第15話 雨のシャッターと届かない言葉
九月の終わり。
熱狂に包まれた東京を、季節外れの大型台風が直撃しようとしていた。
テレビのニュース番組では、アナウンサーが緊迫した声で「過去十年間で最大級の勢力」と連呼している。
街行く人々は傘をへし折られながら足早に地下街へと逃げ込み、いつもは深夜まで眩いネオンを瞬かせている新宿の看板も、今日ばかりは早々に明かりを落とし、街全体が灰色の雨雲の下で沈黙していた。
吹きさらしの屋上遊園地は、まさに嵐の最前線だった。
バチバチと顔を叩くような横殴りの大粒の雨。
轟々と唸りを上げる強風。
「おい健一! そっちのロープ、もっとキツく縛れ! 風で煽られたら一たまりもねえぞ!」
「わかってます! でも、雨でロープが滑って・・!」
黄色いゴム合羽に身を包んだ健一と辰じいは、ずぶ濡れになりながら、遊具の養生作業に追われていた。
稼働しなくなったパンダカーや木馬たちに分厚いブルーシートを被せ、何重にも太いトラロープで縛り上げていく。
サビだらけの観覧車のゴンドラも、風で大きく揺れて隣同士がぶつからないように、一つひとつワイヤーで固定しなければならない。
容赦なく叩きつける冷たい雨粒が、合羽の隙間から入り込み、下着までぐっしょりと濡らしていた。
真理とのあの大ゲンカから、数日が経っていた。
あれ以来、真理からの電話はない。
健一も、自分からかける気にはなれなかった。
彼女に言われた「たかがバイトの遊び場」という言葉と、自分の無力さを突きつけられた屈辱が、胸の奥でまだ燻っていたから。
でも、真理の言う通りかもしれないと、荒れ狂う風の中で健一は自嘲気味に思った。
十月末には、すべてスクラップにされる運命の遊具たちだ。わざわざ嵐の中で命懸けで守ったところで、どうせ一ヶ月後には黒木の指示で重機で壊される。
無駄な抵抗だ。
それでも、辰じいは必死だった。
泥水を顔に浴びながら、まるで我が子を守るようにブルーシートを引っ張っている。
その背中を見ていると、健一も「どうせ壊されるんだから」とはどうしても言えなかった。
「よし、外の遊具はこれで大体オッケーだ! 健一、お前は少し休んでろ。俺は下の階の施設管理部に顔を出して、浸水がないか見てくる!」
辰じいはそう叫ぶと、ずぶ濡れの合羽から雨水を滴らせながら、非常階段の方へと駆け出していった。
一人残された健一は、屋上の隅にある古い機材倉庫の、錆びたトタンのひさしの下へと逃げ込んだ。
「寒っ」
秋の台風の雨は、体温を容赦なく奪っていく。
自販機で温かい缶のコーンポタージュでも買おうかと思ったが、財布はロッカーの中だった。
ガタガタと震えながら、ふと小鳥コーナーの方へ目をやると、激しい雨の向こう側に、見慣れた人影が見えた。
奈緒だった。
彼女は傘も差さずに、ずぶ濡れになりながら、外に出されていた小さなケージを急いで屋内のスペースへと運び込もうとしていた。
強風に煽られ、彼女の細い体がよろけた。
「危ない!」
健一は飛び出し、雨の中を駆けた。
「奈緒ちゃん! 何やってんだよ、こんな嵐の中で!」
健一がケージを下から支えると、奈緒は驚いたように顔を上げた。
雨水が、彼女の白い頬を伝ってポロポロと落ちている。
「健一くん! ごめんなさい、突然風が強くなって、インコたちがパニックになっちゃって」 「いいから! ケージは俺が運ぶ! 奈緒ちゃんは早く中へ!」
健一は、残っていた三つのケージを両脇に抱え、奈緒の背中を押すようにして、一番近くにあった古い機材倉庫へと飛び込んだ。
ガラガラッ、バン!
