第6話 月明かりの密約
夜のオペラ座は、光の洪水だった。
ガス灯の柔らかな明かりが、着飾った貴族たちの宝石を照らし出し、そこかしこで社交という名の品評会が開かれている。
私は馬車の窓からその光景を眺め、少しだけ憂鬱な気分になった。
かつては私も、あの中で値踏みされる商品の一つだった。
けれど今夜は違う。
「……緊張しているのか?」
向かいの席に座るレオンハルトが、硬い声で問いかけてきた。
彼は普段の堅苦しい公服ではなく、深紺色の夜会服を纏っている。
その姿は、冷徹な法務官というよりは、物語に出てくる騎士のように見えた。
もちろん、眉間の皺は相変わらずだけれど。
「まさか。かつて婚約者だった方と、公務以外でお会いするのが新鮮なだけですわ」
「……そうか。私もだ」
会話が続かない。
馬車の中には、車輪が石畳を転がる音だけが響く。
彼は膝の上で手を組み、どこか居心地が悪そうだ。
無理もない。効率と論理で生きてきた彼にとって、「デート」などという非生産的なイベントは未知の領域だろう。
それでも彼は、私を誘った。
あの手紙の文面通り、私個人に対する礼を尽くすために。
その不器用な誠実さが、今は少しだけくすぐったい。
馬車が止まる。
従僕が扉を開けると、レオンハルトが先に降り、私に手を差し出した。
エスコートの手順は完璧だ。教科書通りに。
「ありがとう存じます」
その手に指を重ねる。
革手袋越しに伝わる体温。
周囲の視線が集まるのを感じた。
「悪役令嬢」ミレインと、それを捨てたはずの「氷の侯爵」。
格好の噂の種だ。
だが、レオンハルトは周囲の雑音など存在しないかのように、堂々と私を導いた。
案内されたのは、二階の桟敷席だった。
舞台全体を見渡せる特等席。
チケット代は安くないはずだが、これは彼の個人資産から出ているのだろう。
国庫を私物化する王子とは大違いだ。
「演目は『悲劇の王妃』。君の好みだと聞いた」
「ええ、好きですわ。無実の罪で断罪された王妃が、最後には国を救う物語。皮肉が効いていて」
私はプログラムに目を落とし、ふふっと笑った。
彼は一瞬、痛ましげな表情を浮かべたが、すぐに真剣な眼差しに戻った。
「……ミレイン。先日の会議での件、改めて礼を言う」
「お礼には及びません。私は自分の潔白を証明するための材料を提供しただけ。それを活用したのは貴方の手腕です」
「いや、君の情報がなければ、私は王子の嘘を見抜けなかった。私は……君を過小評価していた」
彼は言葉を切り、舞台の幕が上がるのを待ってから、声を潜めた。
「そして、君を一人で戦わせていたことを、悔いている」
その言葉は重く、私の胸の奥にストンと落ちた。
かつて私が望んでも得られなかった理解と謝罪。
それが今、こうして手渡された。
けれど、私は感傷に浸るわけにはいかない。
まだ舞台の途中なのだから。
「侯爵様。過去を悔いるより、未来の盤面を読みましょう」
「……ああ、そうだな」
オーケストラの演奏が始まり、幕が上がる。
舞台上では、華やかな衣装を纏った演者たちが、愛と裏切りの物語を紡ぎ出す。
私たちは並んで座り、言葉少なに劇を見守った。
第二幕。
愚かな王が、愛妾の嘘を信じて王妃を幽閉する場面。
レオンハルトが小さく呟いた。
「王は盲目だ。側近たちの甘言しか耳に入らない」
「ええ。でも、その耳を塞いでいるのは、彼自身のプライドですわ。自分は間違っていないと信じたい心が、真実を拒絶するのです」
それは劇の感想であり、同時に現在の王宮情勢への分析でもあった。
ギルバート殿下は今、自分を正当化することに必死だ。
