第23話 すれ違う最終電車
深夜一時を回っていた。
デパートの従業員用出入り口を抜けると、十一月特有の、身を切るような冷たい風が二人の火照った頬を容赦なく打った。
「寒っ」
健一がブルッと肩をすくめると、隣を歩く奈緒が、薄手のアイボリーのウールのコートの襟を合わせながら小さく笑った。
先ほどまでの、屋上の熱気と奇跡のようなテストドライブの余韻が、冷たい夜気の中で急速に現実へと引き戻されていく。
健一の手のひらには、石鹸で何度も洗ったはずの、ペンギン号のギアに塗り込んだグリスの匂いが微かに残っていた。
辰じいは「俺はもう一仕事していく。明日は朝からキャブレターの微調整だ」と屋上に残った。真理とミカは「お肌のゴールデンタイムが過ぎちゃうわ」と文句を言いながら、大通りでタクシーを拾って帰っていった。
必然的に、健一が奈緒を最寄りの私鉄の駅まで歩いて送ることになった。
二人は、すっかりシャッターの閉まった薄暗い商店街を並んで歩いた。
深夜の街は、遠くの大通りを走る大型トラックの走行音と、時折すれ違う酔っ払いの千鳥足の音しか聞こえない。
不夜城と呼ばれる東京でも、この下町だけは、昔ながらの静かな夜の闇を守っていた。
街灯の下を通り過ぎるたび、二人の影がアスファルトの上に長く伸びては重なり、そしてまた離れていく。
健一は、コートのポケットの中で強く拳を握りしめていた。
奈緒との距離は、ほんの数十センチ。
手を伸ばせば、彼女の華奢な肩にも、細い指先にも触れられる。
けれど、その数十センチのあいだには、見えない分厚いガラスの壁でもあるかのような隔たりがあった。
「今日のテストドライブ、本当に楽しかったです」
不意に、奈緒が前を向いたまま口を開いた。
白い息が、街灯のオレンジ色の光にふわりと溶けていく。
「あんなにゆっくり動くペンギン号に乗って、夜景を見たことなんてなかった。・・本当に、空を飛んでるみたいでした。魔法の時間みたいで」
「うん。俺も、あんなに綺麗な夜景を見たのは初めて。辰じいも泣きそうになってたし」
健一は、足元の点字ブロックを見つめながら相槌を打った。
「・・奈緒ちゃん」
「はい」
「北海道の、引越し先、もう、ちゃんと決まってるんだよね」
その質問を口にした瞬間、健一は激しく後悔した。
さっきまでの魔法の時間を、自分から終わらせてしまったような気がしたから。
奈緒は、歩みを少し遅くして静かに頷いた。
「はい。帯広の方にある、親戚の農家にお世話になることになりました。父も母も、もう一度そこで働きながら、一から出直すって」
「そう、なんだ・・」
「私、小さい頃に一度だけそこへ行ったことがあるんです。冬になると、見渡す限りの真っ白な雪景色になって。空気がすごく澄んでて、夜になると星が降るみたいに綺麗に見えるんですよ。白鳥も飛んでくるんですって」
奈緒の声は、努めて明るく振る舞おうとしているのがわかった。
でも、その声の端々には、隠しきれないほんの微かな震えが混じっている。
慣れ親しんだ東京を離れ、実家の倒産という重い十字架を背負って、見知らぬ極寒の雪国で暮らすことへの不安と寂しさ。
屋上でインコや文鳥を優しく世話してきた彼女の小さな手が、凍てつく雪かきや、慣れない農作業で荒れてしまうだろう。
二十一歳の女の子がで抱え込むにはあまりにも重すぎる荷物だった。
健一は何も言えなかった。
(俺に、何が言えるんだ)
健一は奥歯を噛み締めた。
『行くなよ』
『東京に残って、俺と一緒にいてくれよ』
そんなテレビドラマのような甘いセリフが喉の奥まで出かかっていた。
だが、今の自分に、そんな無責任な言葉を吐く資格がどこにあるだろう。
大学を出たのに就職もできず、デパートの屋上で、無くなる遊園地にしがみついているだけのフリーター。
明日の生活すら保障できない、社会の底辺を漂う男が、どうして彼女の重い人生を背負ってやることができるだろう。
もし俺が、黒木のような一流企業のエリートで、安定した稼ぎがあったら。
もし俺が、辰じいのように自分の腕一本で生きていける確かな職人だったら。
ないものねだりの後悔と自己嫌悪が、鋭い針のように健一の胸を何度も何度も突き刺した。
優しさだけで人を救えるほど、現実は甘くない。
その残酷な真実を、健一は痛いほど思い知らされていた。
蛍光灯の青白い光が漏れる、駅の入り口が見えてきた。