重いトタンのシャッターを内側から閉めると、暴風雨の轟音が少しだけ遠ざかった。
倉庫の中は、古い機械の油と、埃、それにカビの匂いが混ざり合った、すえたような匂いがした。
暗闇の中、わずかに外灯の光が隙間から差し込んでいる。
そこには、ブルーシートを半分被せられた「空飛ぶペンギン号」をはじめ、修理待ちの古い機材が山積みになっており、まるで巨大な墓場のように静まり返っていた。
「はぁ、はぁ・・」
健一も奈緒も、荒い息をつきながら、しばらくその場に座り込んだ。
トタン屋根を打ち付ける雨音が、バラバラバラ!と激しく響き渡っている。
まるで、この狭い倉庫だけが、世界から切り離されてしまったかのような感覚だった。
「・・大丈夫? 奈緒ちゃん、すっごく濡れてる」
健一は、自分の作業着のポケットから、まだ濡れていない綺麗なタオルを取り出した。
それは、いつも休憩時間に顔を拭くために、大切に洗ってジップロックに入れていたものだ。
「はい、これ。使って」
「ありがとう・・健一くんこそ、ずぶ濡れじゃない」
奈緒はタオルを受け取ると、申し訳なさそうに自分の髪を拭き始めた。
薄暗い倉庫の中。
濡れたブラウスが奈緒の肌に張り付き、彼女の細い肩のラインが痛々しいほどに透けて見えていた。
健一は慌てて目を逸らし、自分の顔を手で乱暴に拭った。
雨音はますます激しさを増し、外に出られる気配は全くなかった。
二人は、倉庫の隅にある古い木箱の上に、少し距離を空けて並んで腰を下ろした。
肌寒い。けれど、隣に座る奈緒の体温が、不思議なほど近くに感じられた。
あの夜のメリーゴーランドでの出来事が、健一の頭をよぎる。
あの時も、こうして暗闇の中で二人きりになった。
でも、あの時とは状況が違う。
もうすぐ、この屋上は無くなる。
奈緒は立ち退きを迫られ、鳥たちの引き取り手を探して必死になっている。
真理に言われた「あんたには何も守れない」という言葉が、呪いのように健一の胸に突き刺さっていた。
(俺は、本当にこのまま、何も言えずに終わるのか?)
健一は、ぎゅっと拳を握りしめた。
自分の不甲斐なさは、自分が一番よくわかっている。
正社員でもない。
お金もない。
奈緒を助けてやれる力なんて、これっぽっちもない。
それでも。
この閉鎖された空間、雨音がすべての世界の雑音をかき消してくれている今なら。
せめて、自分のこの不器用な想いだけは、伝えておきたい。
奈緒が一人で抱えている不安を、少しでも軽くしてやりたい。
俺が、君の隣にいると。
「・・あのさ、奈緒ちゃん」
健一は、喉の奥にこびりついた恐怖を飲み込み、覚悟を決めて口を開いた。
「ん?」
奈緒が、濡れた髪をタオルで押さえながら、静かにこちらを向いた。
薄暗い中でも、彼女の瞳が少しだけ潤んでいるのがわかった。
「俺、ずっと、言おうと思ってたんだけど」
健一の心臓が、トタン屋根を打つ雨音よりも大きく、激しく鳴り始めた。
「屋上が無くなるって決まってから、奈緒ちゃん、ずっと一人で無理してただろ。鳥のことも、立ち退きのことも。俺、なんの力もない、ただの冴えないフリーターだけどさ。でも・・」
好きだ。
その一言が、喉のすぐ裏側まで出かかっていた。
「俺でよかったら、奈緒ちゃんのこと・・」
「・・実家の工場が、とうとう倒産したの」
健一の言葉を遮るように、奈緒の静かな、ひび割れたような声が響いた。
「え?」
健一は、出かかっていた言葉を飲み込み、息を止めた。
奈緒は、膝の上に置いたタオルを強く握りしめ、うつむいていた。
「昨日、お母さんから電話があって・・。もう、どうにもならなくなったって。銀行からの融資も完全に打ち切られて、工場も、実家の家も、全部手放さなきゃいけなくなったの」
