第21話 洋子ママの特製カツ丼決起集会
デパートの営業が終了し、地上のネオンがチカチカと瞬き始める夜の八時。
普段ならとっくにシャッターが下りて、静寂に包まれているはずの屋上遊園地のスナックコーナーは、今日だけは半分開いたシャッターの奥から、煌々と温かいオレンジ色の明かりが灯っていた。
油で汚れた換気扇が、低い唸り声を上げて回っている。
色あせたプラスチック製の「焼きそば・カレーライス」の短冊メニューが下がる厨房の中から、洋子ママの威勢のいい声と、油が勢いよく爆ぜる音が響き渡っていた。
「ほーら、揚がったよ! 熱いうちに食いな!」
換気扇からは、ラードで分厚い豚肉を揚げる暴力的なまでに香ばしい匂いと、大鍋でグツグツと煮込まれている、醤油と砂糖をたっぷり使った甘辛いダシの香りが、秋の冷たい夜風に乗って屋上一面に漂っていた。
「うわあ、すごいボリューム! これ、本当に一人分ですか?」
パイプ椅子に座っていた健一が、目の前にドンと置かれた大きなラーメン用のどんぶりを見て、思わず目を丸くした。
どんぶりの縁からはみ出さんばかりの巨大なトンカツが二枚。
それが、飴色になるまで煮込まれたたっぷりの玉ねぎと一緒に、トロトロの半熟卵で贅沢に綴じられている。
仕上げに散らされた三つ葉の緑が、裸電球の照明に照らされて鮮やかに輝いていた。
「アタシの特製、大盛りダブルカツ丼だよ! これから大一番の勝負に出るんだ、腹の底からガッツリ力つけて『勝つ』っきゃないだろ!」
洋子ママは、腰に巻いた白いエプロンで手を拭いながら、ニカッと豪快に笑い飛ばした。
スナックコーナーの、端が少し剥がれかけたデコラ張りの古いテーブルを囲んでいるのは、健一、辰じい、奈緒、真理。
そして、制服の帽子を脱いで、パンプスで締め付けられたストッキングの足先をもみほぐしながらくつろいでいる、新人エレベーターガールのミカだった。
「ママ、私一応ダイエット中なんだけど・・こんな夜遅くに、こんなカロリーのお化けみたいなカツ丼なんて」
肩パッドの入ったシャネルのスーツ姿の真理が、山盛りのどんぶりを前に少しだけ顔を引きつらせる。
「バカおっしゃい。そんなガリガリの体じゃ、バブルの荒波に吹き飛ばされちまうよ! 女は愛嬌と度胸、それに食い気よ。いいから四の五の言わずに食え食え!」
「・・まあ、いいわ。今日だけは特別ね。明日からまた、仕事帰りにスポーツクラブのプールで死ぬほど泳げばいいし」
真理は割り箸をパチンと勢いよく割り、上品なスーツ姿には似つかわしくないほど豪快に、カツとご飯を一緒に口の中へ放り込んだ。
ここは、『空飛ぶペンギン号・蘇生計画』および『秘密の最終営業』に向けた、第一回決起集会の会場だった。
「それじゃあ、改めて作戦の確認だ」
口の周りに卵の黄身をつけたまま、健一が立ち上がり、マジックで乱暴に字が書き込まれたわら半紙のメモをテーブルのど真ん中に広げた。
「屋上の閉鎖日、つまり解体業者が入る前日の十一月三日。夕方の五時で、デパート全体の営業は終了して、お客さんは全員外に出される。俺たちの『シークレット・カーニバル』は、その一時間後、完全に日が落ちた夜の六時からスタートだ。ペンギン号をありったけの電球でライトアップして、常連の子供たちに最後の姿を見てもらう」
「警備はどうすんのよ。あの神経質な佐々木さんに見つかったら、即刻中止じゃない? 大目玉食らって、最悪警察沙汰よ」
真理が、黄色いたくあんをボリボリとかじりながら鋭く指摘した。
「佐々木さんは大丈夫。夜間巡回中の佐々木さん、実は夜のメリーゴーランドが異常に怖くて、いつも屋上の見回りをサボってるんだ。それに、昨日俺たちに魔法瓶のコーヒーの差し入れを持ってきた時、『その日は一階の警備室で巨人戦のナイター録画をじっくり見るから、上から変な音がしても絶対に聞かなかったことにする。戸締まりだけはしっかり頼むぞ』って、わざわざ片目でウインクしてくれたからな」
「なんだ、あの堅物おじさんもすっかり共犯者じゃないの」
「問題は、どうやってお客さんを屋上に呼ぶかだ」
