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婚約破棄は脚本通り  作者: 月雅


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9/10

第9話:盤上の逆転(後編)


 法とは、感情を持たぬ刃である。

 それを振るう者が冷徹であればあるほど、その切れ味は鋭くなる。


「証拠なら、ここにある」


 レオンハルトは懐から、一通の書類を取り出した。

 それは私が苦労して集めた帳簿の写しではない。

 彼自身が法務官としての権限を行使し、王宮の奥深くから押収した決定的な一枚だった。


「これは先日、ギルバート殿下が承認した『城壁北側修繕工事』の最終決済書だ。そしてこちらが、実際に現場で行われた工事の報告書。……石材の一つも動いていない」


 彼は二枚の紙を並べて突きつけた。

 会場の照明に照らされたその紙面には、誰もが知る王家の署名が鮮やかに記されている。

 架空工事による横領。言い逃れのできない物的証拠だ。


「な、なぜお前がそれを持っている……!」

「私は財務の監査も兼任している。不自然な金の流れを追うのは職務だ。ミレイン嬢の指摘がなければ見逃していたかもしれないがな」


 レオンハルトは淡々と告げた。

 その言葉は、私への最大の賛辞であり、殿下への死刑宣告でもあった。


「嘘だ……余は知らん! 勝手に部下がやったことだ! エドワード、お前か! お前が余の名前を使ったのだろう!」


 殿下が悲鳴のような声を上げ、エドワードを指差した。

 エドワードは剣を持ったまま、呆然と立ち尽くしている。

 忠誠を誓った主君からの、あまりに無慈悲な切り捨て。

 彼の顔から血の気が引いていく。


「で、殿下……? 俺は、ただ貴方様の仰る通りに……」

「黙れ! 余を謀ったな! この逆賊め!」


 醜い。

 あまりに醜悪な内輪揉めに、周囲の貴族たちが顔をしかめる。

 かつて私を断罪した時の、あの輝かしい正義の味方の姿はどこにもない。

 ただの保身に走る、愚かな若者がいるだけだ。


「……そこまでになさいませ、殿下」


 重々しい声が、混乱を鎮めた。

 人垣が割れ、白髪の老紳士が歩み出てくる。

 この国の宰相であり、政治の重鎮である私の父――侯爵閣下だ。

 彼は冷ややかな目で、壇上の惨劇を見上げていた。


「さ、宰相……! 聞いてくれ、これは陰謀だ! ミレインとレオンハルトが結託して……」

「全ての報告は受けております。法務局の調査結果も、商会からの嘆願書も」


 宰相は殿下の言葉を遮り、静かに首を横に振った。


「もはや隠蔽できる段階ではありません。陛下も事の次第を知り、お嘆きです」

「父上が……?」

「殿下。直ちに謹慎を命じます。今後の処分については、王族会議にて決定されますが……廃嫡は免れぬとお覚悟を」


 ガタン、と音がした。

 殿下が膝から崩れ落ちた音だ。

 廃嫡。

 次期国王という未来が、永遠に閉ざされた瞬間だった。


「い、嫌っ! 私は関係ないわ!」


 沈黙を破ったのは、リリ嬢の叫び声だった。

 彼女は殿下から飛び退き、涙ながらに訴え始めた。


「私は知らなかったの! 殿下が勝手にプレゼントを贈ってきただけで、それが国の金だなんて……! 私も被害者よ!」

「リリ……? き、君は……」


 殿下が信じられないものを見る目で彼女を見上げる。

 「真実の愛」の魔法が解けた瞬間だ。

 私は扇を顔に当て、小さく息を吐いた。

 彼女は本当に、自分の役柄を理解していない。

 悲劇のヒロインを演じるなら、最後まで愛する男と共に破滅してみせれば、多少の同情も引けたものを。


「リリ男爵令嬢。貴女にも同行を願います。贈賄の受領および、共犯の疑いがありますので」


 宰相の合図で、衛兵たちがリリ嬢を取り囲む。

 彼女は「離して!」「私は悪くない!」と泣き叫びながら、引きずられていった。

 その首元で、盗まれた金で買われたサファイアだけが、皮肉なほど美しく輝いていた。


 エドワードは剣を取り上げられ、項垂れて連行されていく。

 殿下は虚ろな目で、床の一点を見つめたまま動かない。


 終わった。

 私の断罪劇は、完全な逆転劇となって幕を下ろした。


 会場に静寂が戻る。

 貴族たちは誰一人として言葉を発しない。

 ただ、黒いドレスの私と、その隣に立つレオンハルトを、畏怖の眼差しで見つめている。


 私はゆっくりと扇を閉じた。

 壇上の殿下に向かって、最後の一瞥をくれる。


「……良い夢でしたか、殿下?」


 返事はない。

 私はスカートの裾を摘み、深く、優雅にカーテシーをした。

 王族への礼ではない。

 観客への、そしてこの舞台そのものへの、終わりの挨拶だ。


「役目は終わりました。ごきげんよう」


 私は踵を返し、レオンハルトに目配せをした。

 彼は短く頷き、私の手を取ってエスコートの形を取る。

 私たちは背筋を伸ばし、堂々と大広間を後にした。

 背中で扉が閉まる音が、フィナーレの拍手のように聞こえた。


     * * *


 夜風が冷たい。

 喧騒から離れた王宮のテラスは、月明かりだけが支配する静謐な空間だった。


 私は手すりに寄りかかり、大きく息を吸い込んだ。

 肺の中の空気をすべて入れ替えるように。

 緊張の糸が切れ、どっと疲れが押し寄せてくる。

 けれど、それは心地よい疲労感だった。


「……見事だった」


 隣に並んだレオンハルトが、ポツリと言った。

 彼は手すりに置かれた私の手に、そっと自分の手を重ねた。


「君の描いた脚本通りだ。誰もが自分の欲望に従って動き、自滅した」

「脚本通りではありませんわ。貴方がいなければ、私はエドワードに斬られていたかもしれませんもの」


 私は彼を見上げた。

 月光に照らされた彼の横顔は、いつもの厳しい法務官の顔ではなく、ただの一人の青年のそれだった。


「助けていただき、感謝します。レオンハルト様」

「……言ったはずだ。君の隣にいると」


 彼は少し照れくさそうに視線を逸らした。

 その不器用な仕草が、私の胸を温かくする。


 以前の婚約関係は、家と家が結んだ契約だった。

 互いに無関心で、業務的なパートナー。

 けれど今、私たちの間にあるのは、共犯者としての絆と、それ以上の何かだ。


「これで、私は完全に自由の身です。悪役令嬢としての役目も終わりました」

「そうだな。君はもう、誰の物語の登場人物でもない」


 レオンハルトが私の方を向き、真剣な眼差しで見つめてくる。


「だが……私の物語には、まだ続きが必要だ」

「あら、どんな物語ですの?」

「効率だけの冷たい男が、賢く美しい女性に翻弄されながら、少しずつ人間らしさを取り戻していく話だ」


 私は目を丸くし、それから思わず吹き出してしまった。

 彼なりの、精一杯の愛の告白。

 なんて回りくどくて、愛おしいのだろう。


「それは……とても難解な物語になりそうですわね」

「覚悟の上だ」


 彼の手が、私の頬に触れる。

 冷たい夜風の中で、その指先の温もりだけが鮮明だった。

 私は目を閉じ、その感触を受け入れた。


 祭りの後の静寂。

 遠くから聞こえる音楽が、新しい幕開けのファンファーレのように思えた。


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