第4話 舞台装置は踊る
重厚なオーク材の扉を、私は遠慮なく叩いた。
王都の大通りに面した「ごめんなさい」の手紙を送ってきた商会。
その応接室に招かれた私は、出された紅茶には手を付けず、青ざめた顔の商会長と対峙していた。
彼は額の汗をハンカチで拭いながら、視線を泳がせている。
「ですから、アスター様。これは不可抗力でして……」
「不可抗力、ですか。天災や戦争が起きたという話は聞いておりませんけれど」
私は手元に置いた契約書の写しを、指先でトントンと叩いた。
そこには、商品の納期と違約金についての条項が明記されている。
商会長は私の「個人資産」である現金を受け取りながら、商品を納めないと言っているのだ。
これは立派な債務不履行である。
「誰かに言われたのでしょう? 『悪役令嬢』に物を売れば、お前の店も同罪だと」
「そ、それは……!」
図星のようだ。
おそらく、王子の側近であるエドワードあたりが、騎士団の威光を笠に着て圧力をかけたのだろう。
短絡的で、商売の理を無視したやり方だ。
「商会長。貴方は一つ、重要なことを見落としていますわ」
「……と、おっしゃいますと?」
「その圧力をかけてきた方々……彼らからの支払いは、正しく行われていますか?」
商会長の手が止まった。
その反応だけで十分だ。
王宮の予算は、王子の浪費によって枯渇している。
当然、御用達の業者への支払いも遅延しているはずだ。
「後で払う」「王家のツケだ」と言われて、泣き寝入りしているのが実情だろう。
「私の支払いは即金です。そして、これから立ち上げる事業は、貴方の商会にとっても大きな利益になります。どちらが『優良顧客』か、商人の勘で判断なさい」
私は懐から、小切手帳を取り出した。
これは母の遺産を運用して得た、私個人の正当な資産だ。
金額を記入し、彼の目の前に置く。
違約金請求を取り下げる代わりの、前払い金だ。
「……本日中に、注文の品を別邸へお届けします」
「賢明なご判断に感謝しますわ」
私は優雅に微笑み、席を立った。
店を出ると、外は昼下がりの喧騒に包まれていた。
アンナが待たせていた辻馬車に乗り込もうとした、その時だ。
「ああっ! ミレイン様!」
甲高い声が、通りの雑踏を切り裂いた。
振り返るまでもない。
この甘ったるく、神経を逆撫でする声の持ち主は一人しかいない。
リリ男爵令嬢。
彼女は護衛の騎士――案の定、エドワードだ――を従え、人目を引くピンク色のドレスで駆け寄ってきた。
周囲の通行人が足を止め、好奇の視線を向ける。
「偶然ですわ! こんなところでお会いできるなんて!」
「……ええ、奇遇ね」
私は冷ややかに返した。
彼女の目は潤み、まるで再会を喜ぶ小動物のようだ。
だが、その瞳の奥には計算高さが見え隠れする。
衆人環視の中で私に話しかけ、私が彼女を冷たくあしらえば、再び「いじめ」の既成事実を作れる。
そういう脚本なのだろう。
「ミレイン様、お元気そうで安心しました。屋敷を追い出されたと聞いて、私、心配で……」
「追い出されたのではありません。自らの意志で退去したのです」
「でも、お一人で寂しくはありませんか? もしよろしければ、王宮のお茶会にいらしてくださいな。ギルバート殿下も、きっとお許しになりますわ」
無邪気な顔で、残酷なことを言う。
婚約破棄された元凶の茶会に、のこのこ顔を出せというのか。
それは最大の屈辱であり、社交界での死を意味する。
彼女はそれを「優しさ」という包装紙に包んで差し出しているのだ。
周囲からひそひそ声が聞こえる。
「なんてお優しいリリ様」「それに比べてあのアスター家の娘は……」
私は扇を開き、口元を隠した。
この舞台、乗ってあげるわ。
「ご親切にどうも。でも、遠慮しておくわ。貴方たちのような高貴な方々の『ごっこ遊び』に付き合うほど、私は暇ではないの」
あえて突き放す。
冷淡に、傲慢に。
リリが期待通りに肩を震わせ、涙ぐむ。