辰じいが、缶ビールを喉の奥でゴクリと呷りながら、低いしゃがれ声で言った。
「閉店後に客を入れるなんて、表のシャッターからは絶対に無理だ。従業員用の裏口から、こっそり引き入れるしかねえ。だが、子供だけじゃ迷子になるし、親御さんも心配するだろう」 「それ、私がやります!」
どんぶりを抱え込んでカツ丼をかきこんでいたミカが、箸を高く突き上げて勢いよく手を挙げた。
「私、エレベーターガールだから、従業員用の搬入用エレベーターのマスターキー、持ってるんですよ。閉店後、招待状を持ってる子供たちとその親御さんを、裏の通用口に集めて、私が一気に屋上まで直通で運びます! 『上へ参りまーす、次は秘密の屋上階、シークレット・カーニバル会場でございまーす』って感じで!」
「おお、頼もしいなミカちゃん!」
健一が感嘆の声を上げると、ミカは照れくさそうに鼻の頭を指で擦った。
「私、一階の華やかな化粧品売り場とか、愛想笑いばっかりしてる密室のエレベーターの中とか、もう息が詰まって嫌だったんです。金持ちのオバサンの香水の匂いにもウンザリ。この屋上だけが、私が靴脱いで思い切りサボれる唯一のオアシスだったから。その大事なオアシスがなくなる前に、パーッと派手な打ち上げ花火、ぶち上げたいじゃないですか!」
「招待状は?」
奈緒が、どんぶりを両手で持ちながら、小首を傾げて尋ねた。
「うちのペットコーナーに来てくれてる常連の子たちには、私が直接、親御さんの目を盗んでこっそり渡せますけど。マモル君みたいに、一人でふらっと遊びに来てる子たちには・・」
「それは、私が昨日の夜中、『プリントゴッコ』で徹夜で作ってきたわよ」
真理が、自分のブランド物のバッグから、色鮮やかに印刷された手作りのカードを分厚い束にして取り出し、テーブルの上にバサッと置いた。
「おおっ、すごい! 空を飛ぶペンギンの絵が描いてある!」
「あんたが段ボールの切れ端にマジックで描いた、あの適当な図面を元にして、私が綺麗にトレースし直してあげたのよ。ピカッとランプを光らせて、金色のインクをベチャッと塗って、一枚一枚手作業ですり込んだんだから。感謝しなさいよね」
「うわあ、すごいインクの匂い! 真理、こんな細かい作業よくやったな」
「これを、明日からミカちゃんがエレベーターの中で、常連の子供たちを見つけたら、こっそりポケットに忍ばせて渡すの。合言葉は『夜のペンギン』よ」
「了解です! スパイ大作戦みたいで、超燃えますね!」
ミカがビシッと敬礼のポーズを取る。
健一は、真理が作った招待状の束と、そこから香るインクの独特な匂いを嗅ぎながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
ほんの数ヶ月前まで、この屋上は、就職活動から逃げ出した自分の、ただの吹きだまりでしかなかった。
誰の目にも止まらない、忘れ去られた場所。
けれど今は違う。
それぞれ違う場所で、違う不満や孤独を抱えていた人間たちが、一つの小さな奇跡を起こすために、こうして肩を寄せ合い、同じ釜の飯を食っている。
「・・はい、これ」
不意に、真理が自分のどんぶりから、一番大きなトンカツの中心の一切れを箸でつまみ上げ、隣に座っていた奈緒のどんぶりにポンと無造作に乗せた。
「え?」
「あんた、細すぎるのよ。北海道に行ったら、毎朝マイナス十度の中で雪かきとかしなきゃいけないんでしょ? そんな華奢な体じゃ、風邪ひいて倒れちゃうわよ。もっとガッツリ体力つけなさいよ」
真理は、わざとぶっきらぼうな口調で言って、そっぽを向いた。
健一は、その光景を見て心臓が止まるかと思った。
つい先日まで、二人の間には火花が散るような、ピリピリとした緊張感が漂っていたから。純
喫茶でのあの大ゲンカから、真理が奈緒にまた何か嫌味を言っているのではないかと、健一が慌てて止めに入ろうと腰を浮かせたその時。
「ふふっ」
奈緒が、おかしそうに声を上げて笑った。
「ありがとうございます、野村さん。じゃあ、私からは、これを」
奈緒は、自分のどんぶりに乗っていた半熟卵の、一番とろとろで美味しい部分をレンゲですくって、真理のどんぶりに乗せ返した。
