第16話 酔いどれ整備工の引退宣言
十月に入り、東京の空はすっかり高く、澄み切った秋の色に変わっていた。
屋上遊園地に吹き込む風には、もう冬の気配すら混じり始めている。
十月末の閉鎖まで、残すところあと三週間。
客足は目に見えて減っていた。
デパートの入り口やエレベーターホールには「屋上エリア全面改装のお知らせ」というポスターがデカデカと貼られていた。
もうすぐ壊される場所に、わざわざ足を運ぶ物好きは少ない。
スナックコーナーの洋子ママは、仕入れる焼きそばの麺の量を半分に減らしていた。
「辰じい、今日も休みか」
健一が、パイプ椅子に座って缶のコーンポタージュをすすりながら呟いた。
洋子ママがカウンターのデコラ張りの天板を台拭きで拭きながらため息をついた。
「しょうがないよ。辰さん、この一週間、毎日スーツ着て本社の偉いさんたちのところへ直談判に行ってたんだから」
「えっ、直談判?」
「そうだよ。せめてパンダカーとメリーゴーランドだけでも、どこかの施設に寄付できないか、改装後も隅っこに残せないかって、頭下げて回ってたらしいのさ。あの頑固でプライドの高い辰さんがねぇ・・」
洋子ママのそばに置かれた旧式のラジカセからは、ナイター中継のくぐもった実況の声が流れている。
ジャイアンツの選手が三振に倒れたらしく、観客のため息がノイズ混じりに聞こえた。
「でも、ダメだったみたいだね。昨日、ひどく落ち込んだ顔して帰っていくのを見たよ。・・健ちゃん、仕事終わったら、ちょっと辰さんの様子、見てきてやれないかい?」
「わかりました」
健一は、冷えかけたコーンポタージュを一気に飲み干すと、空の缶をゴミ箱に投げ入れた。
カラン、という乾いた音が、やけに虚しく響いた。
午後八時。
アルバイトのシフトを終えた健一は、私服に着替えて夜の街へと出た。
向かったのは、デパートから歩いて十五分ほどの場所にある、ガード下の飲み屋街。
頭上をひっきりなしに電車が通過する轟音が響き、赤提灯がずらりと並んでいる。
モツ焼きの煙と、安酒の匂い。
バブルの恩恵に預かれない下請けの工員や、くたびれたサラリーマンたちが、肩を寄せ合って管を巻いている昭和の吹き溜まり。
健一は、その中の一軒、煤けたビニールシートの入り口から中を覗き込んだ。
「いた」
煙で霞む店内の一番奥。
ビールケースをひっくり返した粗末な椅子に座り、一人で背中を丸めている初老の男がいた。
辰じいだ。
いつも被っている油まみれの作業帽はなく、ヨレヨレの古い背広を着ている。
ネクタイはだらしなく緩められ、ベタベタしたテーブルの上には「ワンカップ大関」の空き瓶が五つ転がっていた。
「辰じい」
健一が声をかけると、辰じいは濁った目でゆっくりと振り向いた。
「おお、健坊。なんだ、お前も飲みに来たのか。座れ座れ、おばちゃん、こいつにホッピーと煮込み!」
辰じいは、完全に出来上がっていた。
ろれつが回っておらず、顔は赤黒く充血している。
「辰じい、飲み過ぎですよ。明日も仕事・・」
「仕事ぉ? あんなもん、もうどうでもいいんだよ」
辰じいは、新しく開けたワンカップの酒を、コップも使わずに直接煽った。
「聞いたよ。本社に行って、遊具を残せるように頼み込んでたって」
健一が静かに言うと、辰じいの動きがピタリと止まった。
ガタン、ゴトン。
頭上の高架を、重たい貨物列車が通り過ぎていく。
「・・笑われちまったよ」
辰じいは、自嘲するように口の端を歪めた。
「『辰巳さん、あなたはデパートの社員ですらない、ただの嘱託の整備工でしょう。身の程をわきまえなさい』ってよ。あのダブルのスーツ着た若造、黒木とか言ったか。あいつに、思いっきり鼻で笑われたわ」
辰じいは、空になったガラス瓶を強く握りしめた。
「おまけにな、これ以上会社の決定に楯突くなら、今すぐクビにするってよ。長年働いてくれた温情で出るはずの退職金も、全額カットだって脅されちまった」
「退職金カット・・そんなの、脅迫じゃないですか!」
「企業なんてのはそういうもんだ。利益にならねえ年寄りの泣き言なんか、誰も聞いちゃくれねえのさ」
おばちゃんが運んできたホッピーのジョッキを、健一は無言で見つめた。
「もう、終わりだ」
辰じいは、ポツリと呟いた。
「俺の時代は、もうとっくに終わってたんだ。浦安にでっかいネズミの遊園地ができた時からな。今の子どもが欲しいのは、ファミコンだの、ピカピカで最新のオモチャなんだよ。塗装の剥げたパンダカーなんか、誰も乗りたがらねえ。俺が意地張って直してたのは、ただの・・自己満足だったんだよ」
「辰じい・・」
「これでいいんだよ。大人しく引き下がって退職金もらって、田舎に帰って盆栽でもいじるさ。あいつら、パンダもペンギンも、ただの鉄屑だ。業者に任せて、スクラップ工場で潰してもらえばいい」
辰じいは、諦めきった顔でそう言うと、再び酒瓶に手を伸ばした。
その瞬間。
ガンッ!!
