第18話 黒木の胃痛と昭和の意地
十月下旬。
デパートの屋上遊園地の閉鎖まで、いよいよ一週間を切っていた。
本社開発部が入るフロアの廊下で、黒木隆はダブルのスーツのネクタイを少しだけ緩め、壁に手をついて荒い息を吐いていた。
「・・痛っ」
胃の奥をギリギリと力一杯締め付けるような鈍痛が走り、黒木は顔をしかめた。
内ポケットから市販の胃薬の瓶を取り出し、水も飲まずに錠剤を数粒、口の中に放り込んで無理やり飲み込む。
苦い粉末が喉に張り付いたが、気にする余裕はなかった。
バブル経済の狂騒。
世間は空前の好景気に沸き返り、札束が宙を舞っているが、その最前線で働く企業戦士たちには、狂気じみたノルマとスピードが要求されていた。
フロアの中からは、絶え間なく鳴り響く黒電話のベルと、数億円の取引を怒鳴り声でまとめる営業マンたちの声が聞こえてくる。
黒木が担当している『ハワイアン・リゾート風ビアガーデン』のプロジェクトも、想定以上の利益目標が上乗せされ、連日のように役員からプレッシャーをかけられている。
『黒木くん、屋上の解体は予定通り進んでいるだろうね? 一日遅れれば、それだけ数百万の損失になるんだ。君のエリートコースに傷がつかないよう、せいぜい頑張りたまえ』
電話越しの役員のねっとりとした声を聞いた瞬間、黒木の脳裏に、あの部屋にこもっていた高級な葉巻の煙まで蘇り、彼は再び胃を押さえた。
ピー、ピー、ピー。
腰につけたポケベルが、無機質な音で鳴り響く。
また本社の上司からの呼び出しだ。
どこもかしこも、金、金、金。
少しでも立ち止まれば、あっという間に時代に取り残され、切り捨てられる。
それが、この狂乱の時代のルールだった。
「・・少し、外の空気を吸おう」
黒木はポケベルのスイッチを切り、逃げるようにして従業員用のエレベーターに乗り込んだ。
行き先ボタンは、無意識のうちに『R』を押していた。
屋上の扉を開けると、冷たい秋の風が黒木の前髪を揺らした。
平日の午後。
客の姿は一人もない。
すでにいくつかの遊具にはブルーシートが掛けられ、解体業者の下見用の赤いテープが容赦なく貼られている。
まさに「終わろうとしている場所」の、ひなびた空気が漂っていた。
そのとき、静まり返っているはずの屋上の隅から、カン、カン、という小気味よい金属音が響いてきた。
黒木が音のする方へ歩いていくと、古い機材倉庫の前で、あの初老の整備工、辰巳と、若生意気なアルバイトの青年が、パンダカーのパーツを分解して磨いているところだった。
「おい健一、そこのサビ落としが終わったら、下のホームセンターまでベアリングの予備を買ってきてくれ。特急だぞ」
「了解です、辰じい! ダッシュで行ってきます!」
青年は、財布を掴むと風のように階段の方へ走り去っていった。
残されたのは、作業着姿の辰巳だけになった。
黒木は、眉をひそめて辰巳に近づいた。
「辰巳さん。もうすぐ解体業者が入るというのに、わざわざスクラップを磨いて、何のつもりですか。見苦しい真似はおやめなさい」
冷徹な声で告げる黒木に、辰巳は振り向きもせず、サンドペーパーで金属パーツを磨き続けた。
「スクラップじゃねえよ。これは『おめかし』だ」
「おめかし?」
「最後まで俺たちを信じて遊びに来てくれるガキんちょたちのために、一番ピカピカな姿で見送ってやる。それが昭和の職人の『意地』ってもんさ」
辰巳は手を止め、黒木を振り返った。
その顔は油と泥で汚れきっていたが、瞳だけは少年のように澄んで輝いている。
黒木は、その瞳の眩しさに思わず目を逸らした。
同時に、再び胃の奥で鈍い痛みが暴れ出した。
「・・うっ」
黒木は顔を歪め、思わずその場にうずくまりそうになった。
「おいおい、大丈夫か、あんた」
辰巳が慌てて立ち上がり、黒木の腕を支えた。
「大丈夫です・・ただの、胃痙攣です・・」
辰巳は黒木を近くの錆びたベンチに強引に座らせた。
「エリート様も楽じゃねえな。顔色、真っ青じゃねえか」
辰巳はそう言うと、倉庫の奥から、昭和の家庭によくあった赤いチェック柄の古い魔法瓶を取り出してきた。
フタ代わりのプラスチックのコップに、熱いお茶を注ぐ。
「ほら、飲め。高い玉露じゃねえ、ただの安い番茶だが、胃の痛みにゃ温かいもんが一番効くんだ」
「結構です」
「いいから飲めって。毒なんて入ってねえよ」
辰巳に半ば押し付けられるようにして、黒木はコップを受け取った。
手のひらに伝わる、じんわりとした温かさ。
湯気とともに、深く焙じられた茶葉の、素朴で懐かしい香りが鼻をくすぐった。
黒木は、観念したように小さく息をつき、その粗茶を一口、口に含んだ。
熱いお茶が食道を通って胃に落ちていく。