「なによこれ」
「野村さん、さっきお肌の美容を気にしてらしたから。卵は良質なタンパク質が豊富で、お肌のツヤを良くするのにすごくいいんですよ」
奈緒が少しだけ悪戯っぽく微笑むと、真理は一瞬目を丸くし、やがて「あんた、おとなしそうな顔して、意外と計算高いわね」と吹き出した。
「相原さんにだけは負けます」
「生意気言うようになったじゃない。でも、ありがたくいただいておくわ」
二人は、カツ丼をつつきながら、初めて心からの無防備な笑顔で笑い合った。
その様子を呆然と見つめる健一の背中を、厨房から出てきた洋子ママが、濡れ布巾で丸めた手でバシッと強めに叩いた。
「痛っ! 何するんだよママ!」
「あんたはホンットに鈍チンだからわかんないだろうけどね、女同士の友情ってのは、男が入り込めないくらい深くて面倒くさいもんなんだよ。もう、あんたはお払い箱さ。いい顔して笑うようになったじゃないか、あの子たち」
洋子ママは、満足そうに豊かな胸を張って腕を組んだ。
辰じいも、ビールの空き缶を灰皿代わりにしながら、目を細めて二人を見守っていた。
カツ丼のどんぶりを片付けると、屋上はすぐに「秘密基地の工房」へと姿を変えた。
機材倉庫の前に引っ張り出されたペンギン号に、強烈なハロゲンランプの光が当てられる。 「健一、そこをしっかり押さえとけ! ギアの噛み合わせがコンマ一ミリでもずれたら、摩擦で一発で焼き付くぞ!」
「はい! 辰じい、もうちょい右です!」
健一と辰じいは、油まみれになりながら、ペンギン号の腹の下に潜り込んでいた。
新しく手に入れた重厚なメインギアに、たっぷりとグリスを塗り込み、古いモーターの軸に慎重にはめ込んでいく。
金属と金属が擦れ合う微かな音に、二人は全神経を集中させていた。
「よし、入った! 完璧な噛み合わせだ。やっぱり昭和の職人の削り出したギアは、精度がまるで違うぜ」
辰じいが、汗を拭いながら満足そうに笑う。
そのすぐ横では、ミカが雑巾にコンパウンドをつけ、ペンギン号の青いFRP製の外装を必死に磨いていた。
「パラダイス銀河〜♪ ようこそここへ〜♪」 当時大流行していた光GENJIの曲を鼻歌で歌いながら、ミカはリズムに乗って手を動かす。
長年の雨風で白く濁っていたペンギンの機体が、ミカの磨きによって、少しずつ当時の艶やかな青色を取り戻し始めていた。
「ミカちゃん、その調子! 新品みたいにピカピカにしてくれよ!」
「任せといて! 私、こう見えても中学の時、先輩のバイク磨きで鍛えられてるんで!」
一方、スナックコーナーのテーブルでは、真理と奈緒が、小さな電気スタンドの明かりを頼りに、招待状の封入作業を進めていた。
「字がすごく綺麗ね。ペン習字でもやってたの?」
真理が、奈緒の書いた宛名を見て感心したように言った。
「いえ、昔、実家の工場の伝票書きを手伝っていたから、自然に。野村さんの字も、すごく勢いがあってカッコいいです」
「銀行の窓口で、急いで処理しなきゃいけないから、どうしても男文字になっちゃうのよね。ねえ」
真理は、封筒にのり付けをしながら、ふと手を止めた。
「北海道、雪、すごいんでしょ。向こうに行っても、鳥の世話、するの?」
「はい。小さなペットショップですけど、住み込みで働けるところを、父が見つけてくれたので」
奈緒の横顔は、少し寂しそうだったが、迷いはなかった。
「そう。たまには、東京にも遊びに来なさいよ。その時は、私が銀座の美味しいお店、案内してあげるから」
「はい。ありがとうございます、野村さん」
二人の間に流れる空気は、とても穏やかで、優しかった。
ハロゲンランプの光。
工具の響く音。
ミカの鼻歌。
そして、女たちの静かな語らい。
夜のデパートの屋上は、一つの大きな家族のように、温かな一体感に包まれていた。
バブルという狂騒の時代の片隅で、彼らが起こそうとしている小さな奇跡。
解体の日まで、あと三日。
空飛ぶペンギン号は、仲間たちの思いを乗せて、再び空へ羽ばたくその時を、静かに待ちわびていた。




