第24話 真理の背中押し
薄汚れたカーテンの隙間から、白々とした秋の朝の光が容赦なく差し込んできた。
健一は、昨夜から一睡もできないまま、安アパートの万年床に仰向けに転がっていた。
コートも着たままで、革靴の代わりに脱ぎ捨てたスニーカーが、玄関の土間に無造作に転がっている。
暖房の切れた六畳一間の部屋は、芯から冷え切っていたが、健一は毛布を引き寄せる気力すら湧かなかった。
チクタク、チクタク。
壁に掛けられた安い時計の秒針の音だけが、無機質に響いている。
脳裏に焼き付いているのは、冷たい金属の改札越しに見えた、奈緒の悲しげな笑顔。
『じゃあ、また明日。屋上で』
発車ベルの轟音にかき消されそうだったあの細い声が、耳の奥で何度も何度もリフレインしている。
彼女は、何かを待っていたはずだった。
あの透明な瞳が微かに揺れた瞬間、健一が何かを言ってくれるのを、わずかな期待を持って待っていた。
それなのに、俺は。
健一は、自分の両手を見つめた。
薄汚れたグリスの匂いは、もうすっかり消えている。
代わりに残っているのは、何も掴めなかった虚無感だけだ。
たった一言、「行くな」と言う勇気すらなかった。
バブル景気に浮かれる世の中で、同世代の連中がダブルのスーツを着て、一万円札を振ってタクシーを止めている中、自分は何者にもなれていないただのフリーターだ。
大学を出て、まともな就職もできず、デパートの屋上で子ども騙しのパンダカーを磨いているだけの、社会の底辺。
そんな自分が、実家の倒産という重い荷物を背負った彼女の人生を、一緒に背負う覚悟なんて、最初からあるわけがなかった。
「俺に、何ができるんだよ・・」
健一は、ズキズキと痛む頭を抱え込むようにして、布団に顔を押し付けた。
自分がどうしようもなく惨めで、情けなくて、腹立たしい。
今日で、あの屋上遊園地も終わりだ。
奈緒が去り、辰じいが丹精込めて直した遊具たちはクレーンで吊られ、すべてがスクラップになる。
もう、自分があの屋上に行く理由は、何一つ残されていなかった。
このまま、布団をかぶってすべてが過ぎ去るのを待とう。
そうすれば、痛みも悲しみも、やがて時間と共に薄れていくはずだ。
これまでの自分の人生がそうだったように、波風を立てず、無難にやり過ごせばいい。
そうやって逃げ続けるのが、小林健一という人間の生き方なのだから。
その時。
『ドンドンドンドンドンッ!!』
薄い鉄のドアが、ひしゃげるほどの勢いで叩かれた。
「健ちゃん! 開けなさいよ、健一っ!!」
朝の静寂を切り裂くような、鋭く甲高い声。
真理だった。
「真理・・?」
健一が重い体を起こし、のろのろと玄関に向かおうとした瞬間、チャキッという金属音が響いた。
ガチャリと乱暴にドアが開く。
「ちょっと! あんた、鍵開けっ放しじゃないの! 無用心すぎるわよ!」
真理が、肩で息をしながら踏み込んで来た。
平日の朝だというのに、彼女はいつものワンレン・ボディコンの通勤着ではなく、洗いざらしのジーンズにゆったりとした白いローゲージニットという、休日のようなラフな格好だった。
しかし、手には高級ブランドの革のバッグが握りしめられている。
健一の部屋の澱んだ空気に、彼女がつけている微かなシャネルの香水の匂いが混ざり込んだ。
しかし、その顔つきは鬼気迫るものがあった。
綺麗に引かれたアイラインの奥の瞳が、怒りでギラギラと燃え上がっている。
「何だよ、朝っぱらから。銀行は、休みなのかよ」
健一は、かすれた声で呟きながら、眩しそうに目を細めた。
真理は、無言で健一の全身を上から下まで嘗め回すように見つめた。
コートも脱がず、髪はボサボサ。
目の下にはくっきりと隈ができ、部屋には昨夜のままの冷たい空気が澱んでいる。
すべてを察したように、真理の細い眉がピクリと吊り上がった。
「あんた。昨日、ちゃんと見送ったんでしょうね?」
鋭い声だった。
健一は、視線を床に落とした。
「見送ったよ。駅の改札まで」
「それだけ?」
「それだけだ。彼女は、北海道の親戚の農家に行くって。俺が口を挟めるような問題じゃない。俺なんかが、彼女に何をしてやれるんだよ。金もない、仕事もない、ただのフリーターが・・彼女の足を引っ張るだけだろ」
言い訳のようにごまかす健一の言葉に、真理はゆっくりと近づいてきた。
「最低」
低く、冷たい声だった。
「え・・?」
健一が顔を上げた、次の瞬間。
パァァァンッ!!
