第25話 閉園前夜の秘密のカーニバル
午後八時。
デパートの館内に、物悲しい『蛍の光』のメロディが流れ始めた。
一階の正面玄関では、制服姿の案内係が深々と頭を下げ、重厚なシャッターがゆっくりと降りていく。
バブル景気に浮かれ、両手に紙袋を抱えた買い物客たちが吐き出す白い息が、ネオンサインの光に溶けては消えていく。
華やかな下界が眠りにつくその時刻、地上八階の屋上遊園地は、まるでそこだけが別の次元に取り残されたかのような、異様な静寂と緊張感に包まれていた。
十一月の夜風はナイフのように冷たく、コンクリートの床から這い上がる底冷えが足元から体温を奪っていく。
しかし、暗闇の中で息を潜める健一たちの額には、うっすらと汗が滲んでいた。
「健坊、顔つきが変わったな」
暗がりの中で、辰じいがタバコに火をつけながら、ぽつりと呟いた。
マッチの赤い炎が、深く刻まれた老人のシワと、油まみれの作業着をほんの一瞬だけ照らし出す。
健一は、何も答えずに小さく頷いた。
今朝、真理に頬を張られた時の痛みが、まだ奥歯のあたりにジンジンと残っている。
あいつが泣きそうな顔で叩きつけてくれた言葉が、冷え切っていた健一の心臓に再び熱い血を巡らせていた。
『あの子が最後に東京で見る景色を、あんな暗くて冷たい駅の改札のままにさせるつもり!?』
させない。絶対に、あんな悲しい顔のまま終わらせたりしない。
健一は、手にしたウエスで、目の前にある巨大な鉄の塊『空飛ぶペンギン号』のくちばしを、力を込めて磨き上げた。
ペンギン号は、この屋上で最も古い遊具だった。
天井に張り巡らされたレールにぶら下がり、空中をゆっくりと一周するだけの、時代遅れの乗り物。
とっくの昔にモーターは焼け焦げ、塗装は剥げ落ち、スクラップになる日をただ待つだけの存在だった。
だが、辰じいと健一が三日三晩かけて油を差し、断線したケーブルを繋ぎ直し、磨き上げたそれは今、夜の闇の中で不思議な威厳を放って鎮座していた。
午後九時。
裏口の業務用エレベーターが、かすかなモーター音を立てて上昇してくる。
『チンッ』という控えめな到着音と共に、重い鉄の扉が開いた。
「連れてきたわよ。見つからずに済んだみたい」
エレベーターガールの制服の上にカーディガンを羽織ったミカが、声をひそめて言った。
彼女の背後から、恐る恐る屋上に足を踏み入れたのは、招待状を受け取った特別な客たちだった。
「うわぁ、まっくらだぁ」
真っ先に飛び出してきたのは、常連の悪ガキ、マモル君だった。
その後ろから、母親が申し訳なさそうにペコペコと頭を下げながらついてくる。
さらに、休日ごとに現れてはピンボケの写真を撮っていた写真屋のオヤジ、いつもパンダカーに乗りに来ていた老夫婦、ペットコーナーに毎日通っていた小学生の姉妹など、総勢三十名ほどの常連客が、続々と屋上に集まってきた。
彼らは皆、明日でこの場所が閉鎖され、すべての遊具が解体されることを知っている。
だからこそ、健一たちが配った「秘密の最終営業」という手書きのチケットを握りしめ、夜のデパートに忍び込んできたのだ。
「いらっしゃい、みんな! 今日は寒いから、おばちゃん特製のタダうどん、どんどん食べてってちょうだい!」
スナックコーナーのシャッターが半分だけ開き、そこから漏れる暖かいオレンジ色の光の中で、洋子ママが豪快に笑った。
巨大な寸胴鍋からは、鰹出汁の食欲をそそる匂いを含んだ真っ白な湯気が、もうもうと立ち昇っている。
奈緒も、ペットコーナーの鳥かごに毛布をかけ終えると、客たちの案内役として忙しく立ち回っていた。
彼女の顔には、もう昨夜の駅で見せた悲壮感はない。
冷たい夜風で頬を赤く染めながらも、その笑顔は信じられないほど輝いていた。
健一は、そんな彼女の横顔を、少し離れた場所から見つめていた。
(真理、俺は、やれるところまでやってみる)
健一は、心の中で幼馴染に語りかけた。
「そろそろ時間だ」
辰じいが、くわえタバコを携帯灰皿に押し付けながら言った。
