第20話 ペンギン号、蘇生計画
屋上遊園地の閉鎖まで、あと五日。
秋の空はどこまでも高く青く澄み渡っていたが、デパートの屋上には、冷え切った絶望の空気が漂っていた。
「ダメだ。やっぱり、このギアの歯が完全に欠けちまってる」
機材倉庫の中で、油まみれの作業着を着た辰じいが、真っ黒になった手で重たい金属のパーツを放り投げた。
ガラン、と鈍い音が響く。
「辰じい、溶接でなんとかなりませんか?」
「バカ言え。こんな細かいピッチのギア、素人の溶接じゃすぐにポキッと折れる。ペンギン号の一番心臓部、メインモーターの動力を伝えるギアだ。ここが滑ったら、ペンギンは一ミリも飛ばねえんだよ」
健一は、ブルーシートを半分被せられた「空飛ぶペンギン号」を見上げた。
昭和四十年代に作られたこの遊具は、屋上にある機材の中でも最も古く、そして奈緒が最後に乗りたいと願っている特別な乗り物だった。
外装のサビ落としや再塗装は健一が徹夜で終わらせたが、肝心の中身が動かなければ、ただの巨大な鉄のゴミだ。
「予備の部品は」
「とっくにねえよ。このペンギン号を作ってた下町の町工場なんて、オイルショックの時に軒並み潰れちまった。
この規格のギアなんて、もう十五年以上も前に製造中止になってるんだ。・・ここまでか」
辰じいは、忌々しげにハイライトに火をつけた。
健一の胸に、冷たいものが流れ込んでくる。
せっかく辰じいの職人魂に火をつけて、毎日徹夜で作業をしてきたのに。
奈緒に「最後に最高の思い出を作る」と心に誓ったのに。
結局、自分はまた、最後の大事なところでつまずいて、何も成し遂げられないまま終わるのか。
「・・諦めませんよ」
健一は、血の滲んだ手で、作業着のズボンを力強く握りしめた。
「絶対に直すって決めたんです。部品がないなら、都内のスクラップ工場や町工場をしらみつぶしに探します」
「おい健一、無茶言うな。閉鎖まであと五日しかねえんだぞ。東京中を探し回る時間なんて」
「探します!」
健一は倉庫を飛び出し、スナックコーナーの横にあるピンク色の公衆電話へと走った。
電話台の下に置かれていた、分厚いタウンページの『鉄工所』『スクラップ』のページを開き、十円玉の山を積んで、片っ端からダイヤル式電話機を回し始めた。
『もしもし! 昭和四十五年製の、ペンギン号っていう遊具のギアを探してるんですけど!』
『はあ? そんな昔の部品、あるわけねえだろ。ガチャン』
『もしもし! あの』
『忙しいんだよ! ガチャン』
受話器から返ってくるのは、冷たい拒絶ばかりだった。
十円玉がチャリン、チャリンと吸い込まれていくたびに、時間が容赦なく削られていく。
健一の顔には、焦りと疲労の色が濃く浮かんでいた。
「何やってるのよ、あんた」
背後から、呆れたような声が聞こえた。
振り返ると、真理が立っていた。
いつもならバッチリ決めているはずのメイクは少し薄く、派手なブランドスーツではなく、落ち着いたベージュのトレンチコートを着ていた。
純喫茶でのあの大ゲンカ以来、ろくに顔を合わせていなかったが、その表情は以前のような刺々しさが消え、どこかスッキリとしていた。
「真理、お前、仕事は?」
「昼休みよ。銀行の窓口なんて、お局様に任せて抜け出してきたの」
真理は、健一が握りしめているタウンページと、油と泥で真っ黒になった健一の顔を交互に見た。
「部品が見つからないの?」
「ああ。ペンギン号のメインギアだ。もう十五年も前に製造中止になってて、どこに電話しても見つからない。このままじゃ、飛ばせない」
健一は、受話器を持ったままうつむいた。
真理は、小さくため息をついた。
「相変わらず、要領悪いわね。タウンページを上から順にかけたって、そんなマニアックな部品、見つかるわけないじゃない」
「でも、こうするしか・・」
「貸しなさい」
真理は、健一の手から受話器をひったくると、ピンク電話のフックにガチャンと置いた。
そして、自分のブランド物のバッグから、銀行の名前が入った分厚い伝票の束と、高級な万年筆を取り出した。
「いい? 東京で古い部品のデッドストックが眠ってるとしたら、大田区か、荒川区の小さな町工場よ。うちの銀行が融資の取引をしてる工場の中で、昔から遊具や特殊な機械の部品を下請けで作ってたところのリストを、頭の中から書き出してあげる」
「え、真理、そんなことわかるのか?」
「舐めないでよね。バブルに浮かれてるように見えても、私、これでも一応、法人の営業事務なんだから。どこの工場がどんな機械を作ってて、資金繰りがどうなってるかくらい、全部頭に入ってるわ」
真理は、銀行の伝票の裏側に、万年筆でスラスラと達筆な字で、工場の名前と電話番号、そして親方の名前を書き出していった。
「ここは大田区の蒲田にある鈴木鉄工所。ここは荒川区の佐藤製作所。いい? 電話なんかじゃダメよ。職人は電話じゃ適当にあしらわれるだけ。今から直接、工場に顔を出して、頭を下げて回るの。ほら、早く行きなさい!」
真理は、書き上げた伝票の束を、健一の胸に押し付けた。
「真理・・」
健一は、信じられないものを見るような目で真理を見つめた。