「そんな・・」
バブルの好景気の裏側で、切り捨てられていく小さな下請け工場。
奈緒が短大を中退して働きに出なければならなかった、根本の原因だった。
それが、とうとう最悪の結末を迎えてしまった。
「両親は、北海道の親戚を頼って、そっちに引っ越すことになったわ。住み込みで、農業の手伝いをして働くって」
奈緒の声は、感情を押し殺しているように平坦だった。
けれど、握りしめたタオルの上に、ポツリ、ポツリと、雨漏りではない水滴が落ちていくのを、健一は見逃さなかった。
「私・・東京に残って、一人で働いて仕送りを続けるつもりだった。でも、この屋上も無くなるって決まって・・新しい仕事を探そうにも、私みたいに中退で、資格もない人間を雇ってくれるような仕事なんて、見つからなくて」
「奈緒ちゃん・・」
「だから・・」
奈緒は、ゆっくりと顔を上げた。
彼女の頬には、涙の筋がはっきりと光っていた。
いつも誰に対しても優しく微笑んでいた彼女が、初めて見せた、心の底からの絶望と悲しみの顔だった。
「私も、来週、両親と一緒に、北海道へ引っ越すことになったの。青函トンネルが開通したから、列車で行けるのよって、お母さん、無理して笑ってた」
ドクン、と。 健一の胸の中で、何かが決定的に壊れる音がした。
「・・引っ越す、って。北海道に?」
「・・うん。ごめんなさい、健一くん。引き取り手が見つからなかった小鳥たちは、店長が知り合いの業者に無理を言って引き取ってくれることになったわ。でも・・私自身は、もう東京には、いられない」
トタン屋根を叩く雨の音が、狂ったように激しさを増した。
健一の喉は、カラカラに干からびて、声が出なかった。
さっきまで、自分が伝えようとしていた言葉。
「俺が守る」
「俺のそばにいてほしい」。
そんなものは、あまりにも無力で、薄っぺらで、ただの自己満足に過ぎないということを、健一は嫌というほど思い知らされた。
工場が倒産し、家族離散の危機に瀕している彼女に対して。東京での生活基盤そのものを失おうとしている彼女に対して。
時給六百円の、実家暮らしのフリーターである自分に、一体何が言えるというのだ。
「一緒にいてほしい」だなんて、どうして言える。
彼女の人生の重荷を背負う覚悟も、力も、何ひとつ持っていないくせに。
真理の言った通りだ。
自分は、現実から目を背けて、この「遊び場」でままごとをしていただけなんだ。
健一は、握りしめていた拳を、ゆっくりと解いた。
そして、自分でも驚くほど、平静な声を絞り出した。
「・・北海道か。遠いな」
健一は、無理に口角を上げ、引きつったような笑みを浮かべた。
「親御さんも、奈緒ちゃんが一緒なら心強いよ。・・よかったじゃないか。あんな冷たい背広の連中がいる東京なんかより、北海道の方が、絶対に空気が美味いよ」
奈緒は、健一のその言葉に、少しだけ目を見開き、そして、力なく、悲しそうに微笑んだ。
「・・うん。そうだね。ありがとう、健一くん」
それは、健一の「精一杯の強がり」を、奈緒が優しく受け止めてくれた証だった。
同時に、それは二人の間にある「絶対に越えられない現実の壁」を、お互いに確認し合った瞬間でもあった。
届かなかった言葉は、健一の胸の奥深くへ、冷たい石のように沈んでいった。
言わなくてよかった。
言えば、彼女をもっと苦しめるだけだった。
そう自分に言い聞かせても、胸の痛みは少しも消えなかった。
倉庫のシャッターを打ち据える雨音が、まるで世界中の悲しみを代弁するように、いつまでも、いつまでも響き続けていた。
屋上のペンギンは、もうすぐ、本当に飛べなくなってしまう。




