第13話 スクラップ計画の通達
九月に入っても、東京の空にはじっとりとまとわりつくような残暑が居座っていた。
アスファルトの照り返しは幾分か和らいだものの、屋上遊園地を吹き抜ける風にはまだ夏の熱気が混じっている。
プランターの陰からは、ツクツクボウシのけたたましい鳴き声が、過ぎ去りゆく夏を惜しむように響いていた。
午後三時。
スナックコーナーの換気扇からは、洋子ママが鉄板で炒める焼きそばの、安っぽくて少し焦げたソースの匂いが漂ってくる。
ガチャン、ガチャンと、古びたアナログのタイムレコーダーが、アルバイトたちの出退勤を刻む音がする。
いつもの、変わらない屋上の昼下がりだった。
健一は、首に巻いた粗品タオルで汗を拭いながら、左に曲がる癖のあるパンダカーの背中をウエスで磨いていた。
隣では、辰じいがハイライトを吹かしながら、百円玉の投入口のギアに油を差している。
「辰じい、このパンダ、最近モーターの音が変じゃないですか? ウィーンっていうより、グイーンって重い感じがするんですけど」
健一が尋ねると、辰じいは咥えタバコのまま鼻を鳴らした。
「おっ、お前もようやく機械の『声』が聞こえるようになってきたか。こいつはな、モーターのブラシがすり減ってきてんだ。今夜あたり、部品を交換してやらねえとな」
「部品って、まだ予備あるんですか?」
「俺が特注でストックしてある。俺が生きているうちは、こいつらを鉄屑になんてさせねえよ」
辰じいは、自分の子どもを自慢するような誇らしげな顔で笑った。
遠くの小鳥コーナーでは、奈緒が水浴び用の小さな陶器の器を洗っている。
彼女の結わえた髪が風に揺れるのを、健一は目を細めて見つめていた。
七夕まつりの夜から、奈緒との距離は少しだけ近づいたような気がする。
劇的な変化はないが、挨拶の時の笑顔が少し柔らかくなり、缶コーヒーを差し出せば、躊躇わずに受け取ってくれるようになった。
就職浪人という肩書きの引け目はあるが、この屋上という小さな世界の中だけでなら、自分にも居場所がある。
この穏やかで、少しだけ錆びついたような優しい時間が、いつまでも続いてほしい。
健一は本気でそう願い始めていた。
しかし、時代の波は、そんなささやかなモラトリアムを容赦なく飲み込もうとしていた。
カツ、カツ、カツ。
屋上のコンクリートに、革靴の硬い足音が複数響いた。
振り返ると、階段の入り口から、紺色やグレーのスーツを着た数人の男たちが歩いてくるのが見えた。
その先頭を歩いていたのは、仕立ての良いダブルのスーツを着こなし、片手に分厚いファイルを持ったエリート社員、黒木隆だった。
黒木の後ろには、デパートの施設管理部長や、見慣れない設計士らしき男たちがぞろぞろと従っている。
「なんだ、あいつら。揃いも揃って葬式みたいなツラしやがって」
辰じいがタバコを携帯灰皿でもみ消し、鋭い視線を向けた。
黒木は、屋上の中心にある広場まで歩み出ると、周囲を見回した。
そして、後ろに控えていた部下に顎でしゃくる。
部下は拡声器を取り出し、屋上の従業員たち、辰じい、健一、スナックコーナーから顔を出した洋子ママ、そして奈緒に向かって声を張り上げた。
「業務中のところ申し訳ない! 屋上エリアの責任者および全スタッフは、至急こちらへ集まっていただきたい!」
拡声器の人工的な音が、屋上ののんびりとした空気を切り裂く。
健一たちは、何事かと顔を見合わせながら、黒木たちの前に集まった。
昼間の巡回中だった佐々木警備員も、首を傾げながら小走りで駆け寄ってくる。
「皆さん、お集まりいただき感謝する。本社開発部の黒木です」
黒木は、感情を完全に排除した、機械のように冷徹な声で話し始めた。
「本日は、皆様に本社取締役会での決定事項を直接お伝えするために参りました」
黒木の言葉に、健一の背筋に冷たいものが走った。
取締役会。
決定事項。
嫌な予感しかしなかった。