カチカチに強張っていた内臓が、魔法のようにゆっくりとほどけていくのを感じた。
「どうだ。少しはマシになったか?」
辰巳が隣に腰を下ろし、ハイライトに火をつけながら聞いた。
「・・ええ。ありがとうございます」
黒木は、自分でも驚くほど素直な声で答えていた。
ポケベルの鳴らない、この吹きさらしの屋上のベンチが、狂騒の東京の中で唯一の安全地帯のように感じられた。
「変ですね」
黒木は、プラスチックのコップの底を見つめながら、ぽつりと漏らした。
「ん?」
「ただお茶なのに・・ひどく、懐かしい味がする」
黒木の脳裏に、すっかり忘れていた、セピア色の古い記憶が蘇ってきていた。
「私、子どもの頃、よくこの屋上に連れてきてもらったんです」
黒木の独白に、辰巳は黙ってタバコの煙を空へ向かって吐き出した。
「日曜日になると、父親が必ずここに連れてきてくれた。あのスナックコーナーで、ソースたっぷりの焼きそばを食べて。それから、ずっとあの『空飛ぶペンギン号』の前で、他の子が乗っているのを眺めていたんです」
黒木の口から、感傷的な言葉が次々と溢れ出てくる。
温かいお茶が、彼の心を覆っていた冷たいエリートの殻を、少しずつ溶かしていくようだった。
「本当は、ペンギン号に乗りたかった。でも、私はひどい怖がりで、あの高さに上がるのが恐ろしくて、泣きべそをかいてばかりいた。・・そんな時でした」
黒木は、隣に座る辰巳の皺深い横顔を見た。
「作業着を着た、油まみれのおじさんが、泣いている私に声をかけてくれたんです。『ペンギンはな、空を飛ぶ鳥のくせに、飛ぶのが怖くて海に逃げた弱虫なんだ。だからお前が一緒に乗って、空の飛び方を教えてやれ』って」
辰巳の目が、わずかに見開かれた。
「その言葉が、なぜだかとても誇らしくて。私は泣くのをやめて、ペンギン号のハンドルを握った。あれが、私が初めて恐怖に打ち勝った瞬間でした」
屋上を吹き抜ける風が、少しだけ優しく感じられた。
辰巳は、持っていたタバコの灰を携帯灰皿に落とすと、フッと短く笑った。
「・・思い出したぜ。あの時、一回乗ったら今度は降りるのが嫌だって言って、ハンドルにしがみついてギャーギャー泣きわめいてた、あの鼻垂れ坊主か」
黒木は、ハッとして辰巳を見た。
「あなたでしたか! 覚えていたんですか? 何十年も前のことなのに」
「バカ野郎、舐めるな。俺はな、俺の作った機械を愛してくれたガキの顔は、どいつもこいつも全員覚えてるんだよ」
辰巳の顔には、誇り高き職人の、深く刻まれた笑い皺が浮かんでいた。
「まさか、あの泣き虫坊主が、こんな立派な背広を着て、俺のパンダをスクラップにしに来るとはな。世の中ってのは、因果なもんだ」
その言葉に、黒木は痛いところを突かれたようにうつむいた。
「・・申し訳ありません。ですが、私も会社の人間です。利益を出さなければならない。時代の流れには、逆らえないんです」
黒木の声には、冷酷なエリート社員ではなく、時代という巨大な歯車に組み込まれた、一人のちっぽけなサラリーマンとしての苦悩が滲んでいた。
「謝るこたぁねえよ」
辰巳は、立ち上がって大きく伸びをした。
「お前さんが言う通り、俺たちは時代遅れだ。ここはもうすぐ無くなる。それは誰のせいでもねえ、時代がそういう風に回ってるだけだ」
辰巳は、工具箱から再びレンチを取り出し、黒木に向かってニヤリと笑った。
「坊主。最後に一つだけ、昭和の職人の『意地』ってもんを見せてやるよ」
「意地、ですか」
「ああ。閉鎖の日、お前さんも必ずここへ来い。お前さんがスクラップって呼んだこのガラクタどもが、どんな魔法の動きをするか、そのエリート様の目玉にしっかり焼き付けてやるからよ」
黒木は、コップに残っていた最後のお茶を飲み干した。
胃の痛みは嘘のように消え去っていた。
「楽しみにしています。辰巳さん」
黒木は、ベンチから立ち上がると、辰巳に向かって深いお辞儀をした。
それは、本社開発部の黒木としてではなく、かつてこの屋上でペンギン号に乗った、一人の少年としての敬意だった。
「辰じい! ベアリング買ってきました!」
階段を駆け上がってきた健一が、息を切らしながら飛び出してきた。
その健一とすれ違うようにして、黒木はエレベーターホールへと静かに歩いて行った。
健一は、すれ違った黒木の顔を見て、不思議そうに首を傾げた。
あの日、冷酷にスクラップ計画を告げた時とは別人のような、穏やかで、少しだけ寂しそうな顔をしていたから。
「おう健坊、遅えぞ! さっさとペンギンの羽根の修理にかかるぞ!」
「はいっ!」
屋上の空には、夕暮れの赤い光が差し込み始めていた。
終わりの日に向けて、職人たちの最後の悪あがきが本格的に幕を開けようとしていた。