終電間際の駅構内は、人影もまばらで、コンクリートの床がひどく寒々しかった。
自動券売機ではなく、昔ながらのプラスチックの丸いボタンが並ぶ古い券売機で、奈緒が切符を買った。
チャリン、チャリンという硬貨の音が、しんと静まり返った構内にやけに響いた。
健一は、改札の手前で足を止めた。
「・・ここまでで」
奈緒が、振り返って健一を見た。
「うん、気をつけて帰ってね」
「はい。健一くんも、風邪ひかないように気をつけて」
奈緒は、薄緑色の切符を手に持ち、改札口へと歩いていく。
ガラス張りの小さなボックスの中に駅員がポツンと座っている。
奈緒が切符を差し出すと、半分眠りこけていた初老の駅員が、面倒くさそうに鋏を入れ、「カチカチッ」という鋭い金属音を響かせた。
その小さな音が、健一には、二人の世界を完全に切り離す断頭台の音のように聞こえた。
改札を抜けた奈緒が、くるりと振り向いた。
健一と奈緒との間には、腰の高さほどあるステンレス製の改札の柵が横たわっている。
たった一メートルの距離。
手を伸ばせば、まだ届く距離。
だが、切符を持たない健一はその柵を越えることはできない。
二人の間に横たわるのは、ただの柵ではない。
「社会に出ている人間」と「何者にもなれていない自分」を隔てる、絶対に越えられない巨大な壁のようだった。
静かだった。
蛍光灯の「ジィィィ」という低いノイズだけが響いている。
奈緒は、じっと健一の目を見つめていた。
その瞳の奥底で何かが小さく揺れているように見えた。
もしかしたら、彼女は待っているのではないか。
みっともなくてもいい。
無責任でもいい。
ただ一言、「好きだ」と、「行かないでくれ」と、俺が叫ぶのを。
俺がこの柵を飛び越えて、彼女の手を引いて走り出すのを。
(言えよ、健一・・)
心の中で、もう一人の自分が絶叫している。
ポケットの中で握りしめた拳に爪が食い込んだ。
喉が張り裂けそうだった。
空気が肺に入ってこなかった。
しかし・・。
健一が、震える唇を開きかけたその瞬間。
『ジリリリリリリリリリリリリリッ!!!』
駅のホームから、最終電車の発車を知らせる、けたたましい発車ベルが鳴り響いた。
古い駅特有の、鼓膜をつんざくような、神経を逆撫でする無情な機械音だった。
まるで、健一の迷いを嘲笑い二人の時間を強制的に終了させるタイムアップの合図だった。
ベルの音に驚いた奈緒が、びくっと肩をすくめた。
そして、すべてを悟り、諦めたように目を伏せた。
彼女の目尻に、一瞬だけ、キラリと光るものが浮かんだように見えた。
だが、奈緒はすぐに顔を上げ、これまでで一番綺麗で、一番悲しい笑顔を作った。
「・・じゃあ、また明日。屋上で」
奈緒の声は、発車ベルの轟音にかき消されそうになるほど細かったが、健一にははっきり届いた。
「・・うん。また明日」
健一の口から出たのは、それだけの間抜けな言葉だった。
奈緒は小さくお辞儀をすると、くるりと背を向け、ホームへと続く薄暗い階段を小走りで駆け上がっていった。
アイボリーのコートの裾が、階段の向こうへと吸い込まれ、やがて姿が見えなくなった。
『ドアが閉まります、ご注意ください』
無機質なアナウンスの後、プシューという空気音と共に鉄の扉が閉まる音が響いた。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
最終電車が、奈緒を乗せて、夜の闇の向こうへと走り去っていく。
レールの軋む音が、少しずつ遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。
後に残されたのは、深夜の駅の、しんとした静寂だけだった。
「うぁ・・」
健一は、改札のステンレスの柵を両手で力強く掴んだ。
冷たい金属の感触が、手のひらから全身へと伝わっていく。
悔しかった。
自分がどうしようもなく惨めで、情けなくて、腹立たしかった。
「くそっ・・!」
健一は、柵を握りしめたまま膝をつき、下唇を血が滲むほど強く噛み締めた。
視界が急激に滲んだ。
ポタリと、コンクリートの床に涙が落ちて黒いシミを作った。
たった一言が言えなかった。
たった一つの柵を、越えることができなかった。
二十二歳の秋。
バブルの狂騒の裏側で、健一の初恋はすれ違う最終電車と共に遠くへと走り去ってしまった。
改札口の前にうずくまる健一の背中を、深夜の冷たい風が容赦なく吹き抜けていった。




