返ると、そこには眉を吊り上げた真理が立っていた。
健一は二度驚くことになった。
真理もまた、浴衣姿だった。
しかし、奈緒の清楚な装いとは対極にある。赤やショッキングピンクの極彩色で、大輪の牡丹の花がこれでもかと描かれた、バブル期特有の派手なデザイナーズブランドの浴衣だ。
帯は金糸が織り込まれた豪華なもので、背中には巨大な蝶々結びが作られている。
足元は、高い漆塗りの下駄。
ばっちりと決めた濃いめのメイクに、当時流行していた海外の重い香水の匂いが漂っていた。
「真理・・お前、なんでそんな格好で・・」
「なんでって、七夕まつりだからに決まってるじゃない。仕事帰りにわざわざ着替えてきてあげたのよ。それなのに、あんたはあっちの地味な浴衣ばっかり見て。ムカつく」
真理は、口を尖らせて健一の脛を軽く蹴った。
「いって! いや、別に見てたわけじゃ・・」
「嘘おっしゃい。よだれ垂れそうだったわよ」
真理はフンと鼻を鳴らすと、ツカツカと下駄の音を高く響かせて、奈緒のいる金魚すくいの屋台へと向かっていった。
「おい、真理! どこ行くんだよ!」
健一は慌てて追いかけた。
三人の、長く切ない夏の夜が幕を開けた。
「あら、相原さん。浴衣、よくお似合いね」
屋台の前に立った真理は、あからさまな対抗心を剥き出しにして、奈緒に声をかけた。
「野村さん。こんばんは」
奈緒は、真理の派手な浴衣と挑戦的な態度に一瞬目を丸くしたが、すぐにいつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「野村さんの浴衣、すごく華やかで素敵ですね。今年流行りの、デザイナーズブランドのものですか?」
「ええ、まあね。一応、伊勢丹の特設会場で一番高かったやつ。・・それより、金魚すくい、一回やらせてもらえる?」
真理は、財布から千円札をパチンと弾き出すようにして置いた。
「はい。一回百円になります」
奈緒がお釣りとポイ(紙の張られたすくい網)を渡すと、真理は派手な浴衣の裾を少し乱暴にまくり上げ、水槽の前にしゃがみ込んだ。
「見てなさい健一。私、こういうの得意なんだから。あの一番大きい出目金、取ってやるわ」
真理は自信満々にポイを水に突っ込んだ。
しかし、金魚すくいのポイは、高級ブランドの浴衣を着たプライドの高いOLに容赦はしない。
力任せに水をすくい上げようとした瞬間、和紙はいとも簡単に破れた。
「あれっ!? ちょっと、何これ! 不良品じゃないの!?」
真理が甲高い声を上げる。
「真理、お前、ポイは水の中で斜めに動かさないとすぐ破れるんだよ。力任せにやったらダメだ」
健一が横から口を挟むと、真理は「うるさいわね!」と健一を睨みつけた。
「もう一回! 相原さん、新しいのちょうだい!」
真理はムキになって、次々と百円玉を出した。
しかし、何度やっても結果は同じだった。
金魚は素早く逃げ回り、真理のポイは次々と破れていく。
「あーもう! イライラする!」
五枚目のポイが破れた時、見かねた奈緒が、ふわりと水槽の横にしゃがみ込んだ。
「野村さん。金魚は、水面近くに浮いてきたところを下からすくい上げるようにすると、紙に水圧がかからなくて破れにくいんですよ」
奈緒は、自分のポイを手に取ると、スッと音もなく水に忍ばせ、見事な手首の返しで、小さな赤い金魚をすくい上げてみせた。
「ほら、こうやって・・」
奈緒の無駄のない美しい所作と、余裕の笑顔。
それは、真理の癇に障るには十分すぎるほどの「完璧な振る舞い」だった。
「教えられなくたって、私にもできるわよ!」
真理はギリッと歯を食いしばり、新しいポイを水に突っ込んだ。
バブルの荒波の中で、男たちと肩を並べて生き抜こうと武装している真理にとって、この屋上という小さな世界で、しなやかに、自然体で生きている奈緒の存在は、どうしようもなくコンプレックスを刺激した。
「今度こそ!」
真理は、一番端を泳いでいた黒い出目金に狙いを定めた。
しかし、出目金はスルリと逃げ、水槽の奥へと向かう。
真理はそれに釣られて、無理な体勢で立ち上がろうとした。
「あっ」
ブチッ! 鈍い音とともに、真理の体が大きくグラついた。
高級な漆塗りの下駄の鼻緒が、無理な体重移動に耐えきれず、根元から引きちぎれた。
「きゃ!」
バランスを崩し、水槽に向かって倒れ込みそうになった。
「真理!」
間一髪、健一が腕を伸ばし、真理の肩を抱きとめた。
どんっ、と健一の胸に真理の顔がぶつかる。
海外製のきつい香水の匂いが、健一の鼻をかすめた。
「いっ、痛ぁ・・」