健一が、ベタベタに汚れたテーブルを両手で強く叩いた。
どんぶりに入ったもつ煮込みの汁が跳ねた。
「・・おい、健一」
辰じいが驚いて顔を上げた。
健一は、唇を噛み締め、肩を震わせていた。
目には、いっぱいの涙が溜まっている。
「ふざけんなよ・・」
健一の声は、低く、しかし確かな熱を帯びていた。
「あんた、言ったじゃないか!『俺が生きているうちは、こいつらを鉄屑になんてさせねえ』って! 俺に、そう自慢げに笑って言ったじゃないか!」
「健坊、お前な」
「俺は、俺は、なんの力もないフリーターだよ。正社員のバッジもない。お金もない。屋上が無くなるって決まって、一番大切な女の子が北海道に引っ越すって泣いてても・・『行くな』って、一言引き留めることすらできなかったんだよ!!」
ガード下の大衆酒場に、健一の悲痛な叫びが響き渡った。
周囲の酔っ払いたちも、一瞬だけグラスを置く手を止めてこちらを見た。
「俺は、大切なものを何ひとつ守れない、空っぽの人間だ! でも、あんたは違うだろ! あんたは、自分の手で機械の息を吹き返らせることができる、本物の職人じゃないか!」
健一の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あんたの作った乗り物を、ゴミになんてさせないって・・俺は本気で思ってる。ファミコンよりずっと、あんたの直したパンダカーは温かいんだ。それを・・あんた自身が『ただの鉄屑』なんて呼ぶなよ!!」
辰じいは、目を見開き、息を呑んだ。
テーブル越しに自分を睨みつける若者の目は、泥臭く、不器用で、どうしようもなく真っ直ぐだった。
涙でぐしゃぐしゃになったその顔を見ているうちに、辰じいの胸の奥底で、すっかり冷え切って灰になっていた『何か』が、チリチリと熱を持ち始めた。
(なんだ、この目は・・)
辰じいは、思い出した。
昭和四十年代。
日本中が高度経済成長の熱気に浮かれ、毎日が希望に満ちていたあの頃。
初めて屋上に遊園地を作った日。
ボルト一本締めるのにも夢中で、泥と油にまみれながら、子どもたちの笑顔を想像して徹夜で作業をしていた、あの頃の自分の目。
いつから自分は、こんなに小さく、卑屈になってしまったのだろうか。
退職金惜しさに、自分が手塩にかけて育てた機械たちを、あんな冷たい背広の連中に売り渡そうとしていただと?
バカバカしい。
そんな金で余生を送ったところで、酒が不味くなるだけだ。
「うるせえ」
辰じいは、ゆっくりと酒瓶をテーブルに置いた。
そして、ヨレヨレの背広の袖で、自分の口元を乱暴に拭った。
「ハナタレ小僧のくせに、いっちょ前に説教たれやがって」
「辰じい・・」
辰じいの顔から、先ほどまでの諦めきった泥酔の表情は消え去っていた。
そこにあるのは、眼光鋭い、昭和の頑固な整備工の顔だった。
「・・おい、健坊。お前、まだ仕事終わったばかりで疲れてねえだろうな」
「え・・? いや、全然疲れてないですけど」
「よし」
辰じいは、ポケットからくしゃくしゃの千円札を数枚取り出し、テーブルに叩きつけた。
「おばちゃん! 釣りはいい! 健一、行くぞ」
「い、行くって、どこへ!?」
「決まってんだろ。デパートに戻るんだ」
辰じいは、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
その顔には、昔の血が騒ぎ出した男の、ギラギラとした熱があった。
「あいつら、俺のパンダをスクラップにするっつったな。上等じゃねえか。だったら、閉鎖までの残り三週間・・俺の職人人生のすべてを懸けて、あのポンコツどもを『世界一最高の乗り物』にチューンアップしてやる。背広の連中が腰抜かすくらい、ピッカピカにな!」
健一は、一瞬だけ呆気にとられ、それから、鼻をすすりながら、大きく頷いた。
「はいっ!!」
バブルの狂乱に見捨てられた、時代遅れの職人とフリーター。
決して交わるはずのなかった二人が、ガード下の赤提灯の灯りの下で、ささやかで、しかし確かな反逆の狼煙を上げたのだった。




