第3話 侯爵の戸惑いと契約
「お帰りください、と言ったら?」
玄関の敷居を挟んで、私は微笑みながら問いかけた。
夜の冷気が、開け放たれた扉から入り込んでくる。
目の前に立つレオンハルト・クレイグ侯爵は、その冷たさにも動じることなく、ただ静かに私を見下ろしていた。
「帰るわけにはいかない。公務に支障が出ている」
相変わらず、情緒のかけらもない返答だ。
けれど、その瞳には以前のような無関心さはなく、探るような色が宿っている。
私は小さく肩を竦めた。
「どうぞ。狭いところですが、お茶くらいはお出しできますわ」
彼を拒絶して追い返すのは簡単だ。
あの契約書には「干渉権を持たない」とある。
だが、彼をここで手駒として盤上に引き入れる方が、私の事業――ひいては生存戦略にとって利益になると判断した。
私は扉を大きく開け、かつての婚約者を招き入れた。
応接間といっても、客を呼ぶことを想定していない小さな部屋だ。
母が愛用していた年代物のソファに彼が座ると、部屋全体が窮屈に見える。
アンナが手際よく紅茶を運び、音もなく退室する。
湯気が立つカップを前に、沈黙が落ちた。
「……謝罪に来たわけではない」
レオンハルトが口を開く。
彼は紅茶に手を付けず、真っ直ぐに私を見た。
「君との婚約破棄について、法的な不備はない。君も合意の上だ」
「ええ、もちろんです。私は自由と資産を得ました。とても感謝しておりますのよ?」
「だが、業務上の引き継ぎが行われていない」
彼は懐から手帳を取り出した。
革の表紙は使い込まれており、そこには無数の付箋が貼られている。
「王宮の雑費、特に王族の私的流用に関する監査記録。あれを管理していたのは君だな?」
核心を突いてきた。
私は扇を取り出し、口元を隠して笑った。
「管理だなんて。私はただの婚約者でしたもの。公的な権限など持ち合わせておりませんわ」
「公式な担当官は不在だ。だが、君がいた頃は数字が合っていた。君がいなくなった途端、不明金が増えた。相関関係は明白だ」
効率主義の彼らしい推論だ。
けれど、証拠はない。
私が処理していたのは、正式な帳簿に載る前の「下書き」の段階での調整だ。
あちこちの部署から回ってくる領収書を精査し、不適切なものを弾き、正しい費目に振り分ける。
それは「内助の功」などという美しい言葉で片付けられる、無報酬の労働だった。
「侯爵様。貴方は優秀な方ですけれど、少し視野が狭くていらっしゃる」
私はカップを傾け、安物の茶葉の香りを吸い込んだ。
「数字が合わないのではありません。今まで隠されていた数字が、表に出てきただけです」
「どういう意味だ」
「例えば……そう、リリ男爵令嬢が最近身につけている、大粒のサファイアの首飾り。あれのお代は、どこから出たのでしょうね?」
レオンハルトの眉がぴくりと動く。
「殿下の私財だろう。王族費の範囲内だ」
「本当に? 今期の王族費は、外交使節の接待で底をついていたはずですわ。それなのに、あのような高価な品が買えるなんて。不思議だと思いませんか?」
私は直接的な答えを言わない。
ただ、パンくずを撒くようにヒントを落とす。
彼に必要なのは答えではなく、疑問を持つことだ。
レオンハルトは黙り込み、手帳のページをめくった。
彼の指が止まる。
そこにあるのは、おそらく「予備費」あるいは「修繕費」の項目だろう。
名目は何でもいい。
重要なのは、本来の使途とは異なる金が動いているという事実だ。
「……城壁の修繕費。資材高騰を理由に、三割増しで計上されている」
「あら、奇遇ですわね。その三割分、ちょうどサファイアの相場と一致するような気がしませんこと?」
彼の顔色が変わった。
冷徹な能面の下で、怒りが静かに燃え始めているのがわかる。
彼は不正を許さない。
それが国庫という「公金」を蝕むものならば尚更だ。
彼はカップを一気に干し、音を立ててソーサーに戻した。
「確認する」
「ええ、どうぞご存分に。ただし、私の名前は出さないでくださいね。私はもう、無関係な一般市民ですから」
レオンハルトは立ち上がり、私を見下ろした。
その視線は、部屋に入ってきた時とは別人のように熱を帯びている。
敵意ではない。
評価、あるいは困惑。
今まで「無能な悪女」だと思っていた相手が、自分と同じ言語を話す人間だと気づいた時の反応だ。
「……ミレイン」
初めて、彼が私の名を呼んだ。
「君は、これを予期していたのか」
「さあ、何のことでしょう。私はただ、舞台の袖から観劇を楽しんでいるだけです」
彼は何か言いかけたが、口を引き結んだ。
そして、短く「邪魔をした」と告げ、足早に出て行った。
その背中には、焦燥感と、ある種の使命感が漂っていた。
扉が閉まると、アンナが顔を出す。
「お嬢様、よろしかったのですか? あの方に情報を与えてしまって」
「いいのよ。彼は最高の『監査役』になるわ。私が手を汚さなくても、彼が勝手に王子の不正を暴いてくれる」
これは取引ではない。
誘導だ。
私は彼に武器を与えた。
彼がその武器で誰を刺すかは、彼の正義感が決めることだ。
「さて、明日の準備をしましょうか。事業の許認可申請に行かないと」
「はい。あ、お嬢様。先ほど、商会の方から手紙が届いておりました」
アンナが差し出した封筒を受け取る。
差出人は、私がドレスの生地や雑貨の仕入れを契約していた中堅商会だ。
封を切る。
中身を読んだ私の手が一瞬、止まった。
『拝啓 ミレイン・アスター様
誠に遺憾ながら、先日ご契約いただいた商品の納入を見送らせていただきます。
当方の配送網にトラブルが生じ、貴邸へのルートが確保できなくなりました――』
典型的なお断りの文面。
だが、行間からは「圧力」の臭いがプンプンとする。
物理的な配送トラブルなどではない。
誰かが、私に物を売るなと命じたのだ。
「……へえ」
私は手紙を握りつぶしそうになるのを堪え、丁寧に折り畳んだ。
ギルバート殿下か、リリ嬢の取り巻きか。
随分と稚拙な嫌がらせだ。
兵糧攻めで私を困窮させ、泣いて謝りに来させようという魂胆だろう。
「お嬢様?」
「予定変更よ、アンナ。明日は申請の前に、少し寄り道をするわ」
私は手紙を机の上に放り投げた。
恐怖も不安もない。
湧き上がるのは、困難なパズルを前にした時のような、高揚感だけだった。
彼らはまだ知らない。
私がこの程度の嫌がらせを、逆に利用する術を持っていることを。
盤面はこちらに有利なように、書き換えてしまえばいい。
「踊り方を教えて差し上げるわ」
狭い部屋に、私の低い声が響いた。