客たちが、何が始まるのかと期待に満ちた目で、広場の中央に集まってくる。
「健坊、お前の手で入れてこい」
辰じいは、屋上の隅にある、南京錠が外された主電源の分電盤を顎でしゃくった。
「はい」
健一は分電盤の前に立ち、冷たい鉄のレバーを両手でしっかりと握りしめた。
目を閉じる。
ここに来てからの数ヶ月が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
就職活動に全敗し、絶望の中で拭き続けたパンダカー。
非常階段で飲んだ、ぬるい缶コーヒー。
奈緒の髪から香った、微かなシャンプーの匂い。
真理の不器用な優しさと、辰じいの油まみれの手。
すべてが、明日には消えてしまう。
狂乱の時代の中で、こんな古ぼけた屋上遊園地なんて、誰も必要としていないのかもしれない。時代遅れのガラクタだと、笑い飛ばされるのかもしれない。
だが、俺たちにとっては、ここが世界のすべてだった。
「行くぞ」
健一は目を開き、全身の体重をかけて、分電盤のレバーを上へと押し上げた。
『ガコンッ!!』
重い金属音が、夜の屋上に響き渡った。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間――。
「うわぁっ!」
客たちから、一斉に感嘆の声が漏れた。
闇に包まれていた屋上に、無数の光が灯った。
フェンスに沿って張り巡らされた何百個もの豆電球が、星屑のように黄金色の光を放つ。
メリーゴーランドの電飾がチカチカと瞬き、スナックコーナーの『営業中』の赤提灯が風に揺れる。
そして、広場の中央にそびえ立つ『スカイランド』の巨大なネオンサインが、ジィィィという低いノイズと共に、鮮やかなピンクとブルーの光で夜空を焦がした。
東京の冷たい夜の海に、光り輝く巨大な船が浮かび上がったかのような、息を呑むほど美しい光景だった。
「すげえ! すげえ!」
マモル君がピョンピョンと跳ね回り、大人たちも寒さを忘れて、その暖かな光の海に見惚れている。
本当の奇跡はここからだった。
健一は、光の中心に鎮座する『空飛ぶペンギン号』の前に歩み出た。
周囲の光を反射して、FRP製の白いボディが艶やかに光っている。
健一は、コートのポケットから一枚の百円玉を取り出した。
指先で転がすと、銀貨のギザギザとした感触が伝わってくる。
ふと視線を上げると、奈緒が数メートル先で、両手を胸の前で組み、祈るような瞳でこちらを見つめていた。
健一は、小さく頷いた。
右手の親指に乗せた百円玉を、思い切りピンッと弾く。
銀色のコインは、ネオンの光を浴びてキラキラと輝きながら、美しい放物線を描いてペンギン号の腹部にある投入口へ、スコンッと命中した。
『チャリン』
硬貨が落ちる、軽快な音が響く。
一拍の間の後。
『ウィィィィィン、ガコン、ガコン、ガコン・・!』
深い眠りについていた古いモーターが、苦しげな、しかし力強い産声を上げた。
ペンギン号の両目がカッと黄色く光り、内蔵されたスピーカーから、チープだがどこか懐かしい、オルゴール調の行進曲が流れ始める。
「動いた!」
天井のレールを軋ませながら、ペンギン号がゆっくりとゆっくりと前進を始めた。
時速わずか四キロ。
大人が歩くのと同じくらいの、頼りないスピード。
だが、歓声を上げて乗り込んだマモル君や子どもたちにとっては、それは間違いなく、夜空を駆ける魔法の船だった。
「ほら、マモル! こっち向いて!」
母親たちが笑顔でカメラを構え、写真屋のオヤジが「ハイ、チーズ!」とポラロイドカメラのフラッシュを焚く。
光と音楽、子どもたちの歓声と、うどんの湯気。
誰もが笑顔だった。
誰もが、この古ぼけた屋上を心から愛していた。
明日にはすべて壊されてしまう場所とは思えないほど、そこには圧倒的な生命力と熱気が満ちていた。
健一は、奈緒の隣に並んで立った。
「魔法みたい・・」
奈緒が、涙ぐんだ声で呟いた。
彼女の瞳には、光り輝くペンギン号と、楽しそうに笑う子どもたちの姿が映っている。
「ああ。辰じいの腕と、みんなの意地が起こした魔法だ」