「単刀直入に申し上げます。当デパートの屋上遊園地エリアは、来る十月末日をもって全面閉鎖といたします」
その言葉が落ちた瞬間、屋上を通り抜ける風の音すらも止まったように感じられた。
「へいさ?」
洋子ママが、手に持っていたお好み焼き用のヘラを落としそうになりながら、素っ頓狂な声を上げた。
「ええ。全面閉鎖です。そして年明けから解体工事に入り、来年の春には、ここを最先端の『ハワイアン・リゾート風ビアガーデン&プールバー』へと全面改装します」
黒木は、ファイルをめくりながら淡々と計画の概要を読み上げた。
「現在の顧客ターゲットである児童およびその家族層は、少子化と郊外型テーマパークの台頭により、今後の利益増が見込めません。対して、近隣のオフィス街で働くOLやビジネスマンをターゲットにした夜間の飲食事業は、莫大な利益を生み出します。本物のヤシの木を配置し、ネオン管を多用したプールサイドで、トロピカルカクテルを提供する。ディスコミュージックを流し、大人が夜通し楽しめる空間を作る。これが、我が社が打ち出す新しい『バブルのオアシス』です」
「ちょっと待てや!!」
辰じいが、顔を真っ赤にして前に進み出た。
健一が止める間もないほどの激しい怒気だった。
「全面改装ってことは、ここにある遊具はどうなるんだ!? メリーゴーランドも、パンダカーも、あの空飛ぶペンギン号も!」
黒木は、辰じいの怒りを鼻で笑うように一瞥した。
「当然、すべてスクラップとして廃棄処分です。新しいリゾート空間に、昭和のガラクタを置くスペースなど一坪たりともありませんからね」
「ガラクタだと!? ふざけんな! こいつらはまだ立派に動くんだぞ! 俺が毎日油を差して、丁寧に手入れしてんだ! それをスクラップにするだと!?」
辰じいが黒木の胸ぐらを掴もうとするのを、後ろにいた警備の男たちが慌てて制止した。
「やめてください、辰じい!」
健一も必死に辰じいの腕にすがりついたが、辰じいの体は怒りでワナワナと震えていた。
「離せ! おい背広! お前ら、数字しか見えねえからそんな簡単に物を捨てられるんだ! ここにどれだけの子どもたちの思い出が詰まってると思ってんだ!」
「思い出では、株主への配当は払えませんよ、辰巳さん」
黒木は、スーツの襟の埃を払うような仕草をしながら、冷酷に言い放った。
「あなたがこだわっているのは、ただの鉄の塊だ。減価償却もとっくに終わっている。企業である以上、利益を生まない過去の遺物に固執するのは、単なる甘えです」
黒木の視線は、次に洋子ママと奈緒に向けられた。
「スナックコーナーの三波さん。長年のご厚情には感謝しますが、立ち退きとなります。新しいビアガーデンの厨房は、外部の一流ケータリング業者に委託することが決定しています。あなたの作るうどんや焼きそばは、残念ながら『リゾート』のコンセプトには合いませんので」
「そんな、私、ここで二十年も焼きそば焼いてきたんだよ? 毎日来てくれる常連のトラック運転手さんや、マモル君みたいな子たちは、どうすればいいのさ・・」
洋子ママは、エプロンの端を握りしめ、顔面を蒼白にして呟いた。
「そして、ペットコーナーの相原さん」
「はい」
奈緒は、静かに一歩前に出た。
彼女の顔は、血の気が引いて真っ白になっていた。
「小鳥や熱帯魚の販売も、デパートの主力事業からは完全に外れています。臭いや衛生面の問題もあり、新しいビアガーデンにはふさわしくありません。十月末をもって、契約は打ち切りとなります。生体の引き取り手は、そちらで早急に探しておいてください」
「・・引き取り手が見つからなかったら、あの子たちはどうなるんですか?」
奈緒の震える声に、黒木は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに冷徹な顔に戻った。
「それは、そちらの責任で処分してください。我が社には関係のないことです」
「処分って・・命あるものですよ!?」
奈緒が初めて声を荒らげた。
