第17話 素直になれないリップスティック
十月も半ばを過ぎ、朝夕の風が肌寒く感じられるようになった。
銀座のデパートの一階にある化粧品売り場は、仕事帰りのOLたちで溢れかえっていた。
バブル経済の絶頂期。
ボディコンシャスなスーツに身を包み、肩パッドで武装した女性たちが、外資系の高級ブランドのショーケースに群がっている。
むせ返るような香水の匂いと、美容部員たちの華やかな声が交差するその場所で、真理は鏡の前に座っていた。
「お客様、こちらの秋の新色はいかがでしょうか。深みのあるローズレッドで、とても大人っぽい印象になりますよ」
美容部員が、パレットから筆で口紅を取り、真理の唇に滑らせる。
いつもなら、もっと発色の良い、派手な青みピンクを選ぶところだ。
バブルという時代の中で、自分をより強く、より華やかに見せるための色。
しかし、今の真理は、鏡に映る自分のそんな「武装」が、ひどく虚しく感じられていた。
「うん。いい色ね。これ、もらうわ」
「ありがとうございます。お包みいたしますね」
真理は、真新しいクリスチャン・ディオールのリップスティックの箱を、小さな紙袋に入れて受け取った。
純喫茶での大ゲンカから、もう二週間近くが経っていた。
あの時、健一が自分に向けた、冷たく激しい怒りの目。
『お前も、数字と効率しか見えない、上から見下ろす側の人間なんだよ』
その言葉が、ずっと耳の奥にこびりついて離れなかった。
自分が間違っていたことは、とっくにわかっている。
健一の「大切な場所」を、あんな風に踏みにじるべきじゃなかった。
ただ素直に「落ち込んでるあんたを見るのが辛い」と言えばよかったのだ。
でも、どうしても素直になれなかった。
負けたくなかった。
真理は、化粧室に入り、買ったばかりのローズレッドのリップスティックを取り出した。
キャップを外し、そっと唇に引く。
いつもより少し落ち着いた、大人の女性の色。
これで、少しは素直な自分になれるだろうか。
「ごめんね」と、真っ直ぐに謝ることができるだろうか。
真理は、地下の食品売り場で少し高価なサンドイッチの詰め合わせと、温かい缶のコーヒーを二本買うと、健一のいるデパートへと向かった。
夜の八時を回っていた。
閉店後のデパートの従業員用エレベーターに乗り込むと、真理は一つ大きく深呼吸をした。
箱の中の蛍光灯が、チカチカと鈍い光を放っている。
鏡のように反射する金属の扉に、自分の姿が映っていた。
何度も頭の中で、シミュレーションを繰り返す。
(『ごめんね、この間は言い過ぎたわ。これ、差し入れ。まだ、怒ってる?』・・ううん、これじゃダメ。もっと素直に。『健ちゃん、ごめんなさい。私、ひどいこと言った』・・よし、これだわ)
扉の向こうで、エレベーターが屋上階に到着する機械音が鳴った。
チン、という音と共に、重い扉が開く。
真理は、紙袋を握りしめ、冷たい夜風が吹き抜ける屋上へと足を踏み出した。
「健ちゃ・・」
声をかけようとした真理は、その言葉を飲み込み、ハッとして足を止めた。
屋上の中心、メリーゴーランドのすぐ横に立てられた強烈な作業用ハロゲンランプの光。
その眩い光の中で、二人の男が汗まみれになって動いていた。
「おい健坊! スパナだ、十二番のスパナ!」
「はい、辰じい! 次、ギアの噛み合わせ見ます!」
怒号のような辰じいの声と、それに呼応する健一の声。
そこには、純喫茶で見た、あの無力感に打ちひしがれ、絶望のどん底にいた『冴えないフリーター』の姿はなかった。
健一は、青い作業着を油と泥で真っ黒に汚し、髪にはグリスをこびりつかせながら、「空飛ぶペンギン号」の剥き出しになったモーターの下に潜り込んでいた。
傍らには、段ボールの切れ端にマジックで乱暴に引かれた、配線図らしきものが何枚も転がっている。
「モーターのブラシはこれでオッケーです! でも、こっちのサスペンションのバネが、もう限界みたいで・・」
「バカ野郎、そんなもん気合で直すんだよ! 俺が明日、旋盤で部品削り出してやるから、お前はそっちのサビ落としを徹底的にやれ! いいか、閉鎖までの二週間で、こいつらを新車以上のバケモンに仕上げるんだ!」
「はいっ!!」
健一の返事は、夜空に突き抜けるように明るく、力強かった。
真理は、薄暗い給水塔の陰に隠れたまま、その光景を呆然と見つめていた。
健一のあんな顔、見たことがなかった。
小さい頃からずっと一緒にいて、泣き虫で、どんくさくて、就職活動から逃げてウジウジしていた、あの健一。
今、圧倒的な熱量と、生き生きとした命の輝きを放ちながら、古い機械と格闘している。
