第29話 幼馴染の写ルンです
十二月も終わりに近づき、東京の街はクリスマスと年末の浮かれた喧騒に包まれていた。
異様な熱気をはらんだ好況の波が、街をますます高みへ押し上げていく。
行き交う人々の足取りは軽く、どこか落ち着かない。
イルミネーションが夜を彩り、高級ホテルやレストランは連日満席で、タクシーを拾うには万札を振るしかない。
そんな浮かれきった時代のうねりが、すぐ足元で渦を巻いていた。
だが、地上八階のその場所だけは、まるで世界から完全に切り離されたかのような静寂と空虚に支配されていた。
デパートの屋上。
かつて『スカイランド』と呼ばれ、子どもたちの歓声と、チープな電子音、そしてうどんの出汁の匂いに満ちていたその場所は、数週間の解体工事を経て、見事なまでの「更地」へと姿を変えていた。
パンダカーも、メリーゴーランドの木馬も、スナックコーナーの赤いテントも、そしてあの空飛ぶペンギン号も、もうどこにもない。
コンクリートの床には、遊具が設置されていた跡が、黒ずんだ四角いシミとなって残っているだけだ。
遮るものが何もなくなったせいで、屋上を吹き抜ける冬の空っ風は以前よりもずっと鋭く、冷たく感じられた。
健一は、コンクリートが広がるその何もない空間の真ん中に一人ぽつんと立ち尽くしていた。
今日は、彼がこのデパートで過ごす最後の日だった。
屋上の管理係という仕事は、当然ながら遊園地の閉鎖と共に無くなった。
デパート側からは、地下の食品売り場での品出しや、駐車場の誘導員といった別のアルバイトを斡旋されたが、健一はそれを断った。
ここで過ごした時間を、中途半端な形で薄めたくなかったから。
健一は、自分がいつも磨いていたパンダカーがあった場所まで歩き、しゃがみ込んだ。
冷たいコンクリートに指を這わせる。
油の匂いも、埃っぽさも、もうすっかり消え去っている。
奈緒が旅立ってから、もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。
彼女からは、一度だけ手紙が届いた。
雪かきで腰が痛いこと。
夜になると星が降るように綺麗に見えること。
そして、あのオルゴールを毎日鳴らしていること。
便箋二枚だけの短い手紙だったが、そこには、新しい土地でしっかりと根を張って生きていこうとする彼女の確かな決意が綴られていた。
健一は、もう泣かなかった。
彼女がいなくなった寂しさは、胸の奥にぽっかりと穴を開けたままだ。
だが、その穴から吹き込む風は、決して冷たいだけのものではなかった。
彼女が残していってくれた言葉と笑顔が、穴の底で、決して消えない灯火のように燃え続けている。
「・・俺も、ちゃんと進まないとな」
健一は、コンクリートの床から立ち上がり、小さく息を吐いた。
白い息が、風に乗ってあっという間に散っていく。
彼の鞄の中には、一通の履歴書が入っていた。
大企業でも、華やかなマスコミでも、銀行でもない。
下町にある、小さな金属加工の町工場の面接案内だった。
辰じいのそばで油にまみれながら、壊れた機械を直す仕事の重みを知った健一が、自分の意志で初めて選んだ道だった。
ダブルのスーツを着て、六本木で豪遊するような人生は、自分には似合わない。
不器用でもいい。
左に曲がる癖があってもいい。
ただ、自分の手で何かを直し、誰かを笑顔にできるような手応えのある仕事がしたかった。
健一が、フェンス越しに見える冬の空を見上げていると。
『カツン、カツン』
背後から硬い靴音が響いた。
スニーカーではない。
大理石の床を歩くような、ヒールのある靴がコンクリートを叩く、自信に満ちた足音。
健一が振り返るよりも早く、鼻腔をくすぐる微かなフローラルの香りが風に乗って漂ってきた。
「・・こんな何もない所で、黄昏れてるんじゃないわよ」
聞き慣れた、少しだけ鼻にかかった強気な声。
真理だった。
キャメルの上質なウールのコートを羽織り、首元にはブランド物のマフラーを巻いている。
相変わらず、熱狂の東京を闊歩するOLの完璧な「武装」だった。
だが、健一はすぐに、彼女の何かが前とは違うことに気がついた。
肩の力が、どこか抜けている。
いつも完璧に引かれていたアイラインは少しだけ柔らかく、尖っていた唇の輪郭も、今日は自然なピンク色をしている。
何より、健一を見つめるその瞳から、以前のような焦燥感や、彼をコントロールしようとするような棘が、すっかり抜け落ちていた。
「真理。仕事は?」
「半休取ってきたの。あんたが今日でここを最後にするって、洋子ママから聞いたから」
真理は、ツカツカと健一の隣まで歩いてくると、彼と同じようにフェンスに寄りかかり、何もない更地の屋上を見渡した。
「・・見事なもね。本当に、何一つ残ってない」