その悲痛な叫びに、健一の頭の中で何かがブツッと切れた。
「ふざけるな!!」
健一は、黒木の前に立ちはだかり、大声で叫んでいた。
自分でも驚くほどの、腹の底からの大声だった。
「あんたたち、頭おかしいんじゃないのか!? 利益だのコンセプトだの言って、ここにいる人たちの生活も、機械への愛情も、動物の命も、全部ゴミみたいに切り捨てる気かよ!」
黒木は、立ちはだかった健一の、油と汗に塗れた作業着を上から下まで見下ろした。
「君は?」
「俺は、ここの夜間整備のアルバイトの・・」
「アルバイト?」
黒木は、馬鹿馬鹿しいとでも言うように鼻で笑った。
就職活動の面接で、幾度となく健一を切り捨ててきた大人たちの、あの冷たい笑いと同じだった。
「経営方針に意見したいなら、せめて正社員のバッジをつけてからにしてくれたまえ。君のような一介のアルバイトの感情論など、聞く耳は持っていない」
「なんだと!」
「通達は以上です。詳細は後日、書面にて各部門に配布します。
くれぐれも、十月末の閉鎖に向けて、滞りなく引き継ぎと片付けを進めておくように」
黒木はそれだけ言い残すと、部下たちを引き連れて、階段の方へと足早に去っていった。
コツ、コツ、という無機質な革靴の足音が、遠ざかって消える。
彼らが去った後の屋上には、死んだような重い沈黙だけが残された。
ツクツクボウシの鳴き声だけが、やけに大きく響いている。
「クソったれが」
辰じいは、忌々しげに地面に唾を吐き捨てると、誰の顔も見ずに背を向けた。
そして、工具箱から大きめのレンチを取り出すと、パンダカーのボルトを、怒りに任せてガンッ、ガンッと音を立てて叩き始めた。
その背中は、怒りというよりも、深い絶望と無力感に震えているように見えた。
「ごめんね、みんな。焼きそば、焦げちゃったね」
洋子ママは、空元気のような震える声でそう言うと、エプロンで目元を乱暴に拭い、鉄板の前へと戻っていった。
ジュウッ、と焦げたソースの匂いが、いつもよりやけに鼻についた。
奈緒は、何も言わずに小鳥コーナーへと歩いていった。
健一が目で追うと、奈緒は文鳥のケージの前に立ち、その小さな網目に顔を押し当てるようにして、うつむいていた。
彼女の細い肩が、小刻みに震えているのが見えた。
健一は、誰もいなくなった屋上の広場の真ん中で、一人立ち尽くしていた。
足元では、百円玉を入れられたままのパンダカーが、ウィーンという重たいモーター音を響かせながら、誰も乗せないまま、ゆっくりと、左へ左へと円を描くように回り続けている。
(終わるんだ)
健一は、自分の手が微かに震えていることに気がついた。
就職に失敗し、世間のスピードから弾き出され、逃げ込むようにしてたどり着いたこの場所。
最初は、ただの腰掛けのつもりだった。
時給稼ぎの、恥ずかしいアルバイトだと思っていた。
けれど、いつの間にかここは、健一にとって、世界で唯一呼吸ができる『居場所』になっていた。
機械に不器用な愛情を注ぐ辰じいがいて。
お節介で温かい洋子ママのうどんがあって。
そして、ひたむきに命と向き合う、奈緒の静かな微笑みがあった。
それが全部、あのダブルのスーツを着た男の一言で、いとも簡単に『スクラップ』としてゴミ箱に捨てられようとしている。
健一は、拳を強く握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、血が滲みそうになるほどに。
悔しかった。
何もできない自分が。
正社員のバッジがないというだけで、愛する居場所を奪われることに抗議すら許されない、自分の無力さが。 バブルという狂った時代の波が、音を立てて健一たちの小さな世界を飲み込もうとしていた。
パンダカーのモーター音が、不意にプツンと途切れ、屋上は再び深い静寂に包まれた。
一九八八年、秋。
健一の、短くも愛おしかったモラトリアムの季節が、確実に終わりを告げようとしていた。




