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第26話 夜明けのパレード

 夜と朝の境界線は、いつもひっそりと、誰にも気づかれないように訪れる。

 黒一色に塗り潰されていた東京の空が、東の地平線の彼方から、少しずつ色を失い始めていた。

 深い藍色から、冷たい桔梗色へ。

 そして、透明な薄紫を帯びた群青へと、空はゆっくりとそのグラデーションを変えていく。


 地上八階の吹きさらしの屋上に、身を切るような明け方の風が吹き抜けた。

 足元のコンクリートは芯まで冷え切り、吐く息は純白の煙のように色濃く空気に溶けていく。

 下界の巨大な都市はまだ深い眠りの中にあり、遠くを走る始発の貨物列車の低い駆動音だけが、地鳴りのように微かに響いていた。


 狂乱のような秘密のカーニバルは、静かな終焉を迎えようとしていた。

 はしゃぎ回っていた常連客の子どもたちは、とうの昔に遊び疲れて眠りについている。

 スナックコーナーの長椅子では、マモル君が母親のウールのコートにくるまり、すうすうと無邪気な寝息を立てていた。

 その横で、写真屋のオヤジも壁に寄りかかり、ポラロイドカメラを抱きかかえたまま船を漕いでいる。

 賑やかだった話し声も、歓声も、うどんの湯気も、今はもうない。

 残されているのは、古ぼけた遊具たちと、夜通しこの屋上を見守り続けた数人の大人たちだけだった。


『ガコン、ウィィィィン・・、ガコン・・』

 静寂の屋上に、苦しげなモーターの駆動音だけが、一定のリズムで響いている。

 空飛ぶペンギン号だった。

 時速四キロ。

 大人が歩くのと同じくらいの、もどかしいほどの遅さで、FRP製の白い機体が空中レールをゆっくりと進んでいる。

 乗っている者は誰もいない。

 空の機体だけが、ただひたすらに、決められた円軌道を回り続けている。

 これが、最後の百円玉だった。

 健一が弾き入れた最後の硬貨が、この時代遅れの機械に命を与え、そして、その命の砂時計は今、最後の一粒を落とそうとしていた。

 健一は、フェンスに寄りかかりながら、その光景を無言で見つめていた。

 コートの下のセーターは冷え切り、指先は感覚がなくなるほど悴んでいる。

 爪の間には、昨夜からずっと格闘していた機械油の黒い汚れが染み付いたままだ。

 だが、不思議と寒さは感じなかった。

 胸の奥には、これまで味わったことのないような、穏やかなぬくもりが宿っていた。


「・・終わるな」

 隣でタバコを吹かしていた辰じいが、ぽつりと呟いた。

 短くなったピースの先端で、赤い火種がチリチリと燃える。

 吐き出された紫煙は、朝の冷気に巻き込まれ、あっという間に形を崩して消え去った。

 健一は、答えなかった。

 ただ、深く静かに頷いただけだった。

 悲しみはなかった。

 焦燥感も、どうしようもない無力感も、今はもう消え失せている。

 やるべきことをすべてやり遂げたという、圧倒的な事実だけがそこにあった。


 少し離れた場所で、開発部の黒木が腕を組み、ペンギン号を目で追っていた。

 あんなに気にかけていたイタリア製のダブルのスーツは、一晩中フェンスに寄りかかっていたせいで無惨に皺が寄り、ネクタイもだらしなく緩められている。

 普段の彼なら絶対に許さないであろう、隙だらけの姿だった。

 だが、その横顔には、いつも彼を苛立たせていた神経質な険しさは微塵もなかった。

 黒木は、小さく息をついた。

 呆れたような、それでいて、どこかひどく満足げな、静かなため息だった。

 彼は、腕時計を見ることもなく、ただゆっくりと進むペンギン号の軌跡を、まるで古いアルバムをめくるように、愛おしそうに見つめている。

 彼と辰じいの間に、言葉はなかった。

 ただ、一度だけ黒木の視線が辰じいに向き、辰じいがタバコを咥えたまま顎を引いた。

 それだけで、彼らの間にある何かは、すっかり満たされていた。

 昭和という時代が遺した不器用な夢と、バブルという時代が照らし出す容赦のない現実。

 その二つが、この短い夜明けのあいだだけ、不思議なほどやわらかく寄り添っていた。


『ガチャン』

 不意に、屋上への出入り口である重い鉄の防火扉が、鈍い音を立てて開いた。

 振り返った健一の目が、わずかに見開かれる。

 そこに立っていたのは、真理だった。

 薄いトレンチコートを羽織り、足元はヒールのないペタンコのローファー。

 メイクもほとんどしておらず、肩に落ちる長い髪も、いつものように完璧には巻かれていない。

 彼女は、少しだけ肩で息をしていた。

 まるで、夜の街をずっと歩き続けてきたかのように。

 真理の視線が健一を射抜いた。

 健一は、何も言わず、ただまっすぐに彼女を見つめ返した。

 みっともなくて、情けなくて、何度も逃げ出そうとした自分。

 その背中を、一番痛い言葉で蹴り飛ばしてくれたのは、他の誰でもない、彼女だった。

 真理は、健一の顔を見て、それから、ゆっくりと屋上全体を見渡した。

 眠りこける子どもたち、皺だらけのスーツの黒木、タバコを吹かす辰じい。そして、朝の光の中で、最後のパレードを続けるペンギン号。

 真理の唇が、微かに震えたように見えた。