健一は、静かに答えた。
言葉はそれだけで十分だった。
悲しい別れの言葉も、無責任な引き止めの言葉も、今の二人には必要なかった。
ただ、この奇跡のような美しい瞬間を、共に心に焼き付けること。
それが、二人にとっての最高の別れの儀式だった。
その頃。
地上二階にある防災センターの警備室では、佐々木警備員が血相を変えて監視モニターの電力計を睨みつけていた。
「な、なんだこの異常な電力消費は!? 屋上で一体何が起きてるんだ!」
佐々木は慌てて無線機を掴み、残業で館内に残っていた開発部の黒木を呼んだ。
「黒木さん! 屋上が大変です! 誰かが侵入して機材を勝手に動かしてるみたいです!」
「なんだ!? あの馬鹿ども、まさか!」
黒木は、胃の痛みを堪えながらダブルのスーツのジャケットを羽織り、佐々木と共に非常階段を駆け上がった。
「許さんぞ! 閉鎖前夜にトラブルを起こしおって! 警察を呼べ、警察を!」
佐々木が息巻く横で、黒木も眉間に深くしわを寄せていた。
効率と数字だけがすべて。
感傷など一円の利益にもならない。
そうやって自分を殺して生きてきた黒木にとって、健一や辰じいのような、時代に取り残された人間たちの未練がましい行動は、腹立たしい以外の何物でもなかった。
「止めます。全員、不法侵入で始末書だ」
八階の屋上へと続く、重い鉄の防火扉の前に辿り着く。
扉の向こうからは、かすかに楽しげな音楽と、人々の歓声が漏れ聞こえていた。
「開けます」
黒木が扉のノブを掴み、力任せに押し開けた。
「君たち、一体ここで何を・・!」
屋上に踏み込んだ黒木の言葉は、そこでピタリと止まった。
佐々木も、ホイッスルをくわえたまま、石のように固まっていた。
「あ・・」
黒木の口から、間抜けな声が漏れた。
目に飛び込んできたのは、想像を絶する光景だった。
真っ暗な東京の夜空に、ぽっかりと浮かび上がった光の遊園地。
色とりどりの豆電球が宝石のように輝き、暖かなうどんの湯気が白いヴェールのように広場を包み込んでいる。
そして、その光と歓声の中心を、古ぼけたペンギン号が、子どもたちの笑顔を乗せて誇らしげに飛んでいる。
それは、黒木が幼い頃に父親に手を引かれて見たあの夢のような屋上遊園地の姿、そのままだった。
それよりもずっと暖かく、ずっと美しかった。
冷たい夜風が、黒木の前髪を揺らす。
気がつけば、胃の痛みは嘘のように消え去っていた。
代わりに胸の奥から込み上げてきたのは純粋で無垢な感動だった。
ペンギン号を整備した老練な職人、客にうどんを振る舞う女将、笑顔で子どもたちを見守る若い男女。
彼らは皆、明日には消えてしまうこの場所で、最後の炎を燃やし尽くそうとしていた。
その姿は、どんな洒落たビアガーデンよりも、どんな高層ビルの夜景よりも、気高く美しかった。
「黒木さん。これは、止めさせないと・・」
我に返った佐々木が、震える声で言った。
だが、黒木はゆっくりと首を横に振った。
そして、自分でも驚くほど穏やかな、優しい声で言った。
「やめましょう、佐々木さん」
「え? でも、規則が・・」
「今夜だけです。・・今夜だけは好きにさせてあげましょう」
黒木は、ダブルのスーツのポケットに両手を突っ込みフェンスに寄りかかった。
そして、夜空をゆっくりと泳ぐペンギン号を見上げながら、子どものような無邪気な笑顔を浮かべた。
佐々木はそんな黒木の顔を窺いながら、ホイッスルをポケットにしまい込んだ。
地上八階の屋上遊園地。
時代遅れで、誰も見向きもしなくなったオンボロ遊具たちが、子どもたちの歓声を乗せて、最後の夜を駆け抜けていく。
健一と奈緒は、そんな光景をいつまでも並んで見つめていた。
二人の間にあるのは、もはや悲しい別れではなく、一生色褪せることのない、奇跡のような美しい思い出の共有だった。
屋上が、かつての輝きを取り戻した、短くも永遠のような瞬間。
閉園前夜の秘密のカーニバルは、夜更けまで、誰にも邪魔されることなく、暖かな光と笑顔に包まれながら続いていった。




