第5話 小さな嘘と真実の帳簿
数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を利用しようとする。
王宮の大会議室。
円卓を囲む重鎮たちの沈黙は、雄弁に現状の危機を物語っていた。
私は手元の資料に視線を落とし、小さく息を吐いた。
今期の決算報告書。その赤字幅は、もはや看過できないレベルに達している。
「……それで、財務官。この使途不明金についての説明を求めたい」
議長を務める宰相――私の父ではないが、国政の師とも呼べる人物――が、静かに問いかけた。
その視線の先には、私ではなく、上座に座るギルバート殿下がいた。
殿下は不機嫌そうに貧乏揺すりをしている。
「いちいち細かいな。余は王族だぞ。多少の出費は必要経費だろう」
「限度がございます。特にこの『城壁修繕費』および『外交予備費』。計上された時期と金額が、リリ男爵令嬢への贈答品の購入時期と奇妙に符合しておりますが」
私が淡々と事実を述べると、殿下はバンと机を叩いた。
「無礼な! 余を疑うのか!」
「疑いではなく、照合です。領収書の不備も目立ちます。正規の商会ではなく、実態のない仲介業者を通した形跡がある」
先日、ミレインの示唆によって発見した架空発注の証拠だ。
決定的な王子の署名入り発注書こそ見つかっていないが、金の流れは明らかに王子の懐――正確には、そこから宝石商へ――と繋がっている。
殿下の顔が赤くなった。
追い詰められた人間が吐く言葉は、大抵決まっている。
責任転嫁だ。
「……ミレインだ」
「はい?」
「その金を横領したのは、ミレイン・アスターだ! あの女が、婚約者としての立場を利用して、勝手に余の印章を使ったのだ!」
会議室がざわめいた。
「悪役令嬢」の悪評はここにいる者たちの耳にも届いている。
いかにもありそうな話だ、という空気が流れる。
殿下はその空気を敏感に察知し、勢いづいた。
「そうだ、全てあの女の仕業だ! 余は被害者なのだ。リリへのプレゼントも、あの女が余を陥れるために勝手に手配したに違いない!」
呆れた論理の飛躍だ。
だが、不在の人間をスケープゴートにするのは、政治の常套手段でもある。
宰相の視線が鋭くなる。証拠がなければ、殿下の主張が「公式見解」になりかねない。
私は鞄から、一冊の薄いノートを取り出した。
「……そう仰ると思いまして、過去の記録を洗いました」
「なんだそれは」
「ミレイン嬢が屋敷に残していった、家計簿の写し……いえ、個人的な備忘録です」
嘘ではない。
これは彼女がまだ婚約者としてこの部屋に出入りしていた頃、書類山の中に、紛れ込ませるように置いていったものだ。
表紙には何も書かれていないが、中身は彼女の几帳面な筆跡で埋め尽くされている。
「ここには、日付ごとの殿下の支出命令と、それに対する彼女の対応が記されています。例えば、〇月×日。『殿下より、リリ嬢への誕生石購入の打診あり。予算不足のため却下。代替案として花束を提案』」
私はページをめくり、読み上げた。
周囲の貴族たちが顔を見合わせる。
「また、△月□日。『修繕費名目での資金移動を命じられるも、違法性があるため拒否。殿下、激昂して退室』」
淡々とした記述。
だが、そこには感情的な歪曲がない分、圧倒的なリアリティがあった。
彼女は横領するどころか、必死に防波堤となっていたのだ。
権限を持たない「婚約者」という立場で、できる限りのことを。
「こ、こんなもの! あいつが後から書いた捏造だ!」
「筆跡鑑定を行えば明らかです。それに、この記述にある日時に、殿下が宝飾店に出入りしていたという目撃証言とも一致します」
私は殿下を真っ直ぐに見据えた。
捏造だと主張すればするほど、墓穴を掘ることになる。
殿下は口をパクパクと動かし、やがて押し黙った。
完全な論破ではない。王族を断罪するには、まだ証拠が足りない。
だが、ここにいる重鎮たちに「種」は蒔かれた。
王子の言葉は信用できない、という疑念の種が。
「……本件については、引き続き調査を行う」
宰相が厳かに宣言し、会議は閉会となった。
重苦しい空気の中、私はノートを閉じた。
指先でその表紙を撫でる。
ミレイン。
君は、こんな戦いをたった一人で続けていたのか。
誰にも評価されず、感謝もされず、最後には悪名を被せられて。
私の胸に、鈍い痛みが走った。
これは後悔だ。
効率を優先するあまり、最も重要なパートナーの苦境を見過ごしていた、私自身の愚かさへの。
* * *
午後の日差しが、別邸の窓辺に柔らかく降り注いでいる。
私は商会の設立認可証――ようやく手に入れた私の「自由の証明書」――を額縁に入れながら、鼻歌交じりに壁の位置を調整していた。
平和な午後だ。
王宮の方角から、何やらきな臭い煙が上がっているような気配を感じるけれど、今の私には関係のないこと。
「お嬢様、王宮からの使いの方がいらっしゃいました」
アンナが盆に一通の手紙を載せて入ってきた。
封蝋を見る。クレイグ侯爵家の紋章だ。
「レオンハルト様から? また調査報告かしら」
ペーパーナイフで封を切る。
中から出てきたのは、上質な便箋が一枚。
彼の文字は、性格と同じように無駄がなく、整然としていた。
『拝啓 ミレイン・アスター様
突然の手紙を許してほしい。
業務上の報告ではない。
先日、君が残した記録のおかげで、会議における不当な嫌疑を晴らすことができた。
その礼をしたい。』
そこまでは予想通りだった。
けれど、続く文言に私の目が止まる。
『今週末、オペラ座にて新作の公演がある。
もし都合がつくなら、同行を願いたい。
君と、公私を離れて話がしたいと思っている。
レオンハルト・クレイグ』
「……あら」
私は思わず声を漏らした。
これは、デートの誘い?
あの仕事人間で、女性をエスコートすることなど時間の無駄だと考えていた彼が?
「どうなさいました?」
「なんでもないわ。ただ……予想外の変数が現れただけ」
私は手紙を胸元に押し当てた。
心臓が、少しだけ早く脈打っているのがわかる。
計算外だ。
彼を王子の不正を暴くための駒として利用するつもりだった。
彼もまた、私を有益な情報源として利用しているだけだと思っていた。
けれど、この文面からは、不器用な誠実さが滲み出ている。
彼は気づいたのかもしれない。
私が演じていた「悪女」の仮面の下にある、本当の顔に。
「返事を書くわ、アンナ。便箋を用意して」
「はい。どちらの便箋になさいますか? 事務用ですか、それとも……」
「そうね」
私は少し考えて、窓の外を見た。
庭には、季節外れの薔薇が一輪、風に揺れている。
「薄い青の便箋にして。彼の瞳の色と同じやつを」
アンナが驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに微笑んだ。
私は机に向かい、ペンを取った。
ただの協力関係。
そう言い聞かせながらも、ペン先が走る音は、いつもより軽やかだった。
盤上の駒たちが、意思を持って動き始めている。
次の手は、二人で指すことになるのかもしれない。