乾いた破裂音が、狭い部屋に響き渡った。
頬に走る鋭い痛み。
健一は、何が起きたのか理解できず、呆然と立ち尽くした。
真理が、健一の頬を思い切り平手打ちした。
彼女の右手が、小さく震えている。
「あんた、それでも男なのっ!?」
真理の絶叫が、健一の胸に突き刺さった。
「な、何すんだよ!」
「情けない顔してんじゃないわよ! 自分は何者でもない? 自分には何もできない? ふざけないでよ! あんたがうじうじ悩んでる間に、あの子がどれだけ不安な気持ちで東京を離れると思ってんの!?」
真理の目は、うっすらと赤い血走っていた。
「いい? あんたが奈緒ちゃんを好きになったんでしょう!? あんたがあの屋上で、あの子の隣に立ちたいって思ったんでしょう!? だったら、最後までその責任持ちなさいよ!」
「俺には・・無理だよ」
「無理じゃない! あんたは、あの時言ったじゃない! 『絶対にカセットテープのB面は消させない』って! あんたが辰じいに『俺がペンギン号を直す』って啖呵を切った時の、あのバカみたいな熱量はどこへ行ったのよ!」
真理は、健一のコートの胸ぐらを両手で強く掴んだ。
「聞いて、健ちゃん。今日が、屋上の最後の日よ。辰じいも、洋子ママも、みんなあんたを待ってる。ペンギン号だって、あんたが100円玉を弾き入れなきゃ動かないのよ。あの子が最後に東京で見る景色を、あんな暗くて冷たい駅の改札のままにさせるつもり!?」
真理の声は、怒りに震えながらも、どこか懇願するような、痛切な響きを持っていた。
「行きなさい。行って、あんたが始めたことを最後までやり遂げてきなさい。あの子のために、あの子の笑顔のために。それができないなら、私は二度とあんたの顔なんて見たくない!」
真理は、強く握りしめていた健一の胸ぐらを、ドンッと力任せに突き放した。
健一は、よろけながら壁に背中をぶつけた。
ジンジンと熱を持つ頬。
胸ぐらを掴まれたコートの皺。
そして、目の前で荒い息を吐く、幼馴染の真剣な瞳。
その瞳の奥に、なぜか深い悲しみと、決意のようなものが揺れていることに、健一はようやく気がついた。
「真理、お前・・」
「早く行きなさいよ! バカ健一!」
真理は、目を逸らすように横を向いた。
健一の胸の中で、凍りついていた何かが、パキンと音を立てて砕け散った。
そうだ。
俺は何をやっているんだ。
奈緒のために。辰じいのために。
屋上の仲間たちのために。
そして何より、自分自身の不甲斐ない青春に決着をつけるために。
「ごめん。ありがとう」
健一は、深く頭を下げた。
そして、玄関に転がっていたスニーカーを乱暴に履き潰すと、振り返ることなくドアを飛び出していった。
階段を駆け下りる激しい足音が、次第に遠ざかっていく。
バンッ、と下のアパートのドアが閉まる音が響いた。
嵐が過ぎ去ったかのような、急な静寂が部屋に訪れた。
真理は、開けっ放しになったドアから吹き込む冷たい風に肩をすくめると、ゆっくりと歩み寄り、静かにドアを閉めた。
カチャリとオートロックが掛かる音が、ひどく虚しく響いた。
真理は一人残された。
健一が飛び出していった玄関の土間には、昨夜からずっと履き潰されていた革靴だけが、主を失ってぽつんと取り残されている。
真理は深呼吸した。
胸の奥で高鳴っていた心臓の鼓動が、ゆっくりと落ち着いていく。
それと同時に、全身から急激に力が抜けていくのを感じた。
「バカ健一」
誰に聞かせるでもなく呟いたその声は、先ほどまでの威勢の良さはどこにもなく震えていた。
真理は、部屋の中央にある乱れた万年床のそばにへたり込んだ。
シーツには、まだほんのりと健一の体温が残っているような気がした。
部屋の隅に視線をやると、古い扇風機と、学生時代から使っている安物のラジカセが見えた。
壁には、いつかの夏祭りで一緒に取った、色褪せたお面の残骸が飾られている。
幼稚園の頃から、ずっと一緒だった。
泣き虫で、気が弱くて、いつも真理の背中に隠れていた健一。
泥だらけになって泣きついてくる健一の頭を撫でて、「しょうがないわね」と笑うのが、真理の密かな誇りだった。
小学校の帰り道、野良犬に吠えられて、震えながらも真理の前に立って庇おうとした健一の小さな背中。
中学校の卒業式で、第二ボタンを誰にもあげられずに照れ笑いしていた健一の横顔。