「ひどい……私はただ、仲直りがしたくて……」
「貴様! リリの慈悲を無にするとは、どこまで腐った性根なんだ!」
待ってましたとばかりに、エドワードが怒鳴り声を上げて割って入った。
彼は騎士団の制服を着ているが、その剣帯には王家紋章入りの装飾剣が吊るされている。
公務中か、あるいは私的な警護か。
どちらにせよ、公衆の面前で女性を怒鳴りつける騎士など、三流以下だ。
「エドワード様。大声を出さないでくださる? 品位が疑われますわよ」
「黙れ! 貴様のような商人の真似事をする落ちぶれ女に、品位などを説かれる筋合いはない! 今すぐリリに謝罪しろ!」
エドワードが威圧的に一歩踏み出す。
その手が、私の肩を掴もうと伸びてきた。
私は避けなかった。
彼が私に触れれば、それは「騎士による一般市民への暴行」となる。
その事実こそが、私の切り札になるからだ。
だが。
その粗野な手は、私に届く前に宙で止まった。
横から伸びてきた、革手袋をはめた手が、エドワードの手首を万力のように掴んでいたのだ。
「……騒々しいぞ」
氷点下の声。
そこに立っていたのは、レオンハルト・クレイグ侯爵だった。
彼は業務中の移動だったのか、簡素な外套を羽織り、小脇に書類鞄を抱えている。
「レ、レオンハルトか。離せ! こいつがリリを侮辱したんだ!」
「目撃していた。ミレイン嬢は招待を断っただけだ。それを侮辱と受け取るのは、被害妄想が過ぎる」
レオンハルトは淡々と事実を述べ、エドワードの手を振り払った。
エドワードがよろめく。
リリが驚いたように目を見開く。
「レオンハルト様……どうして、そちらの味方をなさるのですか?」
「味方などしていない。私は法の番人として、公道での騒乱を鎮めただけだ」
彼は私を一瞥もしない。
ただ、その立ち位置は、明らかに私と彼らの間に壁を作るものだった。
「それに、エドワード。貴官は今、公務中のはずだ。王族警護の任務を私情で歪めるな」
「ぐっ……」
「行くぞ、ミレイン嬢。ここにいては通行の妨げになる」
レオンハルトは私に背を向け、歩き出した。
まるで、ついてくるのが当然だと言わんばかりに。
私は一瞬呆気にとられたが、すぐに状況を理解した。
彼は私を「連行」する体で、この場から救い出してくれたのだ。
「……ごきげんよう、リリ様」
私は呆然とする二人に向けて優雅にカーテシーをし、レオンハルトの後を追った。
背後からエドワードの悔しげな唸り声が聞こえたが、もう関係ない。
少し離れた路地まで歩き、レオンハルトが足を止めた。
彼は振り返り、眉を寄せた。
「無茶をする。護衛もつけずに」
「あら、王都の治安は優秀な騎士団様が守ってくださっているはずでしょう?」
「……皮肉はいい」
彼はため息をつき、懐から一枚の紙片を取り出した。
それは、先日私が彼にヒントを与えた「城壁修繕費」に関する調査メモのようだった。
「調べがついた。君の指摘通りだ。架空の発注書が存在した」
「仕事がお早いですわね」
「だが、決定的な証拠にはならない。王子の署名がないからだ。側近が勝手にやったとトカゲの尻尾切りにされる」
レオンハルトは悔しげに唇を結んだ。
やはり、彼は真面目だ。
そして、その真面目さが今は愛おしいほどに私の役に立つ。
「焦ることはありません。尻尾を切ろうにも、その尻尾が本体とどう繋がっているか、彼らは隠しきれていませんもの」
「……何か策があるのか」
「ええ。ですが今はまだ、秘密です」
私は彼を見上げ、にっこりと微笑んだ。
彼は眩しいものを見るように目を細め、不器用に視線を逸らした。
「……送っていく。また変な輩に絡まれては、私の調査に支障が出る」
素直じゃない言い草。
でも、その耳が僅かに赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
舞台装置は踊る。
私の意思で、そして彼の意思で。
二人の足並みが、少しずつ揃い始めていた。




