第14話 幼馴染の領分、越えてはいけない線
スクラップ計画の通達から数日が過ぎた。
屋上遊園地を覆っていたのんびりとした空気は、すっかり重く冷たいものに変わってしまった。
辰じいは人が変わったように無口になり、休憩時間もいつもの将棋を指そうともせず、ただ黙々とパンダカーや木馬の整備を続けていた。
まるで死期を悟った我が子の体を、最後まで清めようとしているかのようだ。
健一は痛々しくてその姿を直視できなかった。
洋子ママのスナックコーナーも、心なしか客足が遠のいているように感じる。
いつも威勢のいい彼女の「いらっしゃい!」という声には、隠しきれない疲労と諦めが滲んでいた。
奈緒は、休憩時間になると公衆電話に張り付いた。
分厚いタウンページをめくりながら、動物園や個人の愛好家へ、引き取り手を探す電話をかけ続けていた。
十円玉が次々と吸い込まれ、受話器を置くたびに、彼女の細い肩が小さくため息をついて沈む。
その背中を見るたび、健一の胸はギリギリと締め付けられた。
自分には、何ひとつできない。
ただ毎日、決められた時間にタイムカードを押し、左に曲がるパンダカーをウエスで磨き、落ち葉を掃くだけ。
正社員のバッジを持たない健一には、計画を覆す権限もなければ、奈緒の小鳥たちをまとめて買い取ってやれる財力もない。
モラトリアムの温室は、外からの冷たい風であっけなくひび割れ、今にも崩れ落ちようとしていた。
その日、非番だった健一が、アパートで無気力に天井のシミを見つめていると、またしても黒電話が暴力的なベルを鳴らした。
『ちょっと、今すぐ新宿の東口に出てきなさい!』
受話器の向こうから響く真理の声は、有無を言わさぬいつもの強引さだった。
「・・悪い。今日はお前につきあってる気分じゃないんだ」
『気分じゃないって何よ! 声が死んでるじゃない。いいから来なさい、どうせ部屋でウジウジしてるんでしょ。美味しいコーヒー奢ってあげるから!』
ガチャッ、と一方的に電話が切れた。
断る気力すら湧かず、健一はため息をつきながら、適当な服を突っかけて部屋を出た。
新宿の街は、相変わらずバブルの熱狂に包まれていた。
すれ違う人々は皆、自信に満ちた足取りで、きらびやかなショーウィンドウの光を反射しながら歩いている。
駅のホームでは、パタパタと音を立てて回転する行き先案内の電光掲示板が、せわしなく人々の行き先を指示していた。
待ち合わせ場所の駅前で、真理はすぐに健一を見つけた。
彼女は、淡い紫色のボディコンシャスなスーツに身を包み、肩からブランド物のバッグを下げている。
「あんた、ますます貧乏くさい顔になってるわね。ほら、行くわよ」
真理は、健一の淀んだ目を一瞥すると、無言で健一の腕を引き、繁華街の路地裏へと向かった。
連れて行かれたのは、ネオンがきらめく大通りから一本入った場所にある、古びた純喫茶だった。
カラン、とドアベルを鳴らして中に入ると、外の喧騒が嘘のように静まり返る。
赤いビロード張りのボックス席、天井から吊るされた琥珀色のステンドグラスのランプ、壁に掛けられた古時計。
店内には、焙煎された珈琲豆の香ばしい匂いと、長年染み付いたタバコのヤニの匂いが混ざり合って漂っていた。