あんなに屋上を「たかが遊び場」と見下していた彼女が、今、自分を助けようとしてくれている。
「勘違いしないでよね」
真理は、健一の視線から逃げるように顔を背け、トレンチコートのポケットに手を突っ込んだ。
「私は、あの小鳥の女のためにやってるんじゃないわよ。あんたが、途中で諦めて泣きべそかいてる情けない顔を見るのが、ムカつくだけだから」
それは、素直になれない真理の、精一杯の強がりだった。
自分の初恋にきっちりとけじめをつけ、幼馴染として、健一の背中を全力で押すための。
「ありがとう、真理。絶対に見つけてくる!」
健一は、伝票の束をポケットにねじ込むと、屋上の階段を猛スピードで駆け下りていった。
その日の午後、健一は真理のリストを握りしめ、ボロボロの自転車を立ち漕ぎして、都内の町工場を駆け回っていた。
蒲田の路地裏。
切削油のツンとした匂いと、金属を削る甲高い音が響く小さな町工場。
「すいません! 昭和四十五年製の、ペンギン号のギアを探してるんです!」
飛び込みで頭を下げる健一を、どの親方も「素人が勝手に入ってくるな」と怒鳴りつけた。
しかし、健一が真理のリストにある「銀行の担当者からの紹介」という言葉を出し、そして何より、油にまみれ、血の滲んだ手で必死に頭を下げるその姿を見て、頑固な職人たちの態度が少しずつ変わっていった。
『ペンギン号か、懐かしいな。うちじゃ作ってねえが、隣町の工場なら、昔その金型を持ってたはずだ』
『あそこの工場はもう閉めたけどよ、親父さんがまだ自宅の倉庫に部品を大事に取ってあるって聞いたぞ』
職人たちの繋がりが、少しずつ、幻のギアへと健一を導いていく。
夕暮れ時。
荒川区の片隅にある、今はもう機械の音もしていない、シャッターの閉まりかけた小さな工場の前。
「ペンギン号のメインギア、だと?」
白髪の小柄な老職人が、健一が差し出した手描きの図面を見て、目を丸くした。
「はい! どうしても、あと四日でペンギンを飛ばさなきゃいけないんです! お願いします、部品が余ってないでしょうか!」
健一は、アスファルトの上に膝をつき、深く頭を下げた。
老人は、健一の真っ黒に汚れた作業着と、必死な目を見て、ふっと息をついた。
「待ってな」
数分後。老職人が倉庫の奥から持ってきたのは、パラフィン紙に包まれた、ずっしりと重い金属の塊だった。
「十五年前に作った最後のロットの予備だ。いつか誰かが探しに来るかもしれねえと思って、捨てずに取ってあった。持ってきな。代金は、いらねえよ」
「え・・!」
「その代わり、見事にあのペンギンを空に飛ばしてみせろ。それが、俺たち昭和の職人への何よりの恩返しだ」
健一は、パラフィン紙に包まれたギアを受け取ると、涙を流しながら、何度も何度も頭を下げた。
すっかり夜になったデパートの屋上。
機材倉庫のシャッターの前で、辰じいがイライラとタバコを吸っていた。
その傍らでは、真理が缶の午後ティーを飲みながら、壁にもたれかかっている。
ガチャッ、と屋上の扉が開いた。
「辰じい!!」
息を乱し、汗だくになった健一が、頭上にパラフィン紙の包みを掲げながら、満面の笑みで駆け込んでくる。
「見つけました!! メインギアの新品です!!」
辰じいは、受け取ったギアの包装を破り、その完璧な歯の並びを見ると、目をカッと見開いた。
「すげえ。本当に見つけてきやがった。しかも、状態は最高だ」
「真理のリストのおかげだよ。あの伝票の裏のメモがなかったら、絶対に見つからなかった」
健一が真理に向かって親指を立てると、真理はフンとそっぽを向いたが、その口元は少しだけ嬉しそうにほころんでいた。
「当然でしょ。丸の内OLの情報網を甘く見ないで」
「よっしゃあ!!」
辰じいが、雄叫びを上げた。
「これで心臓部は完璧だ! 健一、今日から三日間、徹夜で組み上げと最終調整に入るぞ! 死ぬ気でついてこい!」
「はいっ!!」
「ちょっと待ちなさいよ」
真理が、自分のバッグから、コンビニのレジ袋を取り出した。
中には、リポビタンDとおにぎりが大量に入っていた。
「あんたたち二人だけじゃ、倒れられちゃ困るからね。私も、部品の整理や掃除くらいは手伝ってあげるわよ。ただし、残業代はあんたの奢りだからね、健一」
「真理、お前」
そこへ、「おーい」と暢気な声が響いた。
夜間巡回中の佐々木警備員が、魔法瓶のコーヒーと紙コップを持って歩いてきた。
「いやぁ、なんだか楽しそうなことやってるねえ。私も、見回りの合間に少し手伝わせてもらおうかな。実は昔、プラモデル作りが得意でね」
健一は、集まった仲間たちの顔を、ぐるりと見渡した。
バブルの波にのみ込まれそうになりながら、ばらばらになりかけた屋上の住人たちは今、小さな奇跡を起こすために、ひとつになっていた。
自分はもう、現実から逃げているだけのフリーターじゃない。
この「蘇生計画」の一端を担う、ちゃんとした仲間なんだ。
「よし。絶対に、ペンギン号を飛ばしましょう!」
健一の力強い声が、秋の夜空に響き渡った。
閉鎖まで、あと四日。
空飛ぶペンギン号の蘇生計画が、仲間たちの手によって、いよいよ最終段階へと突入した。