自分たちバブル世代のOLが、ネオン街で札束を振って探しているような「偽物の輝き」なんかじゃない。
泥臭くて、油臭くて、でも間違いなく『本物の男の顔』だった。
「ふう。ちょっと休憩にすっか」
辰じいが、腰をトントンと叩きながら、クーラーボックスから缶ビールを取り出した。
健一もモーターの下から這い出してきて、首に巻いた粗品タオルで顔の汗を拭った。
「お疲れ様です。いやぁ、でもペンギン号、なんとか飛びそうですね!」
健一は、煤けた顔で無邪気に笑った。
「へっ、俺を誰だと思ってんだ。・・にしても、お前もすっかり油の匂いが染み付いちまったな。就職に失敗して転がり込んできた時は、どうしようもねえモヤシ野郎だと思ってたが」
「ひどいなぁ。俺だって、やればできるんですよ」
健一は、愛おしそうにペンギン号の青い機体を撫でた。
「絶対に、直したいんです。閉鎖になる前に、ピカピカにして」
「例の、小鳥のお姉ちゃんのためか?」
辰じいの言葉に、真理の心臓がドクンと跳ねた。
思わず、握りしめていた紙袋の持ち手が、クシャッと音を立てる。
健一は、少しだけ照れくさそうに頭を掻き、そして、夜空を見上げて静かに言った。
「奈緒ちゃん、来週、ご両親と一緒に北海道へ引っ越すことになったんです。実家の工場が倒産しちゃって」
「なんだと?」
「俺、あの子を引き留めることなんて、できなかった。ただ笑って『よかったね』って言うのが精一杯でした。俺には、あの子の人生を背負う覚悟も、力もなかったから」
健一の言葉には、深い悲しみと後悔が滲んでいた。
しかし、純喫茶で見た時のような『絶望』ではなかった。
「だから、せめて最後に、あの子が乗るペンギン号だけは、最高の状態で飛ばしてやりたいんです。屋上はスクラップになっちゃうけど、あの子の記憶の中にあるこの場所だけは、俺の手で、ピカピカのまま残してやりたい。それが、俺の意地です」
真理は、息をするのも忘れて健一の言葉を聞いていた。
胸の奥を、鋭いナイフでゆっくりとえぐり取られるような痛みが走った。
健一の世界には、もう、自分の入る隙間なんて一ミリもなかった。
彼が今、あんなにもボロボロになって、あんなにも美しく汗を流しているのは、自分のためじゃない。
あの、地味で、でも誰よりも芯の強い「小鳥の女」のためなのだ。
そして何より、健一をここまで本気にさせたのは、真理が「たかがバイトの遊び場」と見下した、この屋上遊園地という場所の力だった。
自分は、勝てない。
ブランドのスーツを着ても、高級なリップを塗っても、一流企業の社員証を首から下げても。
そんなものでは敵わない。
ただ一人の女の子の思い出を守るためだけに、何も求めず、油にまみれながら機械を磨き続ける。
その圧倒的な純粋さには、どうしたって勝てなかった。
つう、と真理の頬を熱い涙が伝った。
丁寧に仕上げたメイクが崩れていく。
せっかく引いたローズレッドの口紅も、涙が混じってしょっぱく感じた。
(・・ごめんね、健ちゃん)
謝りたかった。
昔みたいに、笑い合いたかった。
でも、今の自分が出て行けば、あの美しい職人たちの世界に、泥を塗るだけ。
真理は、声を殺して泣きながら、そっとその場を後ずさりした。
エレベーターホールの陰。
健一たちの視界には絶対に入らない場所。
そこに、サンドイッチともうすっかり冷めてしまった缶コーヒーの入った紙袋をそっと置いた。
自分のバッグから取り出した名刺の裏に書いた。
『差し入れ。仕事、頑張って。真理』
それだけ。
ごめんねの言葉は、書けなかった。
今の自分がそれを伝える資格はないと思ったから。
真理は、再び従業員用エレベーターのボタンを押した。
扉が開く。
箱の中に逃げ込むように入ると、閉まりゆく扉の向こうから、健一の「よし、もう一丁いくぞ!」という明るい声が聞こえた。
扉が完全に閉まり、機械音が鳴って、箱が下界へと降りていく。
真理は、エレベーターの壁に背中を預け、ずるずるとしゃがみ込んだ。
ハンドバッグからティッシュを取り出し、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を乱暴に拭った。
ティッシュには、買ったばかりのローズレッドの口紅が、真っ赤な血のようにべっとりと滲んでいた。
「バカ、私、ほんとにバカだ・・」
背伸びをする必要はない。
誰もいない密室の中、真理はただの一人の女の子に戻り、声を上げて泣きじゃくった。
バブルの光に彩られた夜の街へ、エレベーターはゆっくりと下りていく。
真理の初恋は、新色のリップスティックの赤いシミと一緒に、ひっそりと終わりを告げた。




