第22話 夜更けのテストドライブ
解体工事まで、あと二日と迫った十一月一日の深夜。
デパートの営業が完全に終わり、街の喧騒から隔離された屋上は、耳が痛くなるほどの静寂と、凍りつくような緊張感に包まれていた。
「よし。モーターのブラシの交換と配線の結線、すべて完了だ」
ペンギン号の腹の下から這い出してきた健一が、油と泥で真っ黒になった顔で、深い息を吐き出した。
その手には、絶縁用の黒いビニールテープがしっかりと握られている。
「こっちの外装の組み立ても終わったぞ。ボルトの緩みもねえ。完璧だ」
辰じいが、太いレンチで機体の側面を軽く叩きながら、腰をさすって立ち上がった。
機材倉庫の前に鎮座する「空飛ぶペンギン号」。
数日前まで、ホコリとサビにまみれてブルーシートの下で無残に死にかけていた。
それが、今や、見違えるような姿を取り戻していた。
ミカが三日三晩かけてコンパウンドで磨き上げたFRP製の青いボディは、夜空の星を反射するほど艶やかな光沢を放っている。
真理が、自分のマニキュアをダメにしてまで丁寧に色を塗り直した真っ赤なくちばしと、愛嬌のある丸い目。
そして、健一が下町の町工場を探し回って執念で見つけ出し、辰じいが一ミリの狂いもなく組み上げた新しい心臓部のメインギア。
すべての部品が、昭和の職人の魂と、若者たちの意地によって、今、完璧な一つの「生き物」として組み上げられていた。
「すごい・・。本当に、新品みたいにピカピカですね」
奈緒が、ペンギン号の滑らかな機体を、本物の小鳥を扱うように愛おしそうに撫でながら呟いた。
「当然でしょ。私がシャネルのスーツにペンキを飛ばしながら塗り直したんだから。・・で、どうなの? 見た目は完璧だけど、本当に動くの、これ」
真理が、腕を組みながら半信半疑の目を向ける。
「動く。絶対に、動かしてみせる」
健一は、作業着のポケットに手を入れた。
指先が触れたのは、一枚の冷たい百円玉。
自分のモラトリアムな時間を誤魔化すために、無意味に機械に放り込み続けてきた硬貨。
だが今日の一枚は違う。
これは、終わろうとしている自分たちの青春に、そして奈緒との思い出に、最後の魔法をかけるための、一枚の切符。
「いくぞ」
健一は、百円玉を親指と人差し指の間に挟み、スッと構えた。
辰じい、奈緒、真理、ミカ。
四人が息を呑む気配だけが、夜風の音すら消え失せたかのような完璧な静寂の中に満ちた。
全員の視線が、健一の指先に集中した。
健一は、深く息を吸い込み、狙いを定めた。
・・ピンッ!
弾かれた百円玉が美しい銀色の放物線を描いた。
それは、寸分の狂いもなく、ペンギン号の横腹にある硬貨投入口へと吸い込まれた。
チャリン。
硬貨が内部のマイクロスイッチを弾く、澄んだ音が響いた。
・・一秒、二秒、三秒。
ペンギン号は、沈黙したままだった。
「あれ?」
ミカが首を傾げた、その瞬間。
『♪〜ポロロロン、タラララ、タラララ〜♪』
突然、少し音程の外れた、ひどく間の抜けたオルゴール調の電子メロディが屋上に鳴り響いた。 それと同時に、ペンギン号の内部から「ウイィィィン!」という、力強いモーターの唸り声が上がる。
「おっ!」
健一が身構えた。
ガコンッ、という鈍い衝撃音と共に、ペンギン号の車輪が古いレールを噛み、ゆっくりとゆっくりと、前へ進み始めた。
「動いた・・ 動いたぞ!!」
健一が両腕を突き上げて夜空に向かって叫んだ。
しかし、その感動も束の間だった。
「お、遅っ!!」
真理が、目を丸くして素っ頓狂な声を上げた。
ペンギン号の最高速度は、時速四キロ。
大人が少し早歩きをする程度のスピード。
しかも、長年の劣化のせいか、時々「ガクン、ガクン」と不器用に揺れながら、這うようにしてサビついたレールの上を進んでいく。
さっきまでの、命懸けの蘇生手術のような緊迫感との、あまりにも激しい落差だった。
「なにこれ、全然飛んでないじゃない! 這いずり回ってるだけ!」
「アハハハハッ! カメみたいな鈍くさいペンギン! ウケるっス!」
健一が呆れたように笑い出し、ミカがお腹を抱えて爆笑する。
真理も「ちょっと、これに乗って喜ぶ子供なんているの!? 歩いたほうが絶対速いわよ!」と言いながら、涙が出るほど笑った。
「バカ野郎、笑うな! このモーターの安定した駆動音を聞け! 完璧なチューニングだぜ!」
辰じいは怒鳴りながらも、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
油まみれの粗品タオルで、何度も目元をごまかすように拭っている。
奈緒は、両手で口元を覆いながら、嬉しそうに、何度も何度も頷いた。
「おい、健坊。試運転だ」
辰じいが、ゆっくりと進むペンギン号の横を歩きながら言った。
「え?」
「せっかく直したんだ。誰かが実際に乗って、重量をかけた時のサスペンションの沈み具合や、ギアへの負荷の掛かり方を確かめねえとダメだろ。お前乗れ」
「俺が? でも、これ子供用だよ? 大人が乗ったら壊れるんじゃ」
