第28話 プラットホームの告白
十二月も半ばに差し掛かろうとしている、底冷えのする冬の朝だった。
健一は、息を切らして上野駅の巨大なコンコースを走っていた。
すれ違う人々は皆、足早にそれぞれの目的地へと急いでいる。
グレーやネイビーの重たい冬のコートに身を包んだサラリーマンたち、大きな旅行鞄を引きずる家族連れ。駅構内に響き渡る無数の靴音、アナウンスのくぐもった声が、巨大なドーム状の天井に反響して渦を巻いていた。
バブル景気の熱狂は、年末の慌ただしい空気の中でさらに加速しているように見えた。
誰もが未来を信じ、少しでも早く、少しでも先へと進もうとしている。
だが、健一の心の中だけは、その熱狂から完全に切り離され、一つの明確な終着点だけを見据えていた。
奈緒が、東京を発つ日。
実家の倒産という重い現実を受け入れ、彼女は両親と共に、北海道の親戚が営む農家へと身を寄せる。
見知らぬ極寒の地で、彼女の新しい、決して平坦ではない生活が始まろうとしている。
健一は、券売機の前で立ち止まった。
ポケットから、あの屋上遊園地で数え切れないほど弾いてきた百円玉と、十円玉を数枚取り出す。
あの日、私鉄の小さな駅で、奈緒を見送ることしかできなかった夜。
あの時は、改札というたった一メートルの柵を越えることができなかった。
切符を持たない自分は、彼女の世界に踏み込む資格がないのだと勝手に諦めていた。
今は違う。
健一は硬貨を投入し、『入場券』を押した。
チャリン、と乾いた音とともに、小さな切符が出てきた。
健一は入場券を握りしめ改札へと向かった。
「お願いします」
駅員がカチカチと改札鋏を鳴らし、切符の端をパチンと切り落とした。
その小さな金属音が、健一にとっては、見えない壁を割った合図のように聞こえた。
健一は、改札を抜け、北へ向かう長距離列車が発着する薄暗いプラットホームへと階段を駆け下りていった。
上野駅の地平ホーム。
そこは、華やかな東京の玄関口でありながら、物悲しい旅情を漂わせる空間だった。
空気が、一段と冷たい。
ディーゼルエンジンの重低音と、鉄と油の入り混じった独特の匂いが漂っていた。
ホームには、深い青色に塗装された長距離特急列車が、出発の時を静かに待っていた。
健一は、ホームを足早に歩きながら、人込みの中にその姿を探した。
最後尾の車両の近く。
大きなボストンバッグを足元に置き、分厚い紺色のダッフルコートを着て、マフラーに顔をうずめるようにして立っている小柄な人影を見つけた。
「奈緒ちゃん」
健一の声に、人影がビクッと肩を揺らして振り返った。
奈緒だった。
冷たい風のせいで、鼻の頭と頬がほんのりと赤くなっている。
大きな瞳が、はっとしたように見開かれ、すぐにやさしく細められた。
「・・健一くん。来てくれたんですね」
奈緒の声は、周囲の騒音にかき消されそうなくらい小さかったが、健一の耳にはまっすぐに届いた。
「うん。ギリギリでごめん」
健一は、奈緒の目の前で足を止めた。
二人の距離は、ほんの数十センチ。
あと一歩踏み出せば、彼女をその腕に抱きしめることができる。
『行くなよ』
『東京に残って、俺と一緒にいてくれよ』
あの夜、喉まで出かかりながら、結局飲み込んだ言葉が、また胸の奥で暴れ出しそうになっていた。
彼女の細い肩を見ていると、これから背負わされる重圧ごと今すぐ奪い去ってしまいたくなる。
俺が守ってやる。
そんな無責任な虚勢さえ、張りたくなった。
だが、健一は、コートのポケットの中で、ぐっと拳を握りしめ、その言葉をもう一度、深く呑み込んだ。
彼女の決意を、中途半端な感情で揺さぶってはいけない。
実家の事情から新しい土地で生きていこうとする彼女の強さを、自分は誰よりも知っているはずだ。
健一は、ゆっくりと息を吐き出し、そして、努めて明るい声を作った。
「荷物、それだけ?」
「はい。あとは両親が先に送ってくれたので。・・これでも、鳥のケージとかが入ってて、結構重いんですよ」
奈緒が、足元のボストンバッグを見つめながら、少しだけ寂しそうに笑った。
「そっか。・・向こうは、すごく寒いんだろ?」
「ええ。雪が、もう膝の高さまで積もってるって聞きました。東京の冬なんて、向こうの人からしたら春みたいなものだって」
「風邪、ひかないようにな」
「健一くんこそ。屋上の仕事がなくなっても、夜更かしばかりしてちゃ駄目ですよ」
他愛のない会話だった。
しかし、その一言一言が、二人の間に流れる残り時間を、確実に削り取っていく。
健一は、ポケットの中で握りしめていた拳を開き、そこに入っていた小さな四角い箱を取り出した。
「これ・・」
健一は、その不格好な箱を奈緒に差し出した。
ハンカチほどの布で雑に包まれたそれは、手のひらに収まるほどの大きさだった。
「なんですか?」
「開けてみて」
奈緒は、不思議そうに首を傾げながら、凍える指先で包みを解いた。
中から現れたのは、木製の古ぼけた小さなオルゴールだった。
角の塗装は剥げ、木目には深い傷がいくつもついている。
「これ・・」
奈緒が息を呑んだ。
「うん。屋上のペットコーナーの奥に、壊れて捨ててあったやつ。奈緒ちゃんが、いつか『昔はこのオルゴールが鳴ってたんですよ』って言ってたろ」
健一は、自分の鼻の頭を人差し指で少し照れくさそうに掻いた。