「ああ。年明けからすぐにビアガーデンの基礎工事に入るらしい。・・あっという間だったよ」
「そうね」
二人の間に、静かな沈黙が降りた。
かつてなら、この沈黙に耐えきれず、真理が何か嫌味を言ったり、健一がおどけて見せたりしていただろう。
だが、今の二人は、風の音を聞きながら、ごく自然に隣り合って立つことができた。
あのカーニバルの夜明け。
ペンギン号が最後の光を放ち、動きを止めた瞬間。
二人は、言葉を交わさなくても、お互いの中で何かが終わり、そして何かが新しく始まったことを理解していた。
「・・奈緒ちゃんから、連絡は?」
真理が、前を向いたままぽつりと聞いた。
「手紙が一度だけ。元気にやってるみたいだ。雪かきが大変だってさ」
「そう。あの子なら、どこに行ってもちゃんとやっていけるわよ。私なんかより、ずっと芯が強いもの」
真理の横顔には、嫉妬も、後悔もなかった。
ただ、かつての自分自身の若さと愚かさを、愛おしく振り返るような、少し大人びた微かな笑みが浮かんでいた。
彼女もまた、この数週間の間に、自分の心の中の嵐と向き合い、一つの答えを出したのだろう。
「なぁ、真理」
「なに?」
「あの時は、ありがとな。お前が俺の部屋に乗り込んできて、引っぱたいてくれなかったら、俺は一生、後悔したまま、あの布団の中で腐ってたと思う」
健一がそう言うと、真理は少しだけ驚いたように目を見開き、ふっと吹き出した。
「何よ、急に。気持ち悪い」
「いや、本当のことだからさ」
「いいのよ。ただ、私が好きな幼馴染が、みっともない負け犬のまま終わるのが許せなかっただけ。私のプライドの問題よ」
真理は、わざとらしく冷たく言い放つと、コートのポケットに手を突っ込んだ。
そして、そこから見慣れない四角い小箱のようなものを取り出した。
緑と白のパッケージ。
プラスチック製の、安っぽいカメラ。
「それ、『写ルンです』?」
健一は、目を瞬かせた。
「そうよ」
「お前、ブランド物の高いカメラ持ってたじゃないか。なんでまた、そんな使い捨ての安物を」
「いいじゃない、別に」
真理は、写ルンですの裏側にある小さなダイヤルを、親指でギリギリギリと巻き上げた。
大量消費社会の象徴のような、現像するまでどんな写真が撮れているかわからない、使い捨てカメラ。
写真屋のオヤジが使っていた、じわじわと像が浮かび上がる重厚なポラロイドカメラとは正反対の、今の時代を切り取るための安っぽいアイテム。
真理はそれを、とても大切そうに両手で構えた。
「現像に出すまで、どんな顔して写ってるかわからない。それって、なんだか今の私たちみたいじゃない?」
真理は、カメラのレンズを、何もない更地の屋上へと向けた。
「え?」
「何も決まってないし、どうなるかもわからない。でも、とにかくシャッターを押して、前に進むしかない。そういうのも、悪くないかなって思ったの」
カシャッ。
軽いシャッター音が、冬の風に溶けた。
真理は、レンズを下ろすと、今度は健一の方を振り返った。
そして、再び親指でギリギリとダイヤルを巻く。
「ほら、立って。あんたの新しい門出なんだから、一枚くらい撮ってあげる」
「門出って、俺はこれから、町工場の面接に行くんだぞ。背広だって、ダイエーの安物だし」
「いいから。みっともない顔、残しておきたいのよ」
真理は、カメラを顔の前に構え、ファインダー越しに健一を見た。
「笑って」
健一は、少しだけ照れくさそうに首を掻き、そして、不器用に口角を上げた。
カシャッ。
フラッシュは焚かれなかった。
ただ、乾いたシャッター音が響いただけだった。
真理は、カメラを下ろすと、満足げに微笑んだ。
そして、健一のそばまで歩いてくると、彼の背中を手のひらでポンッと軽く叩いた。
「あんた、ちょっとはいい男になったじゃない」
それは、幼稚園の頃から彼を守り、彼の背中を押し続けてきた幼馴染からの、最高の褒め言葉だった。
「お前もな。ちょっとだけ、可愛くなったんじゃないか?」
健一が皮肉めいて返すと、真理は「ちょっとだけ、は余計よ」と目を細めて笑った。
二人は、何もない更地を後にし、エレベーターホールへと向かって歩き出した。
いつも健一が一歩後ろを歩いていた昔とは違う。
並んで歩く二人の足音は、コンクリートの床に同じリズムで響いている。
恋ではなくなったかもしれない。
けれど、二人の関係は、以前よりずっと深く、対等なものに変わっていた。
エレベーターのボタンを押す。
遠くで、冬の空を切り裂くように、飛行機のエンジン音が微かに聞こえた。
冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。
何もない屋上に残っていたのは、真理が使い捨てカメラを巻き上げる、ギリギリという小さな音の余韻だけだった。




