第9話:盤上の逆転(後編)
法とは、感情を持たぬ刃である。
それを振るう者が冷徹であればあるほど、その切れ味は鋭くなる。
「証拠なら、ここにある」
レオンハルトは懐から、一通の書類を取り出した。
それは私が苦労して集めた帳簿の写しではない。
彼自身が法務官としての権限を行使し、王宮の奥深くから押収した決定的な一枚だった。
「これは先日、ギルバート殿下が承認した『城壁北側修繕工事』の最終決済書だ。そしてこちらが、実際に現場で行われた工事の報告書。……石材の一つも動いていない」
彼は二枚の紙を並べて突きつけた。
会場の照明に照らされたその紙面には、誰もが知る王家の署名が鮮やかに記されている。
架空工事による横領。言い逃れのできない物的証拠だ。
「な、なぜお前がそれを持っている……!」
「私は財務の監査も兼任している。不自然な金の流れを追うのは職務だ。ミレイン嬢の指摘がなければ見逃していたかもしれないがな」
レオンハルトは淡々と告げた。
その言葉は、私への最大の賛辞であり、殿下への死刑宣告でもあった。
「嘘だ……余は知らん! 勝手に部下がやったことだ! エドワード、お前か! お前が余の名前を使ったのだろう!」
殿下が悲鳴のような声を上げ、エドワードを指差した。
エドワードは剣を持ったまま、呆然と立ち尽くしている。
忠誠を誓った主君からの、あまりに無慈悲な切り捨て。
彼の顔から血の気が引いていく。
「で、殿下……? 俺は、ただ貴方様の仰る通りに……」
「黙れ! 余を謀ったな! この逆賊め!」
醜い。
あまりに醜悪な内輪揉めに、周囲の貴族たちが顔をしかめる。
かつて私を断罪した時の、あの輝かしい正義の味方の姿はどこにもない。
ただの保身に走る、愚かな若者がいるだけだ。
「……そこまでになさいませ、殿下」
重々しい声が、混乱を鎮めた。
人垣が割れ、白髪の老紳士が歩み出てくる。
この国の宰相であり、政治の重鎮である私の父――侯爵閣下だ。
彼は冷ややかな目で、壇上の惨劇を見上げていた。
「さ、宰相……! 聞いてくれ、これは陰謀だ! ミレインとレオンハルトが結託して……」
「全ての報告は受けております。法務局の調査結果も、商会からの嘆願書も」
宰相は殿下の言葉を遮り、静かに首を横に振った。
「もはや隠蔽できる段階ではありません。陛下も事の次第を知り、お嘆きです」
「父上が……?」
「殿下。直ちに謹慎を命じます。今後の処分については、王族会議にて決定されますが……廃嫡は免れぬとお覚悟を」
ガタン、と音がした。
殿下が膝から崩れ落ちた音だ。
廃嫡。
次期国王という未来が、永遠に閉ざされた瞬間だった。
「い、嫌っ! 私は関係ないわ!」
沈黙を破ったのは、リリ嬢の叫び声だった。
彼女は殿下から飛び退き、涙ながらに訴え始めた。
「私は知らなかったの! 殿下が勝手にプレゼントを贈ってきただけで、それが国の金だなんて……! 私も被害者よ!」
「リリ……? き、君は……」
殿下が信じられないものを見る目で彼女を見上げる。
「真実の愛」の魔法が解けた瞬間だ。
私は扇を顔に当て、小さく息を吐いた。
彼女は本当に、自分の役柄を理解していない。
悲劇のヒロインを演じるなら、最後まで愛する男と共に破滅してみせれば、多少の同情も引けたものを。
「リリ男爵令嬢。貴女にも同行を願います。贈賄の受領および、共犯の疑いがありますので」
宰相の合図で、衛兵たちがリリ嬢を取り囲む。
彼女は「離して!」「私は悪くない!」と泣き叫びながら、引きずられていった。
その首元で、盗まれた金で買われたサファイアだけが、皮肉なほど美しく輝いていた。
エドワードは剣を取り上げられ、項垂れて連行されていく。
殿下は虚ろな目で、床の一点を見つめたまま動かない。
終わった。
私の断罪劇は、完全な逆転劇となって幕を下ろした。
会場に静寂が戻る。
貴族たちは誰一人として言葉を発しない。
ただ、黒いドレスの私と、その隣に立つレオンハルトを、畏怖の眼差しで見つめている。
私はゆっくりと扇を閉じた。
壇上の殿下に向かって、最後の一瞥をくれる。
「……良い夢でしたか、殿下?」
返事はない。
私はスカートの裾を摘み、深く、優雅にカーテシーをした。
王族への礼ではない。
観客への、そしてこの舞台そのものへの、終わりの挨拶だ。
「役目は終わりました。ごきげんよう」
私は踵を返し、レオンハルトに目配せをした。
彼は短く頷き、私の手を取ってエスコートの形を取る。
私たちは背筋を伸ばし、堂々と大広間を後にした。
背中で扉が閉まる音が、フィナーレの拍手のように聞こえた。
* * *
夜風が冷たい。
喧騒から離れた王宮のテラスは、月明かりだけが支配する静謐な空間だった。
私は手すりに寄りかかり、大きく息を吸い込んだ。
肺の中の空気をすべて入れ替えるように。
緊張の糸が切れ、どっと疲れが押し寄せてくる。
けれど、それは心地よい疲労感だった。
「……見事だった」
隣に並んだレオンハルトが、ポツリと言った。
彼は手すりに置かれた私の手に、そっと自分の手を重ねた。
「君の描いた脚本通りだ。誰もが自分の欲望に従って動き、自滅した」
「脚本通りではありませんわ。貴方がいなければ、私はエドワードに斬られていたかもしれませんもの」
私は彼を見上げた。
月光に照らされた彼の横顔は、いつもの厳しい法務官の顔ではなく、ただの一人の青年のそれだった。
「助けていただき、感謝します。レオンハルト様」
「……言ったはずだ。君の隣にいると」
彼は少し照れくさそうに視線を逸らした。
その不器用な仕草が、私の胸を温かくする。
以前の婚約関係は、家と家が結んだ契約だった。
互いに無関心で、業務的なパートナー。
けれど今、私たちの間にあるのは、共犯者としての絆と、それ以上の何かだ。
「これで、私は完全に自由の身です。悪役令嬢としての役目も終わりました」
「そうだな。君はもう、誰の物語の登場人物でもない」
レオンハルトが私の方を向き、真剣な眼差しで見つめてくる。
「だが……私の物語には、まだ続きが必要だ」
「あら、どんな物語ですの?」
「効率だけの冷たい男が、賢く美しい女性に翻弄されながら、少しずつ人間らしさを取り戻していく話だ」
私は目を丸くし、それから思わず吹き出してしまった。
彼なりの、精一杯の愛の告白。
なんて回りくどくて、愛おしいのだろう。
「それは……とても難解な物語になりそうですわね」
「覚悟の上だ」
彼の手が、私の頬に触れる。
冷たい夜風の中で、その指先の温もりだけが鮮明だった。
私は目を閉じ、その感触を受け入れた。
祭りの後の静寂。
遠くから聞こえる音楽が、新しい幕開けのファンファーレのように思えた。