「大人が二人乗っても十分耐えられるように、俺が昔、フレームを補強してある。ほら、小鳥のお姉ちゃんも一緒に乗せてやれ」
「えっ・・!」
健一の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
奈緒も、驚いたように目を丸くしている。
「ほらほら、早く乗りなさいよ! 百円分の時間がもったいないでしょ! さっさと行きなさい、このヘタレ!」
真理が、健一の背中をドンと力強く突き飛ばした。
健一はよろけて、ペンギン号の横に並んでいた奈緒にぶつかりそうになる。
「あ、ごめん・・」
「ふふっ。じゃあ・・お邪魔しますね」
奈緒は、少しだけ頬を赤らめながら、動いているペンギン号の小さな座席に、ひょいと腰掛けた。
「お、お邪魔します」
健一も、慌ててその後を追い、奈緒の隣の座席に身体をねじ込んだ。
子供用の二人がけシートは、大人の男女が座るにはあまりにも狭かった。
健一の左肩と、奈緒の右肩が、隙間なくぴったりと触れ合う。
奈緒の髪から、微かに甘いシャンプーの香りがした。
健一の心臓は、さっきのモーター音よりもはるかに激しく脈打っていた。
時速四キロのテストドライブ。
ペンギン号は、ガタゴトと頼りない音を立てながら、外周レールに沿って、ゆっくりと、ゆっくりと進んでいく。
屋上のフェンスの向こう側には、一九八八年の東京の、眩いばかりの夜景が広がっている。
バブル経済の絶頂期。
眼下には、深夜だというのに渋滞しているテールランプの赤い川。
遠くには、不夜城のように煌々と輝く高層ビル群のネオンサイン。
世界中の富と欲望が渦巻く、圧倒的な光の海。
あの下では、毎晩何千万円、何億円というお金が動き、人々がものすごいスピードで時代を駆け抜けている。
しかし、ここ地上八階の屋上だけはまるで別の世界のように静かで穏やかだった。
たった百円玉一枚で動く、歩くよりも遅いこの小さな奇跡。
冷たい秋の夜風が、二人の火照った頬を心地よく撫でていく。
「すごい。ここから見る夜景、こんなに綺麗だったんですね」
奈緒が、身を乗り出すようにしてフェンスの向こうの光の海を見つめた。
色とりどりのネオンの光が、彼女の横顔を淡く照らし出している。
「俺も、こうしてゆっくり見たのは初めてかも」
健一は、眩い夜景ではなく、奈緒の横顔だけを見つめていた。
肩と肩が触れ合うたびに、奈緒の柔らかな体温が伝わってくる。
時速四キロという、亀のようなスピード。
ガラクタ同然の、時代遅れの遊具。
だが、健一にとっては、これが人生で一番贅沢で、一番幸せなドライブだった。
このまま夜空へ飛び立ち、煩わしいこと悲しいことすべてを忘れられたらどんなにいいだろう。
(このまま、ずっと・・)
健一は、心の中で祈った。
この時間が、永遠に続けばいい。
このゆっくりとした、バブルの猛スピードとは無縁の優しくて不器用な時間。
奈緒が、遠い北海道へ行ってしまうことも。
この大切な屋上が、スクラップにされてしまうことも。
自分が、何者にもなれないまま、冷たい社会に放り出されることも。
全部、幻になってしまえばいいのに・・。
「直してくれて、ありがとう。健一くん」
不意に、奈緒が健一の方を向いて、静かに微笑んだ。
「私、この夜のこと、一生忘れません。この屋上で過ごした時間のこと。健一くんが、不器用だけど、すごく優しい人だってこと・・全部、北海道に持っていきます」
その言葉は、優しくて、温かかった。
そして、どうしようもなく残酷だった。
彼女は、ちゃんと「終わり」を受け入れている。
自分だけが、まだこのモラトリアムの空にしがみつこうとしている。
「・・奈緒ちゃん」
健一が、震える声で彼女の名前を呼んだ、その時。
『♪〜ジャジャジャ、ジャン!〜♪』
間の抜けた電子メロディが、唐突に終了の合図を鳴らした。
ブツン、とモーターへの通電が途切れた。
ペンギン号は、ガクンと前につんのめるようにして、その歩みをピタリと止めた。
約三分間の、小さな小さな魔法のフライト。
それは、あまりにもあっけない終わりだった。
「あーあ、終わっちゃった・・」
奈緒が、名残惜しそうに笑って、ペンギン号からひらりと降りる。
健一は、シートに座ったまま、空っぽになった自分の右肩を見つめていた。
終わってしまった。
百円玉で買える魔法の時間は、必ず終わりが来る。
このペンギン号が止まったように。
そして、奈緒との別れの時間が、もうすぐそこまで迫っているように。
「健坊、どうだ! 乗り心地、最高だったろ!」
遠くから、辰じいの得意げな声が聞こえてくる。
「ああ。最高だった、辰じい」
健一は、冷たい夜風に吹かれながら、無理やり笑顔を作って立ち上がった。
終わってほしくない。
でも、時間は止められない。
ならばせめて、最後の一秒まで、この場所を、この人たちを、全力で輝かせるしかない。
屋上遊園地の最後の日まで、あと二日。
別れの足音は、静かに、確実に近づいていた。