真理は、片足を引きずりながら、顔をしかめてしゃがみ込んだ。
「おい、大丈夫か? 捻挫したんじゃないか?」
健一が慌てて真理の足首を見ると、下駄の鼻緒は無惨に千切れ、真理の白い足袋には少し血が滲んでいた。
鼻緒が擦れて皮が剥けたらしい。
「最悪。せっかく高い下駄買ったのに」
真理は、千切れた鼻緒を見つめながら、ポツリと呟いた。
その声は、怒りよりも、みじめさに震えていた。
奈緒の前で完璧な自分を見せつけるはずが、無様な姿を晒してしまった。
その悔しさが、真理の目尻に涙を滲ませていた。
「野村さん、大丈夫ですか? 絆創膏、ありますよ」
奈緒が心配そうに駆け寄り、救急箱を差し出した。
しかし真理は、プイッと顔を背けた。
「いらない。平気」
強がる真理だが、立ち上がろうとした途端、「痛っ」と顔を歪めて再び座り込んでしまう。
とても自力で歩ける状態ではなかった。
「意地張るなよ。こんなんじゃ帰れないだろ」
健一はため息をつくと、真理に背中を向け、ひょいとしゃがみ込んだ。
「ほら、乗れよ」
「え」
「おんぶしてやるから。駅まで送ってく」
真理は目を丸くし、それから顔を真っ赤にして叫んだ。
「ば、バカじゃないの!? あんたなんかに背負われたら、私のブランドの浴衣に汗の匂いが移るじゃない!」
「いいから乗れ! 昔、木登りから落ちて足くじいた時も俺がおんぶして帰っただろ。今更なんだよ」
「あれは小学生の時でしょ!」
「いいから! ほら、早く!」
健一が強引に腕を引くと、真理は「もう、サイテー」と悪態をつきながらも、観念したように健一の背中に腕を回した。
「重いとか言ったら、殺すからね」
「言ってねえよ。ただ、香水キツいな、お前」
「うるさいっ!」
健一は、真理を背負ってゆっくりと立ち上がった。
「奈緒ちゃん、ごめん。こいつ、送っていくわ。店番、後片付け手伝えなくて悪い」
「ううん、気にしないで。気をつけて帰ってね」
奈緒は、手作りの小さな金魚の袋を二つ、そっと真理の手の届くところに差し出した。
「野村さん。これ、金魚すくいのオマケです。よかったら、おうちで飼ってあげてください」
袋の中では、小さな赤い金魚が一匹ずつ、涼しげに泳いでいた。
真理は、健一の背中からその袋を見つめ、複雑な表情を浮かべた。
勝気で武装した自分に対し、奈緒はどこまでも自然体で、柔らかく、そして底知れない強さを持っている。
自分がどんなに派手な浴衣を着ても、結局のところ、健一の視線の先にいるのは、この紺色の浴衣を着た女性なのだと、真理は痛いほどわかった。
「ありがと。もらっとくわ」
真理は、素直になれない小さな声でそう言い、金魚の袋を受け取った。
「じゃあな、奈緒ちゃん。また明日」
「うん。おやすみなさい」
健一は真理を背負い、七夕まつりの提灯の明かりの下を歩き出した。
スピーカーからのTUBEの音楽は、二人がエレベーターホールに向かうにつれて、少しずつ遠ざかっていく。
健一の背中の広さは、真理が記憶している『泣き虫健ちゃん』のときより、ずっと大きく、頼もしくなっていた。
大人の女性の香りがするのに、縮こまっている姿は、昔から変わらない幼馴染のままだ。
作業着越しの体温が、真理の胸にじんわりと伝わってくる。
「ねえ、健一」
真理は、健一の耳元で小さな声で囁いた。
「ん?」
「私、あの女のこと・・やっぱり好きになれない」
健一は苦笑しながら、少しだけ真理の体を背負い直した。
「お前な、奈緒ちゃんは何も悪くないだろ」
「わかってるわよ。・・わかってるから、腹が立つのよ」
真理は、健一の首元に少しだけ顔をうずめた。
エレベーターの扉が閉まる直前、真理は健一の肩越しに、屋上の方を振り返った。
金魚すくいの屋台の前で、奈緒がポツンと一人、こちらを見ていた。
奈緒の顔には、いつもの穏やかな微笑みがあった。
しかし、微笑みの奥に、ほんの少しだけ寂しそうな見えない炎のような色が揺らいでいるのを真理は見逃さなかった。
(なんだ。あの子だって、ちゃんと焦ってるじゃない)
完璧に見えた奈緒の中にも、自分と同じように、嫉妬や執着、そして『一歩踏み込めない孤独』があるのだと気付いた時、真理の胸のつかえが少しだけ下りた気がした。
エレベーターが屋上の喧騒を閉じ込めるように、静かに下へ降りていく。
狭い箱の中を満たしているのは、真理の甘い香水の匂いと、健一の汗の匂い、それから袋の中で金魚が跳ねる、かすかな水音だけだった。
誰の想いも、まっすぐには届かない。
時速四キロの不器用な三角関係は、狂騒の裏側で、切なく静かに夏の夜の底へ沈んでいった。




