第19話 真理の宣戦布告と本当の涙
十月の最終週。
屋上遊園地の閉鎖まで、あと数日と迫った日の夕暮れ。
デパートの裏手にある、当時流行し始めていた少し薄暗い照明のカフェバー。
ジャズのBGMが静かに流れるその店内の奥のテーブルで、真理は腕を組み、冷めたダージリンティーを見つめていた。
彼女は今日、気合を入れていた。
肩パッドの入ったシャネルのスーツに、大ぶりのゴールドのイヤリング。
髪も美容室で完璧にブローしてある。
まさにバブルを謳歌する丸の内OLの「戦闘服」だ。
カラン、と入り口の重厚なドアベルが鳴った。
入ってきたのは、相原奈緒だった。
仕事終わりの彼女は、アイボリーの地味なカーディガンに、膝下丈のプリーツスカートという、ネオンがきらめき始めた街の風景に溶け込んでしまうような控えめな格好をしていた。
「こっちよ」
真理が短く声をかけると、奈緒は少し緊張した面持ちで歩み寄り、向かいの席に静かに腰を下ろした。
「急に呼び出してごめんなさいね。引越しの準備で忙しいのに」
「いえ、大丈夫です。野村さんからお電話をいただけるなんて、少し驚きましたけど」
奈緒は、ウェイターから出されたペリエのグラスを受け取ると、小さな声で答えた。
真理は、目の前に座る奈緒の顔をじっと観察した。
派手な化粧をしていない、すっぴんに近い肌。
少し寂しげで、それでいて芯の強さを感じさせる、静かで透明な瞳。
(・・ほんと、腹が立つくらい、私とは正反対の女)
真理は、内心で小さくため息をつきながら、ティーカップの縁を指でなぞった。
「単刀直入に言うわね」
真理の声は、自分でも驚くほど低く、冷たく響いた。
「健ちゃんのこと、これ以上困らせないでくれない?」
奈緒は、少しだけ目を伏せた。
「・・困らせる、とは?」
「とぼけないでよ。健ちゃん、毎晩遅くまで屋上に残って、あんたのためにあの空飛ぶペンギンとかいうポンコツを直してるんでしょ? 睡眠時間削って、油まみれになって。今日もあいつ、目の下にひどいクマ作ってたわよ。あんなにフラフラになるまで働かせて、どういうつもりなの」
真理の口調は、次第に熱を帯び、攻撃的になっていった。
「あんた、来週には北海道に引っ越すんでしょ? もう東京には戻ってこないんでしょう? だったら、どうして健ちゃんにそんな無駄な労力を使わせるの? あいつはバカだから、あんたが少しでも喜ぶ顔が見たい一心で、あんな鉄屑に必死になってる。でも、それってただの自己満足じゃない」
真理は、テーブルの上に身を乗り出した。
ティラミスの甘い香りが漂うカフェの空気には似つかわしくない、刺々しい言葉が次々と口を突いて出る。
「いなくなる人間のために、あいつを振り回さないで。あんたが中途半端に優しくするから、あいつはいつまでも前を向けないのよ。どうせ捨てるなら、きっぱりと突き放してよ。健ちゃんの未来の邪魔をしないで!」
言い終えると、真理は少し肩で息をしていた。
ひどいことを言っている自覚はあった。
健一が自分の意志で修理をしていることは知っている。
奈緒に無理やり頼まれたわけではないことも。
でも、言わずにはいられなかった。
健一の世界から完全に弾き出されてしまった惨めな嫉妬心を、正論という刃に変えて振るうことでしか、自分を保てなかった。
奈緒は、真理の激しい言葉を、じっと黙って受け止めていた。
怒るでもなく、泣くでもなく、ただ静かに、真理の目を見つめ返していた。
「おっしゃる通りです」
やがて、奈緒は静かに口を開いた。
「私がいなくなるのに、健一くんにあんなに無理をさせて・・本当に、申し訳ないと思っています」
「だったら・・!」
「でも」
奈緒は、真理の言葉を柔らかく遮った。
「私は、健一くんに甘えているわけではありません。先日、台風の日に、健一くんが私に気持ちを伝えようとしてくれた時、私は、自分の実家の倒産と引越しの話をして、彼を拒絶しました。彼の手を取ることはできないと、はっきりとお断りしたんです」
「え・・?」
真理は、目を丸くした。
てっきり、二人は互いに想いを通い合わせ、その上で離れ離れになる悲劇の恋人同士なのだとばかり思っていた。
「健一くんは、私が一人で抱えていた家族の倒産や引越しの絶望を、全部わかった上で・・それでも、私のために、最後に最高の思い出を作ろうとしてくれているんです。言葉にできなかった思いの代わりに、行動で、私を励まそうとしてくれているんです」
奈緒の声が、わずかに震えた。
「それは、私が彼を振り回しているのではなく、彼自身の優しさと、純粋な強さです。私は、そんな彼の想いを『無駄な労力』だなんて、絶対に思えません」
真理は、言葉に詰まった。
自分が「ポンコツ」だの「無駄」だのと見下した健一の不器用な情熱を、奈緒は正面から受け止め、深く尊敬し、愛おしんでいる。
その事実が、真理の胸に決定的な敗北感を突きつけた。
「・・野村さん」
奈緒が、テーブルの上に置かれた真理の手に、そっと自分の手を重ねてきた。
「え・・」
「健一くんの目の下のクマに、一番最初に気づいたのは、野村さんなんですね」