 だが、彼女は泣かなかった。

 ただ、強く、深く息を吸い込み、そして、ほんのわずかに、口角を上げてみせた。

『やったじゃない』。

 声に出さなくても、その微かな笑みが、健一にははっきりと聞こえた気がした。


 真理の視線が、不意に別の場所へと向けられる。

 そこには、奈緒が立っていた。

 奈緒もまた、一晩中ここで健一たちを見守り続けていた。

 彼女の華奢な肩には、洋子ママが貸してくれた古いブランケットが掛けられている。

 真理と奈緒。

 二人の女性の視線が、朝の冷たい空気の中で、静かに交錯した。

 それは、ほんの数秒の出来事だった。

 真理は、何も言わなかった。

 歩み寄ることもしなかった。

 ただ、少しだけ目を伏せ、それから、小さく一度だけ頷いた。


 奈緒もまた何も言わなかった。

 その透明な瞳を真っ直ぐに真理に向け、深く、静かに頭を下げた。

 勝者も、敗者もない。

 ただ、一人の不器用な男を思い、それぞれのやり方で彼の背中を押した、二人の女性だけにわかる静かなやりとりだった。 

 真理は、それ以上屋上の中心へは進まなかった。

 入り口の冷たい壁に背を預け、腕を組んで、ただペンギン号の最後の行方を見守った。


 東の空が、完全に白み始めた。

 分厚い雲の切れ間から、鋭い朝日が一直線に差し込んでくる。

 黄金色の光が、屋上の冷たいコンクリートを撫で、色褪せたパンダカーの背中を照らし、そして、ペンギン号の白い機体を眩しく包み込んだ。

 夜通し輝いていた豆電球のイルミネーションが、朝の光の中で、すっかりその役割を終えたように、弱々しく、白茶けた色へと変わっていく。

 魔法の時間が、終わろうとしていた。

 夜の闇という巨大なキャンバスがあったからこそ描けた、光のカーニバル。

 朝の光は、それを容赦なく現実の「古いデパートの屋上」へと引き戻していく。

 誰もその光を疎ましくは思わなかった。

 それは、とても穏やかで、優しい朝だった。


『ウィィィン、ガッ、コン・・』

 ペンギン号のモーター音が、不意に低くなった。

 音楽のテンポが、急激に間延びしていく。

 まるで、息を引き取る直前の鼓動のように。

 レールを擦る音が、キィ、キィ、と悲鳴のように鳴り、やがて、小さくなっていく。

 ペンギン号は、屋上の中央、一番見晴らしのいい場所までゆっくりと進み・・。

『カチン』

 最後のリレーが落ちる小さな音が響き。

 完全に動きを止めた。

 同時に、両目のライトがフッと消え、オルゴールのメロディもプツリと途絶えた。

 沈黙。

 朝の風の音だけが、屋上を通り抜けていく。

 百円玉の時間が終わった。

 この屋上遊園地の数十年にわたる長い歴史が、完全に幕を閉じた瞬間でもあった。


 健一は、フェンスから体を離し、ゆっくりとペンギン号の元へ歩み寄った。

 朝日に照らされたそれは、やはりただの古ぼけた遊具だった。

 塗装は剥げ、プラスチックは劣化し、どう見ても空など飛べそうにない、不格好な機械の塊。

 健一は、手袋を外した素手で、ペンギン号の冷たいくちばしにそっと触れた。

 不思議だった。

 悲しくない。

 あれほどこの場所がなくなることを恐れていたのに。

 奈緒がいなくなることも、辰じいの仕事が奪われることも、自分の居場所が消えてしまうことも、あんなにも怯えていたのに。

 今の健一の心は不思議なくらい静かだった。 

 まるで、嵐が過ぎ去った後の、どこまでも高く澄み切った秋空のように。


「・・お疲れ様」

 健一は、誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。

 それはペンギン号に対してであり、辰じいに対してであり、そして何より、自分自身に対しての言葉だった。

 逃げてばかりだった自分が、初めて、逃げずに最後まで立ち向かった。

 結果は変わらない。

 屋上は壊され、奈緒は遠くへ行ってしまう。

 けれど、この夜を、この最後の悪あがきを絶対に忘れないだろう。

 確かにここにいて、何かを愛し、何かのために必死になったという記憶。

 これから先、何度社会の壁にぶつかり、自分が何者でもないと思い知ることがあっても、決して奪われないたしかなぬくもりになるはずだ。


 健一は、振り返った。

 辰じいが、空になったピースの箱を丸めてポケットに突っ込んでいた。

 黒木が、大きく伸びをして、首の骨をポキリと鳴らしていた。

 真理が、壁に寄りかかったまま、静かに目を閉じていた。

 そして奈緒が、朝の光の中で、やわらかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。


 健一の顔に、ごく自然に、笑みが浮かんだ。

 虚勢でも、諦めでもない。

 すべてをやり遂げた者だけが見せる、不思議なほど清々しい笑顔だった。

 夜明けの空を、一羽の鳥がゆっくりと横切っていく。

 冷たい風が、健一の前髪を揺らす。

 新しい朝が、始まろうとしていた。

 空を飛ばないペンギンたちの、長い長い夜が明けた。

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