第27話 クレーンに吊られたパンダ
その日の空は、憎らしいほどに青く、高く澄み切っていた。
晩秋特有の、輪郭のくっきりとした冷たい空気が、東京の街全体を透明なガラス細工のように包み込んでいる。
雲一つない晴天は、これから始まる無骨で容赦のない作業には、あまりにも不釣り合いだった。
地上八階の屋上遊園地。
つい数日前まで、子どもたちの歓声とチープな電子音、そしてうどんの出汁の匂いに満ちていたその場所は、黄色と黒の規制線が張り巡らされた「解体現場」へと姿を変えていた。
朝の八時を回った頃から、ヘルメットと作業着姿の男たちが無骨な足音を立てて屋上を行き交い、容赦のない破壊の音を響かせている。
キュイィィィン、という鼓膜を劈くような電動ノコギリの金属音。
バキン、ガシャン、とフェンスや看板が叩き壊される乾いた破砕音。
健一と辰じいは、規制線の外側、従業員用の出入り口のすぐそばに立ち尽くし、その光景を無言で見つめていた。
もはや彼らにできることは何もない。
彼らの手には工具も、拭き上げ用のウエスも握られていなかった。
ただ、ポケットに手を突っ込み、自分たちが愛した場所が、プロの解体業者たちの手によって効率的に削り取られていくのを、見届けることしかできなかった。
スナックコーナーの赤い日よけテントが、カッターで無造作に切り裂かれた。
洋子ママがいつも笑っていたカウンターは、大きなハンマーで打ち砕かれ、ただの木材とプラスチックの瓦礫へと変わっていく。
健一は、コンクリートの床を通して伝わってくる重機とドリルの微振動を感じていた。
それは、この屋上が完全に死に絶えようとしている、最後の痙攣のようにも思えた。
やがて、屋上の外側、下界の通りから、ズズズ・・という重低音が響いてきた。
見上げると、ビルの壁面を這い上がるようにして、巨大な黄色い鉄の腕が姿を現した。
大型クレーン車だった。
地上から八階の高さまで伸びたその巨大なブームは、雲一つない青空を斜めに切り裂き、先端から太いワイヤーと巨大なフックをぶら下げている。
それはまるで、空から降りてきた鋼鉄の死神のようだった。
「・・いよいよ、大物のお出ましだな」
辰じいが、咥えタバコの灰を落とすことも忘れたまま、低く掠れた声で呟いた。
作業員たちが、広場の中央に固められていた遊具たちへと向かう。
最初に標的になったのは、健一が何度も何度も磨き上げ、辰じいが車輪の軸を調整し続けた、あのパンダカーだった。
作業員たちが、パンダカーの胴体に太いナイロン製のスリングベルトを回し、ガチャガチャと音を立ててクレーンのフックに固定していく。
「玉掛け、オーライ!」
作業員の無機質な掛け声と共に、鋭いホイッスルの音が鳴り響いた。
クレーンのワイヤーがピンと張り詰め、鈍い金属音を立てる。
次の瞬間。
ズン、という重い音と共に、パンダカーがコンクリートの床からふわりと浮き上がった。
何年もの間、この屋上の床に這いつくばり、左に曲がる癖を抱えながら、不器用に子どもたちを乗せて走り続けてきた重い鉄とFRPの塊。
いとも簡単に重力から解放され、宙ぶらりんになった。
クレーンのアームが旋回し、パンダカーはゆっくりと、空高くへと吊り上げられていく。
それは、あまりにもシュールで、滑稽で、そして胸を締め付けられるほど切ない光景だった。
青く澄み切った秋空を背景に、白黒の塗料が所々剥げ落ちた薄汚れたパンダが、だらんと宙に浮いている。
空を飛ぶことなど想定されていない、四つの小さな車輪を持った地を這うための遊具。
それが、東京の高層ビル群のパノラマを眼下に見下ろしながら、冷たい風に吹かれてクルクルと空を舞っている。
どこか間抜けで愛嬌のあるパンダの顔は、空高く吊り上げられながらも、相変わらず無表情に虚空を見つめている。
健一は、コートのポケットの中で拳をきつく握りしめた。
パンダカーのハンドルを握って笑っていた、常連のマモル君の顔が浮かんだ。
百円玉を弾き入れた時の、あのチャリンという心地よい金属音が耳の奥に蘇った。
しかし、目の前の現実には、ただワイヤーの軋む音と、風の音しかない。
やがて、パンダカーは、ビルの縁を越え、ゆっくりと下界へと降ろされていった。
スクラップの回収トラックが待つ地上へ。
姿が見えなくなった後も、健一はずっと、パンダカーが飛んでいった何もない青空を見つめ続けていた。
解体作業は、機械的にそして淡々と進んだ。
