3.僕と猫と月と店員
二十代前半くらいの小柄な店員さんは、ねこの刺繍がついた可愛らしいエプロンを揺らす。
会ったことなんてあるはずもないのに自分の鼓動は張り裂けそうなほどはやい。
「あ…あの…」
気づけばそう声をかけていた。何やってるんだばか!何も言うことを考えてないのに、どうしても声をかけなきゃいけないような、そんな気持ちになってしまったんだ。
全身が多分茹蛸みたいになっているであろう僕は、今年一頭を回転させて、次の言葉を絞り出す。
目薬…薬局…駅…夜…
「家近いんですか?」
言ってからしまった、と思った。家知りたがってる客とか絶対キモい。やらかした。今日の事は末代まで僕の恥として語り継がれるだろう。
流れる滝汗を握り拳で受け止めて、彼女の瞳をまっすぐ見つめる。なんて返されるのか、恐怖と期待で吐きそうだ。
見つめ合っている瞳に耐えられなくなりそうな、そんな永遠とも思える時間だった。
もしかしたら、本当にかなり長い時間がたっていたのかもしれない。僕が冷静さを少し取り戻して、自分が見つめている彼女の顔が自分と同じかそれ以上に赤いことに気づけるくらいの。
女性は小さく口を開くと「はい」と、それだけ言って目線を下に落としてしまった。
なるほど、家は近いのか。なんて思ってから、僕は弁明しようと手を振りながら更に言葉を募る。
「あ、違うんです、その…その、かわいい人だから話しかけたくなっちゃって…ストーカーとかじゃないんです。ええ、ほんとに」
言ってから更に後悔する。ちょっとまて、更にヤバいこと言ってないか!?女性の少し困った雰囲気を感じて、大パニックである。
といっても彼女は下を向いているので、何を考えているのかは分からないけども。
「…あ、あの刺繍の猫がかわいくて…それに外暗いから不安になって、あ、今日、月が綺麗です…ね…。」
慌てて付け加えると女性は僕をパッと見て瞠目して、僕は自分の言葉を脳内反復。…これは、やらかした。
彼女は、赤い顔をこれまた一瞬でレジ袋に戻すと、作業を再開する。肌が白いからといって頬紅ならちょっと塗りすぎだし、熱なら早く帰った方がいいレベルの赤さだ。心配。しかし、それ以上にスルーされたダメージのがデカい。
いやまて、今時夏目漱石なんて通じるんだろうか。伝わっていなかったら少し寂しいし、伝わっていたらいたで恥ずかしすぎる。全身で好きだと分かっているのに、目の前の彼女に、連絡先を聞く勇気もでないまま…引かれてたらどうしよう。
そこからは、2人とも無言になってしまう。
年代物そうなレジが、カタカタと音を鳴らす。僕もこんな機械みたいに感情なんて消して、業務のように、このあとお茶でもどうですかなんて聞けたらいいのに。現実問題そんな質問はキツすぎるし、僕は意気地なしだ。それに、告白まがいな事までしてしまった。帰りたい。帰るんだけども。
「…100円になります。」
長い沈黙のあと囁かれた声に僕は100円をそそくさと出して、レシートいりませんなんて超小声でボソってから、韋駄天の如く店を飛び出して走った。少しでもそこにいたら、また変なことを言ってしまいそうだったから。もしかして、道でばったり会った時に自分が後悔しないように。
店に出る前にチラッと盗み見た店員さんの顔は赤かった。たぶん自分の今の頬もこのくらい赤いんだろう。