リリ嬢の甘い言葉だけが、彼の不安を麻痺させる鎮痛剤になっている。
「王妃はどう動くべきだと思う?」
「この脚本では、彼女は耐え忍び、奇跡を待ちます。でも……私なら」
私は扇で口元を隠し、彼の耳元に囁いた。
「王が決定的な失態を犯すのを待ちます。民衆の前で、その愚かさが隠しきれなくなる瞬間を」
「……それが、君の次の手か」
「機会は向こうからやってきますわ。焦った人間ほど、大きな足音を立てるものですから」
レオンハルトは私の横顔をじっと見つめた。
薄暗い桟敷席の中で、彼の瞳だけが青く光っている。
「君は強いな。そして……美しい」
心臓が跳ねた。
計算ではない。演技でもない。
予想外の直球に、私は言葉を失った。
彼は自分の発言に驚いたように目を瞬かせ、咳払いをして視線を舞台に戻した。
「……すまない。戯言だ」
「いいえ……光栄ですわ」
熱くなった頬を扇で隠す。
危ない。
この心地よい空気に浸っていては、判断が鈍る。
私はミレイン・アスター。
感情を殺し、利益を計算して生きると決めた女。
彼との関係も、あくまで「共闘者」という契約の上に成り立つものだ。
それ以上を望めば、また傷つくことになるかもしれない。
劇はクライマックスへ向かう。
王妃の無実が証明され、王が膝をつく。
観客からの万雷の拍手。
私たちは余韻の中で立ち上がった。
帰り際、劇場のテラスに出た。
冷たい夜風が火照った顔に心地よい。
空には満月が浮かんでいる。
「ミレイン」
レオンハルトが私の前に立った。
彼は何かを言おうとして、言葉を探しているようだった。
やがて、彼はそっと私の手を取った。
今度はエスコートのためではない。
ただ、触れるために。
「私はもう、君を見誤らない。君が描く結末まで、隣にいさせてくれないか」
「……それは、侯爵家としての契約ですか?」
「いや。レオンハルト個人の願いだ」
その手は温かく、少しだけ震えていた。
私はその手を握り返したかった。
けれど、まだ早い。
まだ、決着はついていない。
「……私のダンスは激しいですわよ? 足を踏まれる覚悟はよろしくて?」
精一杯のウィットで返す。
彼は少しだけ表情を緩め、私の手の甲に口付けた。
「望むところだ」
* * *
夢のような時間は、屋敷に戻った瞬間に終わりを告げた。
玄関ホールには、アンナが硬い表情で待っていた。
彼女の手には、豪奢な装飾が施された封筒がある。
王家の紋章。
一目でわかった。これは宣戦布告だ。
「お嬢様……王宮から、早馬で届きました」
私はレオンハルトに別れを告げ、部屋に入ってから封を切った。
中から出てきたのは、分厚いカード。
甘ったるい香水の匂いが鼻をつく。
『秋の収穫祭・祝賀舞踏会への招待状』
差出人はギルバート殿下。
そして追伸には、リリ嬢の丸文字でこう書かれていた。
『お姉様、ぜひいらしてください。私たち、仲直りがしたいのです』
「仲直り、ね」
私は招待状を机の上に放り投げた。
わかりやすい罠だ。
公衆の面前で私を呼び出し、今度こそ完全に社会的抹殺を行おうという魂胆だろう。
先日の会議での失敗を取り戻すために、彼らはより派手な舞台を用意したのだ。
恐怖はなかった。
むしろ、血が騒ぐのを感じる。
待っていたわ。
貴方たちが、自ら断頭台への階段を用意してくれるのを。
「アンナ、準備を。とびきりのドレスが必要よ」
「はい、お嬢様。どんな色になさいますか?」
「そうね……」
私は窓の外、月に照らされた夜空を見上げた。
「黒がいいわ。悪役には、喪服のような漆黒がよく似合うもの」
月明かりの下、私は静かに笑った。
密約は交わされた。
次は、盤上をひっくり返す番だ。