「辰じいに工具を借りてさ。俺、パンダカーの修理で、歯車の構造とか少しだけ覚えたから。ゼンマイのバネが切れてたのと、歯車が錆びて噛み合ってなかっただけだった。油を差して、少し削ってやったら、直ったんだ」
奈緒は、信じられないというような顔でオルゴールを見つめ、側面にある小さな真鍮のネジを、ゆっくりと回した。
キリ、キリ、と、抵抗のある硬い音がする。
そして、奈緒が手を離すと。
『ポロン、ポロン・・』
プラットホームの喧騒の中で、その音は、信じられないほど透明に美しく響いた。
古い昭和の流行歌。
あの屋上遊園地で、ずっと昔に流れていたという優しくて切ないメロディだった。
錆びて動かなかった歯車が、健一の手によって再び噛み合い、時を刻み始めた。
「・・健一くんが、直してくれたんですか」
奈緒の声が、震えていた。
「ああ。人間は嘘をつくけど、油を差した歯車は絶対に嘘をつかないから」
辰じいの口癖を真似て見せると、奈緒は、泣き笑いのような表情で「ふふっ」と吹き出した。
「ありがとう。すごく、嬉しいです。これ、ずっと大切にします」
奈緒は、オルゴールを両手で包み込むようにして、胸に押し当てた。
まるで、健一の心臓の鼓動を、そこに感じ取ろうとするかのように。
『ジリリリリリリリリリリリリリッ!!!』
不意に、無情な発車ベルが、ホーム全体にけたたましく鳴り響いた。
ビクッと、奈緒の肩が跳ねた。
出発の時が来たのだ。
「・・行きます」
奈緒が、顔を上げた。
その大きな瞳には、いつの間にか涙が溢れていた。
今にもこぼれそうに張っていた涙が、瞬きをした拍子にあふれ、白い頬を伝ってぽろぽろとこぼれ落ちた。
健一は、思わず手を伸ばしかけた。
その涙を拭ってやりたかった。
だが、その手は空を切る前に、健一自身の意志によって、コートのポケットへと押し込まれた。
「うん。元気で」
健一は、ただまっすぐに彼女の目を見て、そう言った。
「はい。健一くんも」
奈緒は、ボストンバッグを持ち上げると、列車のドアへと向かった。
ステップに足をかけ、車内へと入る。
そして、開いたままのドアの前に立ち、くるりと健一の方を振り返った。
ホームと、車内。
ほんの数十センチの段差が、今は、遠い別の世界の境界線のように感じられた。
『発車します。ドアが閉まります。ご注意ください』
駅員のアナウンスが響き、プシューッという空気音が列車の足元から漏れる。
奈緒が、オルゴールを抱きしめたまま、一歩だけ前に出た。
ドアが、両側からゆっくりと閉まり始める。
視界が狭まっていく中、奈緒が、健一の目を真っ直ぐに見つめた。
そして。
「・・好きでした」
それは、喧騒にかき消されるほどの小さな声だった。
だが、健一にはっきりとその言葉が聞こえた。
『ガシャンッ』
奈緒の言葉が終わると同時に、無機質な鉄のドアが完全に閉ざされた。
厚いガラス越しに、奈緒が泣きながら微笑んでいるのが見えた。
彼女の口の動きが、「ありがとう」と言っているのがわかった。
「奈緒ちゃん・・」
健一は、無意識のうちにガラスに手を突いていた。
冷たいガラスの感触。
その向こう側には、もう絶対に手の届かない、愛した人の笑顔があった。
好きだった、という過去形。
それは、彼女なりの、完全な決別と、そして何より深い愛情の証明だった。
互いの道を歩んでいくために、これ以上足を引っ張り合わないように。
彼女は、最後に最高の贈り物を、健一の心に残してくれた。
ガタン、という鈍い衝撃と共に、列車がゆっくりと動き始めた。
健一は、窓ガラスに手を当てたまま、歩き出した。
列車のスピードが、少しずつ上がっていく。
健一は早歩きになり、やがて小走りになった。
ガラスの向こうで、奈緒も窓に手を当て、健一を追いかけるように見つめている。
歩幅が合わなくなり、健一の手が、ガラスからスルリと離れた。
列車は加速していく。
健一は、ホームの端まで走り、そこで立ち止まった。
冷たい冬の風が、走り去る列車の風圧と共に、健一の全身を強く叩きつけた。
健一は、荒い息を吐きながら、遠ざかっていく列車の最後尾を、じっと見つめた。
車体がカーブに差し掛かり、ゆっくりと視界から消えていく。
やがて、列車の姿は完全に消え、レールの軋む音だけが、遠くの空に吸い込まれるようにして消えていった。
上野駅の長いプラットホームに日常の静寂と喧騒が戻ってきた。
健一は、そこから一歩も動けずにいた。
胸の奥にぽっかり穴が空いたようだった。
痛いほどの切なさと、喪失感。
だが、不思議と後悔はなかった。
彼女は笑ってくれた。
最後に、「好きだった」と言ってくれた。
そして、自分が直したオルゴールは、これからもずっと彼女の傍で時を刻み続ける。
健一は、ゆっくりと顔を上げた。
ホームの屋根の隙間から、冬の澄んだ青空が見えた。
冷たい風が、健一の火照った頬を撫でていく。
二十二歳の冬。
屋上のペンギンは空を飛べなかったけれど、健一の心の中には、確かな熱と、前を向くための小さな勇気が残されていた。
健一は、深く深呼吸を一つすると、コートの襟を立て、踵を返した。
改札へと向かうその足取りは、来た時よりも、少しだけ力強くしっかりとしていた。
背中越しに、北へ向かう別の列車の警笛が、長く、余韻を残すように鳴り響いた。




