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婚約破棄は脚本通り  作者: 月雅


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10/10

第10話 幸福なカーテンコール


 季節が二つほど巡り、街路樹の緑が深まっていた。


 私の商会は、相変わらず忙しい。

 王都の一等地に構えたオフィスの窓からは、活気ある大通りが見下ろせる。

 かつて「悪役令嬢」と呼ばれた女が経営する店ということで、当初は物珍しさで客が来た。

 だが今では、確かな品質と、たまに提供される「ちょっとした貴族社会のアドバイス」を目当てに、多くの顧客が訪れるようになっている。


「お嬢様、いえ、会頭。決算書類の承認をお願いします」


 アンナが分厚いファイルをデスクに置いた。

 彼女もすっかり商売人の顔つきになっている。

 私はペンを走らせ、数字を追う。

 黒字。健全なキャッシュフロー。

 誰の顔色を窺うこともなく、自分の才覚で稼いだ金。

 この充実感は何物にも代えがたい。


「完璧ね。ボーナスを弾むわ」

「あら、嬉しい。では、新しいティーセットを経費で買っても?」

「福利厚生費として計上しておいて」


 軽口を叩き合っていると、ドアがノックされた。

 予約客ではない。

 けれど、この独特のリズムで扉を叩く人物を、私は一人しか知らない。


「入りたまえ」


 私がふざけて重々しく言うと、扉が開き、レオンハルトが入ってきた。

 彼は今日も深紺の公服を完璧に着こなしているが、その手には似つかわしくないものが握られていた。

 大きな、真紅の薔薇の花束だ。


「……業務の妨げだっただろうか」

「いいえ。ちょうど休憩にしようと思っていたところですわ」


 私は席を立ち、彼を迎えた。

 以前なら、彼はこんな非効率な手土産を持参しなかっただろう。

 「花束など枯れるだけで資産価値がない」と言っていた男が、変われば変わるものだ。

 これも、私の教育の成果かしら。


「どうぞ、おかけになって。アンナ、お茶を」

「はい、ただいま」


 アンナが気を利かせて退室し、オフィスには二人きりの時間が流れる。

 レオンハルトはソファに座ると、花束をテーブルに置き、居住まいを正した。

 その表情は、重大な裁判に臨む法務官のように真剣だ。


「ミレイン。今日は、商談に来たわけではない」

「ええ、存じております。商談相手に薔薇を贈る商習慣はありませんもの」


 私が微笑むと、彼は少しだけ頬を緩め、すぐに真顔に戻った。

 彼は懐から、一通の封筒を取り出した。

 それは以前、私たちが交わしたような「契約書」ではない。

 もっと小さく、上質な紙。


「単刀直入に言おう。……私と、結婚してほしい」


 予想していたはずの言葉。

 それなのに、心臓が大きく跳ねた。

 彼は私の反応を待たず、言葉を継ぐ。


「家同士の政略ではない。アスター家とも、クレイグ家の当主としての義務とも関係ない。私という個人が、君という個人を必要としているんだ」


 彼は封筒を開けず、テーブルの上に置いた。

 そして、その隣に小さなベルベットの箱を並べる。


「君の自由を縛るつもりはない。君の事業も、資産も、君自身の権利として尊重する。それを法的に保証するための婚姻契約書案も作成してきた。不備があれば修正する」

「……そこまで準備なさるなんて、さすがですわ」

「だが」


 彼は言葉を切り、私を真っ直ぐに見つめた。

 その青い瞳には、書類上の論理など吹き飛ばすほどの、熱い感情が宿っていた。


「契約書はただの紙切れだ。私が本当に捧げたいのは、これだ」


 彼は箱を開けた。

 そこには、私の瞳の色と同じ、透き通るようなアメジストの指輪が収められている。

 高価なダイヤモンドではない。

 私の色を選んでくれたことが、何よりも雄弁な愛の言葉だった。


「ミレイン。君の隣で、共に人生という盤面を歩きたい。君が計算高い悪女であろうと、聡明な実業家であろうと、私は君を愛している」


 計算高い悪女。

 かつて断罪されたその呼び名が、彼の口から出ると、まるで甘い愛称のように聞こえる。

 私は目頭が熱くなるのを感じた。

 扇で隠すのはやめよう。

 今の私は舞台の上にいる役者ではない。

 ただのミレインだ。


「……変な方。私と一緒になれば、平穏な日々など望めませんわよ? また誰かを陥れたり、策略を巡らせたりするかもしれません」

「望むところだ。退屈な日常より、君とのスリリングな日々の方が、私にとっては幸福だ」


 彼は立ち上がり、私の手を取った。

 その手は温かく、力強い。

 私は彼の手のひらに自分の手を預け、小さく頷いた。


「謹んで、お受けいたします。……私のパートナー」


 彼が指輪を私の指に滑らせる。

 サイズは完璧だった。

 彼がどれだけ私を見ていてくれたか、その証だ。


     * * *


 それから、さらに時が流れた。


 新しい屋敷の書斎は、心地よい静寂に包まれている。

 夕日が窓から差し込み、部屋を茜色に染めていた。

 大きなマホガニーの机を二つ並べ、私たちはそれぞれの仕事に向かっている。


 レオンハルトは法務省の難解な案件を処理し、私は商会の新規プロジェクトの企画書を練る。

 会話はない。

 けれど、紙をめくる音と、ペンが走る音だけが、二人の空間を満たしている。

 それが私たちにとっての、最もリラックスできる時間だった。


「……ん」


 レオンハルトがふとペンを止め、眉間を揉んだ。

 私は立ち上がり、サイドテーブルのポットから紅茶を淹れる。

 カップを二つ持ち、彼の机へ歩み寄る。


「休憩になさいませんか? 根を詰めすぎですわ」

「ああ……すまない。君の淹れる茶の香りがすると、思考がクリアになる」


 彼はカップを受け取り、一口飲んでほうっと息を吐いた。

 その顔には、かつての氷のような冷徹さはなく、穏やかな夫としての表情がある。

 私は彼の隣に腰掛け、自分のカップを口にした。


 王宮の騒動は、遠い過去の話だ。

 ギルバート元王子は地方の修道院へ送られ、リリ嬢やエドワードもそれぞれの罪を償っていると聞く。

 彼らは彼らの物語を生きた。

 そして私は、私の物語を生きている。


「ミレイン」

「はい?」

「幸せか?」


 唐突な問いに、私はカップを置き、彼を見つめ返した。

 窓の外では、一番星が光り始めている。

 かつて一人で戦っていた孤独な夜は、もう来ない。

 隣には、私の全てを理解し、背中を預けられる人がいる。

 そして、自分の足で立ち、自分の頭で考え、築き上げた居場所がある。


 私は最高の笑顔で、彼に答えた。


「ええ。計算通り……いえ、計算以上に、幸福ですわ」


 レオンハルトが優しく微笑み、私の肩を引き寄せた。

 机の上には、書きかけの書類と、湯気を立てる紅茶。

 それは、どんな劇的なフィナーレよりも美しい、私たちの日常の風景。


 長い長い舞台は終わり、幕が下りる。

 けれど、カーテンコールの拍手は、二人の胸の中でいつまでも鳴り響いていた。


(完)


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