第8話 盤上の逆転(前編)
重厚な扉が開かれる音と共に、私は足を踏み出した。
大広間の喧騒が、潮が引くように止む。
数百人の視線が一斉に私に突き刺さる。
好奇、嘲笑、侮蔑。
それらの負の感情を、私は漆黒のドレスで受け止めた。
以前の婚約破棄の夜とは違う。
今夜の私は、被害者としてここに立っているのではない。
コツ、コツ、とヒールの音が静寂に響く。
人垣が割れる。
その先にある壇上には、勝ち誇った表情のギルバート殿下と、私の顔を見て怯えたように身を竦めるリリ嬢がいた。
傍らには、エドワードが腕組みをして仁王立ちしている。
役者は揃っているようだ。
「よく来たな、ミレイン・アスター! 逃げずに罪を償いに来るとは、殊勝な心がけだ」
殿下が両手を広げ、朗々と声を上げた。
まるで英雄の凱旋だ。
周囲の貴族たちがヒソヒソと囁き合う。
「本当に来たぞ」「あの悪女め」「今日こそ終わりだ」
彼らは断頭台の露を見に来た観衆に過ぎない。
「お招きにあずかり光栄ですわ、殿下。仲直りがしたいと伺いましたので」
私は優雅にカーテシーをした。
黒いベルベットのスカートが波打つ。
その所作に一点の曇りもないことを見せつける。
「白々しい! 仲直りだと? そのような戯言、誰が信じるものか!」
殿下は顔を歪め、合図を送った。
エドワードが一歩前に出て、巻物を広げた。
罪状の読み上げだ。
「罪人ミレイン! 貴様の罪は明白だ。第一に、未来の王妃たるリリ嬢への執拗ないじめ。教科書を隠し、ドレスを切り裂き、階段から突き落とそうとした暴挙!」
会場から悲鳴のような息が漏れる。
リリ嬢が瞳を潤ませ、殿下の胸に顔を埋める。
素晴らしい演技力だ。女優になれば大成しただろうに。
「第二に! これが最も重い罪だ。元婚約者という立場を悪用し、王宮の予算を横領した罪! 殿下の印章を無断で使用し、私利私欲のために国庫を貪ったこと、申し開きはあるか!」
エドワードの怒鳴り声が広間に反響した。
空気が凍りつく。
横領。それは貴族にとって致命的な汚名だ。
いじめは感情の問題だが、金の問題は法に触れる。
殿下がニヤリと笑った。
これで終わりだと言わんばかりに。
私は扇をゆっくりと開き、口元を隠した。
笑みが漏れるのを防ぐために。
「……それで、全てですか?」
「なんだと? まだ罪が足りないと言うのか!」
「いいえ。あまりに陳腐な脚本でしたので、拍子抜けしましたの」
私は扇を閉じ、パチンと音を立てた。
その乾いた音が、反撃の合図だ。
「では、一つずつ確認させていただきます。まず、いじめの件について」
私は鞄から一枚の書類を取り出した。
羊皮紙に記された、細かな文字の羅列。
「リリ嬢の教科書が紛失したとされる日、私は領地へ戻っておりました。これは関所の通過記録です。また、ドレスが切り裂かれた時刻、私は王宮の図書室におりました。当時の閲覧記録と、司書の証言書がここにあります」
私は書類を高く掲げた。
周囲の貴族たちが身を乗り出す。
「階段の一件に至っては、目撃者が多数おりますわね? リリ嬢が自ら足を滑らせた際、私が腕を掴んで助けようとした。その際に私の爪が彼女の腕にかすった。それを『突き落とそうとした』と解釈するのは、少々想像力が豊かすぎるのではなくて?」
私は冷ややかにリリ嬢を見やった。
彼女がビクリと震える。
事実、あの日彼女を助けたのは私だ。
恩を仇で返すとはこのことだ。
「ぐっ……そ、それは……口裏を合わせさせたのだろう!」
殿下が苦し紛れに叫ぶ。
予想通りの反応だ。
「では、横領の件に移りましょうか」
私はもう一冊、厚みのある帳簿を取り出した。
以前、レオンハルトに託したノートの「原本」だ。
ここには、私が処理した全ての会計記録が、公的な裏付けと共に記されている。
「私が横領したとされる金額、および時期。それは奇妙なことに、殿下が宝石商と密会されていた日時と完全に一致します。こちらは宝石商組合から取り寄せた、取引台帳の写しです」
新たな書類を提示する。
これを入手するのには骨が折れた。
だが、私の事業パートナーとなった商会長たちが、裏ルートで協力してくれたのだ。
「悪役令嬢」のコネクションを侮らないでいただきたい。
「ここには、殿下のサイン入りで『サファイアの首飾り』の購入履歴が残っています。支払いは『城壁修繕費』より充当、とのメモ書きも添えて」
会場がどよめいた。
今度は嘲笑ではない。
驚愕と、疑惑のざわめきだ。
貴族たちは馬鹿ではない。
提示された証拠の具体性と、殿下の狼狽を見比べれば、どちらに理があるかは明白だ。
「で、デタラメだ! それは偽造だ!」
殿下の顔が蒼白になる。
額に脂汗が滲んでいる。
「偽造? これは公的な認印が押された書類ですわ。もしこれが偽造だと言うのなら、殿下は王国の商業ギルドそのものを敵に回すおつもりですか?」
私は一歩前に出た。
壇上の彼らとの距離を詰める。
黒いドレスが、彼らにとって死神のローブに見えていればいい。
「リリ様。貴女が今身につけていらっしゃるその首飾り。とても素敵ですわね。まるで、城壁の煉瓦が形を変えたようですわ」
「ひっ……!」
リリ嬢が慌てて首元を押さえる。
その仕草が、何よりの自白だった。
会場の空気が完全に反転する。
「可哀想なヒロイン」を見る目は消え、「盗人」を見る冷ややかな視線が彼女に注がれる。
「おのれ……! 黙れ、黙れ黙れ!」
殿下が理性を失い、地団駄を踏んだ。
彼は腰の剣に手をかける。
丸腰の令嬢相手に、武力を行使しようというのか。
落ちるところまで落ちたものだ。
「エドワード! この女を捕らえろ! 国家反逆罪だ! 今すぐ斬り捨てても構わん!」
「は、はいッ!」
エドワードが剣を抜いた。
銀色の刃がシャンデリアの光を反射する。
周囲の貴族たちが悲鳴を上げて下がる。
私は動かなかった。
逃げれば、彼らの暴論を認めることになる。
それに。
カツン、と硬質な足音が響いた。
その音は、広間の混乱を切り裂くように鋭く、そして絶対的な威厳を持って近づいてきた。
「……見苦しいぞ」
氷のような声。
群衆が割れ、一人の男が姿を現す。
深紺の夜会服ではなく、今日は正装の軍服を纏った騎士であり、法務官である男。
レオンハルト・クレイグ侯爵。
彼が私の前に立つ。
抜身の剣を持ったエドワードに対し、彼は素手だ。
だが、その背中から放たれる気迫だけで、エドワードの動きが止まった。
「レ、レオンハルト……邪魔をするな! これは殿下の命令だ!」
「違法な命令に従う義務はない。そして、証拠なき処罰は私刑に他ならない」
レオンハルトが私を背に庇いながら、殿下を見据えた。
「続きは私が引き継ぐ。ミレイン嬢の提示した証拠の正当性は、法務局が既に確認済みだ」
彼の言葉が、最後の留め金だった。
盤面はひっくり返った。
ここからは、私の独壇場ではない。
私たちの、勝利のダンスだ。