有線放送からは、フランク・シナトラの古いジャズが、レコードのノイズ混じりに流れている。
昭和の空気をそのまま真空パックしたようなその空間は、屋上遊園地にも似た、時代から取り残されたような居心地の良さがあった。
「いらっしゃいませ。ご注文は」
白いフリルのエプロンを着た、年配のウェイトレスが水とおしぼりを持ってきた。
テーブルの上には、店のロゴが七十年代風の丸いフォントで印字されたマッチ箱が置かれている。
「私、クリームソーダ。あんたは?」
「ブレンドでいいよ」
真理が注文を済ませると、健一はテーブルの上のマッチ箱を意味もなく指先でいじり始めた。
「で? 何があったのよ。お通夜みたいな顔して」
真理は、バッグから細いメンソールのタバコを取り出し、ジッポライターで火をつけた。
紫煙が、ステンドグラスのランプの光に照らされて立ち上る。
「・・屋上が、無くなるんだ」
健一は、うつむいたまま、絞り出すように言った。
「え?」
「十月末で全面閉鎖。遊具は全部スクラップ。スナックも、ペットコーナーも全部立ち退き。跡地は、お前らみたいなOLが仕事帰りに飲む、ハワイアン風の最新ビアガーデンになるらしいよ」
健一の言葉に、真理はタバコを持つ手をピタリと止めた。
「・・そう。デパートも、とうとうあそこに見切りをつけたってわけね」
「見切りをつけた?」
「だってそうじゃない。あんな古臭いパンダに乗って喜んでるのなんて、今時珍しいわよ。時代に合ってないんだから、企業としては当然の判断でしょ。まあ、あそこのうどんは結構好きだったけど」
ウェイトレスが、鮮やかな緑色のクリームソーダと、湯気の立つブレンドコーヒー、そして角砂糖が盛られた銀色のシュガーポットを運んできた。
真理は赤いストローを指でつつきながら、言葉を続けた。
「でも、ちょうどよかったじゃない」
「ちょうどよかった?」
健一は、コーヒーカップの取っ手にかけた手を止め、真理を睨みつけた。
「そうよ。あんた、いつまであそこで油まみれになってるつもりだったの? もう大学卒業して一年経つんだよ。この超売り手市場のバブルの時代に、いつまでもフリーターなんてやってたら、一生負け組よ」
真理は、アイスクリームをスプーンで掬いながら、健一を励ますようなトーンで言った。
「あそこが無くなるなら、未練なく就職活動できるじゃない。うちの銀行に出入りしてる取引先でも紹介してあげようか? あんた、根は真面目なんだから、ちゃんとしたスーツ着て頭下げれば、どこだって拾ってくれるわよ。これを機に、目を覚ましなさいよ」
真理の言葉は、正論だった。
世間の物差しで測れば、一片の曇りもない大正解だ。
彼女なりに、どん底に沈んでいる健一を励まそうとしての言葉だったのは、健一にもわかっていた。
けれど、その正論は、今の健一にとっては、あの黒木という男が吐いた冷酷な言葉と、何ひとつ変わらないように聞こえた。
「目を覚ませ、か・・」
「そうよ。いつまでも、あんな所で遊んでる場合じゃないでしょ」
真理は、健一の様子がおかしいことに気づかず、決定的な一言を口にした。
「たかがバイトの遊び場がなくなるくらいで、いつまでもメソメソしないでよ。あんたには、もっとマシな居場所があるはずでしょ」
ガチャン!!