奈緒の瞳は、どこまでも澄み切っていて、真理の心の奥の、一番柔らかくて隠しておきたい部分を真っ直ぐに見透かしていた。
「野村さんは、ずっと健一くんのことを見てきたんですね。私が知らない昔の健一くんのことも、今の健一くんの無理しているところも。全部、野村さんが一番よくわかっている」
「ち、違うわよ。あいつはただの幼馴染で、どんくさくて見てられないから、私が世話を焼いてやってるだけで・・」
真理は慌てて手を引っ込めようとしたが、奈緒は静かに首を横に振った。
「違います。野村さんが私にそんなに怒るのも、全部、健一くんのことが本当に、心の底から大切だからですよね」
「・・」
「私じゃ、ダメだったんです。私は、自分のことで精一杯で、彼の未来を一緒に歩いてあげられない。でも、健一くんの未来を本気で心配して、こうして私を悪者にしてまで彼を守ろうとしている。彼を本当に見ているのは、野村さん、あなたですね」
その言葉を聞いた瞬間、真理の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
武装していた強がりの鎧が、バラバラに剥がれ落ちていく。
「・・やめてよ」
真理の唇が、小さく震えた。
「そんな風に言わないでよ。私だって、本当はわかってるのよ・・。健ちゃんが、あんたのことしか見てないことくらい・・ずっと、わかってたのよ・・!」
真理の大きな目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、悔し涙でも、プライドを傷つけられた怒りの涙でもなかった。
ずっと目を背けてきた「自分の本当の気持ち」に、初めて正面から向き合ったことで溢れ出した失恋の涙だった。
私は、あのどんくさくて泣き虫の幼馴染のことが、本当に、心から好きだったんだ。
どんなに高級なスーツを着ても、エリートの男たちにチヤホヤされても、やっぱり私の一番は、油まみれで笑う健ちゃんだったんだ。
でも、その健ちゃんの隣には、もう自分の居場所はない。
「うぅ・・っ、ひっく・・」
真理は、両手で顔を覆い、カフェバーのテーブルで声を殺して泣きじゃくった。
完璧にセットした髪も、バッチリ引いたアイラインも、もうどうでもよかった。
奈緒は、黙って自分のバッグから、アイロンの当てられた真っ白なハンカチを取り出し、真理の手にそっと握らせた。
数分後。
真理は、奈緒のハンカチで乱暴に涙を拭うと、ハンドバッグからコンパクトを取り出し、手早くメイクを直した。
「・・ひどい顔になっちゃった」
真理は、鼻をすすりながら、赤くなった目で奈緒を見た。
「ごめんなさいね、いい歳して、みっともなく泣き喚いたりして。せっかくのシャネルのスーツも台無しだわ」
「・・ううん。野村さん、すごく綺麗です」
奈緒が優しく微笑むと、真理はフンと鼻を鳴らした。
「当たり前でしょ。私を誰だと思ってるの」
真理は、深く息を吸い込み、そして、憑き物が落ちたような、すっきりとした笑顔を見せた。
「・・あんたの勝ちよ、相原さん」
「え・・?」
「あんたのあの芯の強さには、私じゃ敵わないわ。それに、健ちゃんがあんたに惚れるのも、なんとなくわかった気がする。悔しいけどね」
真理は、伝票をスッと自分の手元に引き寄せた。
「その代わり、一つだけ約束して。・・閉鎖の日、健ちゃんが直したあのペンギン号に、必ずあんたが乗ること」
「野村さん・・」
「健ちゃんは、あんたのために命懸けであれを直してるの。私をこんなに惨めに振ったんだから、あいつの努力を無駄にしたら、絶対に許さないからね。最高の笑顔で乗って、あいつに一生忘れられない最高の思い出を残してあげなさい。・・わかった?」
真理の強がりの中にある、深く温かい優しさ。
奈緒は、目に涙を浮かべながら、深く頷いた。
「はい。約束します。野村さん・・本当に、ありがとうございます」
カフェバーを出ると、すっかり夜の帳が下りていた。
秋の冷たい風が、二人の間を通り抜けていく。
「それじゃ、私はこれで。引越しの準備、頑張ってね」
真理は、振り返らずに片手を上げて歩き出した。
「あ、それとね!」
数歩歩いたところで、真理はくるりと振り返り、バブルの夜の街灯の下で、最高に美しく不敵な笑みを浮かべた。
「私、健ちゃんなんかより、ずーっといい男見つけてやるから! 外資系のエリートで、でっかいベンツに乗ってるような、最高の男をね! だから、あんなバカのこと、もうこれっぽっちも未練なんかないんだから!」
それは、真理なりの、健一と奈緒に対する最大の祝福であり、自分自身への痛快な決別宣言だった。
「・・はい! 野村さんなら、絶対に素敵な人が見つかると思います!」
奈緒が笑顔で手を振り返すと、真理は満足そうに頷き、カツカツとヒールの音を高らかに響かせて、夜の街へと消えていった。
長く、不器用だった幼馴染のトライアングル。
真理は、その一角から自分自身の足で歩き去っていった。
流した涙は、彼女をほんの少しだけ大人にし、そして、いい女へと成長させていた。
残るは、屋上遊園地の最後の日。
健一と辰じいの「昭和の意地」が試される日が、すぐ目の前まで迫っていた。