大人になれば、いつかあいつも男としてシャンとする。
その時はきっと、私が一番近くでそれを見届けるんだ。
彼の一番の理解者は、私なのだから。
そう信じて疑わなかった。
だが、現実は違った。
彼を本当の意味で「男」に変えたのは、真理ではなかった。
屋上で鳥の世話をする、あの儚げで、けれど芯の強い、奈緒という女の子だった。
真理は、膝を抱え、自分の顔を両手で覆った。
『彼を本当に見ているのはあなたですね』
いつか奈緒に言われた言葉が、刃のように胸を抉った。
奈緒は正しかった。
真理は、健一のすべてを見てきた。
彼の弱さも、優しさも、不器用さも。
だからこそ、彼が本当に奈緒を想っていることも、誰よりも痛いほど理解できてしまった。
自分が身を引けば、彼はきっと奈緒を追いかける。
自分が悪役になって背中を押せば、彼は絶対に走り出す。
その確信があったからこそ、真理は今日、この部屋に乗り込んできた。
彼が一生後悔しないように。彼が、彼の望む未来を掴めるように。
それは、真理にとっての、最大の愛情表現であり、同時に、初恋への残酷な幕引きだった。
真理はゆっくりと立ち上がった。
これ以上この部屋にいたら、決意が揺らいでしまいそうだった。
健一が帰ってくる前に、ここを去らなければならない。
真理は、健一の布団を綺麗に畳み、部屋を簡単に見渡してから、玄関へと向かった。
外に出ると、秋の朝の透明な空気が頬を撫でた。
街路樹の葉が、風に吹かれてカサカサと音を立てている。
真理は、自宅のマンションへと歩き出した。
ヒールのある靴を履いてくればよかった、と少し後悔した。
スニーカーでの歩みは、なんだか地面に足が付きすぎていて、自分の弱さを隠しきれないような気がしたから。
三十分後。
真理は、駅から少し離れた、オートロック完備の真新しいワンルームマンションの自室に帰り着いた。
健一の部屋とは対照的な、白を基調とした無機質で綺麗な部屋。
壁にはブランド物のコートが掛けられ、ドレッサーには海外製の高級な化粧品がずらりと並んでいる。
狂乱の時代、OLとして虚勢を張って生きるための、真理の「武装」の数々だった。
「腰かけ」と陰口を叩かれる銀行の一般職。
悔しくて、見返してやりたくて、高い服を買い、無理をしていい女を演じてきた。
でも、あの屋上の奈緒は違った。
彼女はブランド物なんて一つも持っていなかった。
けれど、自分の手でインコを世話し、健一の痛みを静かに受け止める強さを持っていた。
真理は、玄関で靴を脱ぐと、そのままベッドの上に倒れ込んだ。
綺麗にメイキングされた、冷たいシーツの感触。
もう、強がる必要はどこにもなかった。
誰の目もない。
健一もいない。奈緒もいない。
「うぅ・・」
無意識のうちに、嗚咽が漏れた。
真理は、ベッドの枕を強く抱きしめ、そこに顔をうずめた。
涙が、溢れて止まらなかった。
アイラインが崩れ、マスカラが溶け、綺麗な顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていく。
「ばか、健ちゃんのばか・・」
声に出して罵ってみても虚しさだけが残った。
好きだった。
ずっと、ずっと好きだった。
彼が他の女の子を見ているのが辛かった。
彼が自分の前で、奈緒のために必死になっている姿を見るのが、何よりも苦しかった。
だからこそ、突き放した。
あんたが選んだ道なら、最後までやり遂げなさいよ。
私の分まで、不器用な青春を終わらせてきなさいよ。
真理は、声を押し殺し、肩を震わせて泣き続けた。
窓の外では、休日の朝の明るい日差しが、東京の街を眩しく照らし始めている。
あのデパートの屋上で、今頃彼は、辰じいたちと一緒に不格好なペンギン号を走らせる準備をしているだろうか。
奈緒のために百円玉を弾いているだろうか。
その光景を想像すると、胸が張り裂けそうになるほど痛い。
でも、ひどく誇らしい気持ちにもなった。
私が背中を押してあげたんだから、絶対に失敗なんて許さない。
涙で濡れた枕に顔を擦り付けながら、真理は心の中で強く祈った。
泣いて、泣いて、すべての涙が枯れ果てるまで。
二十二歳の秋。
野村真理の、長く不器用だった初恋は、秋晴れの青空の下、静かに終わりを告げた。