次に空を飛んだのは、メリーゴーランドの木馬たちだった。
土台からチェーンソーで切り離された四頭の木馬が、無造作にまとめてベルトで縛られ、クレーンで吊り上げられた。
美しい音楽に合わせて優雅に回転し、上下に揺れていた馬たち。
彼らは今、首をだらんと垂らし、互いの体をゴツゴツとぶつけ合いながら、空中の冷たい風に晒されている。
剥げかけた金色のたてがみが、朝の光を反射して一瞬だけキラリと光った。
まるで、処刑場へと引き立てられていく囚人のような痛々しい姿だった。
健一の隣で、辰じいが小さく息を吸い込む音が聞こえた。
横目で盗み見ると、辰じいの目は限界まで見開かれ、その瞳の奥には、長年連れ添った我が子を奪われるような怒りと悲哀が入り混じっていた。
油にまみれ、火傷の痕が無数に刻まれた太い指先が、微かに震えている。
辰じいは一言も発しなかった。
『やめろ』とも、『ふざけるな』とも叫ばなかった。
それは、彼が職人だからだ。
時代が変わり、必要とされなくなった機械がどうなるか、誰よりも理解しているから。
狂乱の波が、古い昭和の匂いを容赦なく洗い流していく。
その冷酷な摂理の前に、個人の感情など何の役にも立たないことを、老練な整備工は骨の髄まで知っていた。
辰じいは黙って、自分の手で命を吹き込んだ機械たちの最期を、その目に焼き付けていた。
健一もまた無言だった。
言葉を発すれば、何かが決定的に壊れてしまいそうだった。
今はただ、この痛みと喪失感を、自分の奥深くに沈めていくしかない。
そして、最後の大物が残った。
広場の中心で、他の遊具がすべて運び出された後も、ぽつんと一つだけ残されていた『空飛ぶペンギン号』。
秘密のカーニバルの夜、奇跡のように動き、屋上に光を取り戻してくれたヒーロー。
作業員たちが、乱暴な手つきでペンギン号にベルトを巻きつける。
あの夜、あれほど輝いていたはずの白いボディは、明るい陽射しの下で見ると、驚くほど黄ばんで、ひび割れ、ひどくみすぼらしく見えた。
「オーライ!」
ホイッスルが鳴った。
クレーンのワイヤーがピンと張り、ペンギン号はゆっくりとコンクリートの床を離れた。
ズン、ズンと高度を上げていく。
空を飛ぶペンギン号。
一度として空を飛んだことのなかった、レールに縛り付けられただけの遊具が、空高くへと舞い上がっていく。
青空を背景に、白いペンギンが吊り上げられている。
強い秋風が吹き抜けた。
空中で、ペンギン号の機体が大きく揺れた。
左右にゆらり、ゆらりと揺れる姿は、風に乗って大空を羽ばたいているように見えた。
健一の胸が、ドクンと大きく跳ねた。
あの夜、時速四キロでゆっくりと進んでいたペンギン号の姿がフラッシュバックする。
奈緒の涙ぐんだ笑顔、マモル君の歓声、真理の誇らしげな視線。
ペンギン号は飛んでいる。
クレーンに吊り上げられていただけなのに、たしかに俺たちの心の中で、どこまでも高く自由に飛んでいた。
健一の目から、不意に一筋の涙がこぼれ落ちた。
悲しみからではない。
何か、温かくてどうしようもなく切ないものが、胸の奥から溢れた。
ペンギン号は、やがてビルの縁を越え、白い機体を完全に下界へと沈めていった。
クレーン車のエンジン音が遠ざかり、作業員たちが昼の休憩に入った。
屋上には、再び静寂が訪れた。
残されたのは、ただの広大な、そして何もないコンクリートの平地だった。
遊具たちが置かれていた場所には、そこだけ日焼けを逃れたような四角いシミや、錆の跡が残っている。
黒ずんだ輪郭だけが、かつてそこに何かが存在していたことを証明する唯一の痕跡だった。
風が吹き抜け、足元に転がっていた一本の錆びたネジが、カラカラと乾いた音を立てて転がっていった。
「終わったな」
辰じいが、ポケットから新しいピースを取り出しながら、静かに言った。
その声は、驚くほど穏やかだった。
「はい・・」
健一は、コートの袖で乱暴に目元を拭い、何もない青空を見上げた。
広すぎる空には、飛行機雲が一本、真っ直ぐに白い線を引いていた。
一つの時代が、静かに、そして完全に終わりを告げた。
もう、この屋上に響くチャリンという硬貨の音を聞くことはない。
だが、健一の指先には、あの百円玉を弾いた時の感触が、そして、冷たい機械に血を通わせた時の熱がいつまでも残っていた。
何もないコンクリートの床に、二人の男の影だけが、長く、静かに伸びていた。