健一が、コーヒーカップをソーサーに乱暴に叩きつけた。
跳ねた黒い液体が、白いテーブルクロスにシミを作る。
「・・けん、ちゃん?」
真理が驚いて顔を上げる。
健一の目は、これまで真理に向けたことのないような、冷たく、そして激しい怒りに燃えていた。
「たかが、バイトの遊び場?」
「ちょっと、急に大きな声出さないでよ。恥ずかしい」
「お前には、そう見えてたんだな」
健一の声は、低く、押し殺すように震えていた。
「俺が、就職から逃げて、あそこで遊んでるだけだと。辰じいが油まみれになって守ってきた遊具も、洋子ママが毎日焼いてる焼きそばも、奈緒ちゃんが必死に世話してる命も・・全部、ただの『時代遅れの遊び場』のお遊びだと、そう思ってたんだな」
「ち、違うわよ! 私はただ、あんたに前を向いてほしくて!」
「黙れよ!!」
健一の怒鳴り声が、静かな純喫茶に響き渡った。
他の客たちが一斉にこちらを振り返る。
しかし、健一はそんなこと気にも留めなかった。
「前を向けって言うなら、あの冷たい背広を着た本社の連中と同じだ! お前も、数字と効率しか見えない、上から見下ろす側の人間なんだよ!」
「健ちゃん・・」
「あそこはな・・俺にとって、唯一息ができる場所だったんだよ! お前みたいに、立派な会社に入って、ブランド服着て、世間をうまく泳いでる奴らには、絶対にわからないだろうけどな!」
健一は、立ち上がると、財布から千円札を乱暴に引き抜き、テーブルの上に投げ捨てた。
「二度と、あそこを馬鹿にするな」
健一はそれだけ言い捨てると、振り返ることなく純喫茶のドアを押し開け、ネオンの街へと飛び出していった。
カラン、というドアベルの音が、やけに虚しく響いた。
残された真理は、向かいの空席を呆然と見つめていた。
テーブルの上には、一口も飲まれていない真っ黒なコーヒーと、雑に投げ出された千円札。
真理の指先で、タバコの灰がポロリと崩れ落ちた。
「・・バカ。違うわよ・・」
真理の唇が、小さく震えた。
屋上を馬鹿にしたつもりなんてなかった。
ただ、健一にあんなにも悲しい顔をさせている「屋上」という存在が、憎かっただけだ。
いつまでも過去にしがみついて、あの小鳥の女に未練たらたらな健一を、自分の手で引き戻したかった。
早く「現実」の世界に戻ってきて、自分と同じ場所に立ってほしかった。
昔みたいに、自分を真っ直ぐに見てほしかった。
ただ、それだけだったのに。
「・・私、何やってるんだろ」
真理は、目の前で溶けかけているクリームソーダを見つめながら、ボロボロと涙をこぼした。 自分の不器用な言葉が、健一にとって一番大切な、そして一番柔らかい部分を無神経に踏みにじってしまったことに、後悔が波のように押し寄せてきた。
越えてはいけない一線を越えてしまったのか・・。
真理は、化粧が崩れるのも構わず、両手で顔を覆って、純喫茶の片隅で一人、声を殺して泣き続けた。
シナトラのジャズが、彼女の静かな嗚咽を優しく包み込んでいた。
一方、健一は新宿の街を当てどなく歩き続けていた。
夜の帳が下りた街は、まばゆいばかりのネオンサインに彩られている。
ビルの壁面には、新しいビールジョッキを掲げた巨大な看板が、これ見よがしに輝いていた。
皮肉なことに、それは屋上にできるというビアガーデンを連想させ、健一の心をさらにえぐった。
カラオケボックスから漏れ聞こえる若者たちの歌声。
タクシーを拾おうとお札を振るスーツ姿のサラリーマン。
腕を組んで楽しそうに笑い合うカップル。
バブルの狂乱の中で、誰もが幸せそうに、誰もが前を向いて、猛スピードで生きている。
その光の洪水の中で、健一だけが、まるで透明人間になってしまったかのような強烈な疎外感に苛まれていた。
(真理の言う通りだな・・)
健一は、ショーウィンドウに映る自分の冴えない姿を見つめた。
あそこは、ただの「バイトの遊び場」だ。
自分は、ただそこに逃げ込んでいるだけの、何の力もないフリーターに過ぎない。
辰じいのプライドを守ることも、洋子ママの生活を守ることも、そして奈緒の居場所を守ることも、自分には絶対にできない。
怒りに任せて真理を拒絶したのは、彼女の言葉が、健一自身が一番目を背けたかった『現実』を、容赦なく突きつけてきたからだ。
自分は何一つ持っていない。
何一つ守れない。
圧倒的な無力感が、重い鉛のように健一の全身を押し潰していく。
「・・くそっ」
健一は、夜空を見上げた。
ギラギラとしたネオンの光にかき消され、星ひとつ見えない東京の夜空。
あの見えない星のどこかに、自分たちのささやかな居場所だった屋上が、ひっそりと浮かんでいるはずだ。
健一は、唇を強く噛み締めながら、ただ無力に、夜の街を彷徨い続けた。
時速四キロのパンダカーのぜんまいは、もうすぐ止まろうとしていた。




