表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄は脚本通り  作者: 月雅


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/10

第3話 侯爵の戸惑いと契約


「お帰りください、と言ったら?」


 玄関の敷居を挟んで、私は微笑みながら問いかけた。

 夜の冷気が、開け放たれた扉から入り込んでくる。

 目の前に立つレオンハルト・クレイグ侯爵は、その冷たさにも動じることなく、ただ静かに私を見下ろしていた。


「帰るわけにはいかない。公務に支障が出ている」


 相変わらず、情緒のかけらもない返答だ。

 けれど、その瞳には以前のような無関心さはなく、探るような色が宿っている。

 私は小さく肩を竦めた。


「どうぞ。狭いところですが、お茶くらいはお出しできますわ」


 彼を拒絶して追い返すのは簡単だ。

 あの契約書には「干渉権を持たない」とある。

 だが、彼をここで手駒として盤上に引き入れる方が、私の事業――ひいては生存戦略にとって利益になると判断した。

 私は扉を大きく開け、かつての婚約者を招き入れた。


 応接間といっても、客を呼ぶことを想定していない小さな部屋だ。

 母が愛用していた年代物のソファに彼が座ると、部屋全体が窮屈に見える。

 アンナが手際よく紅茶を運び、音もなく退室する。

 湯気が立つカップを前に、沈黙が落ちた。


「……謝罪に来たわけではない」


 レオンハルトが口を開く。

 彼は紅茶に手を付けず、真っ直ぐに私を見た。


「君との婚約破棄について、法的な不備はない。君も合意の上だ」

「ええ、もちろんです。私は自由と資産を得ました。とても感謝しておりますのよ?」

「だが、業務上の引き継ぎが行われていない」


 彼は懐から手帳を取り出した。

 革の表紙は使い込まれており、そこには無数の付箋が貼られている。


「王宮の雑費、特に王族の私的流用に関する監査記録。あれを管理していたのは君だな?」


 核心を突いてきた。

 私は扇を取り出し、口元を隠して笑った。


「管理だなんて。私はただの婚約者でしたもの。公的な権限など持ち合わせておりませんわ」

「公式な担当官は不在だ。だが、君がいた頃は数字が合っていた。君がいなくなった途端、不明金が増えた。相関関係は明白だ」


 効率主義の彼らしい推論だ。

 けれど、証拠はない。

 私が処理していたのは、正式な帳簿に載る前の「下書き」の段階での調整だ。

 あちこちの部署から回ってくる領収書を精査し、不適切なものを弾き、正しい費目に振り分ける。

 それは「内助の功」などという美しい言葉で片付けられる、無報酬の労働だった。


「侯爵様。貴方は優秀な方ですけれど、少し視野が狭くていらっしゃる」


 私はカップを傾け、安物の茶葉の香りを吸い込んだ。


「数字が合わないのではありません。今まで隠されていた数字が、表に出てきただけです」

「どういう意味だ」

「例えば……そう、リリ男爵令嬢が最近身につけている、大粒のサファイアの首飾り。あれのお代は、どこから出たのでしょうね?」


 レオンハルトの眉がぴくりと動く。


「殿下の私財だろう。王族費の範囲内だ」

「本当に? 今期の王族費は、外交使節の接待で底をついていたはずですわ。それなのに、あのような高価な品が買えるなんて。不思議だと思いませんか?」


 私は直接的な答えを言わない。

 ただ、パンくずを撒くようにヒントを落とす。

 彼に必要なのは答えではなく、疑問を持つことだ。


 レオンハルトは黙り込み、手帳のページをめくった。

 彼の指が止まる。

 そこにあるのは、おそらく「予備費」あるいは「修繕費」の項目だろう。

 名目は何でもいい。

 重要なのは、本来の使途とは異なる金が動いているという事実だ。


「……城壁の修繕費。資材高騰を理由に、三割増しで計上されている」

「あら、奇遇ですわね。その三割分、ちょうどサファイアの相場と一致するような気がしませんこと?」


 彼の顔色が変わった。

 冷徹な能面の下で、怒りが静かに燃え始めているのがわかる。

 彼は不正を許さない。

 それが国庫という「公金」を蝕むものならば尚更だ。


 彼はカップを一気に干し、音を立ててソーサーに戻した。


「確認する」

「ええ、どうぞご存分に。ただし、私の名前は出さないでくださいね。私はもう、無関係な一般市民ですから」


 レオンハルトは立ち上がり、私を見下ろした。

 その視線は、部屋に入ってきた時とは別人のように熱を帯びている。

 敵意ではない。

 評価、あるいは困惑。

 今まで「無能な悪女」だと思っていた相手が、自分と同じ言語を話す人間だと気づいた時の反応だ。


「……ミレイン」


 初めて、彼が私の名を呼んだ。


「君は、これを予期していたのか」

「さあ、何のことでしょう。私はただ、舞台の袖から観劇を楽しんでいるだけです」


 彼は何か言いかけたが、口を引き結んだ。

 そして、短く「邪魔をした」と告げ、足早に出て行った。

 その背中には、焦燥感と、ある種の使命感が漂っていた。


 扉が閉まると、アンナが顔を出す。


「お嬢様、よろしかったのですか? あの方に情報を与えてしまって」

「いいのよ。彼は最高の『監査役』になるわ。私が手を汚さなくても、彼が勝手に王子の不正を暴いてくれる」


 これは取引ではない。

 誘導だ。

 私は彼に武器を与えた。

 彼がその武器で誰を刺すかは、彼の正義感が決めることだ。


「さて、明日の準備をしましょうか。事業の許認可申請に行かないと」

「はい。あ、お嬢様。先ほど、商会の方から手紙が届いておりました」


 アンナが差し出した封筒を受け取る。

 差出人は、私がドレスの生地や雑貨の仕入れを契約していた中堅商会だ。

 封を切る。

 中身を読んだ私の手が一瞬、止まった。


『拝啓 ミレイン・アスター様

 誠に遺憾ながら、先日ご契約いただいた商品の納入を見送らせていただきます。

 当方の配送網にトラブルが生じ、貴邸へのルートが確保できなくなりました――』


 典型的なお断りの文面。

 だが、行間からは「圧力」の臭いがプンプンとする。

 物理的な配送トラブルなどではない。

 誰かが、私に物を売るなと命じたのだ。


「……へえ」


 私は手紙を握りつぶしそうになるのを堪え、丁寧に折り畳んだ。

 ギルバート殿下か、リリ嬢の取り巻きか。

 随分と稚拙な嫌がらせだ。

 兵糧攻めで私を困窮させ、泣いて謝りに来させようという魂胆だろう。


「お嬢様?」

「予定変更よ、アンナ。明日は申請の前に、少し寄り道をするわ」


 私は手紙を机の上に放り投げた。

 恐怖も不安もない。

 湧き上がるのは、困難なパズルを前にした時のような、高揚感だけだった。


 彼らはまだ知らない。

 私がこの程度の嫌がらせを、逆に利用する術を持っていることを。

 盤面はこちらに有利なように、書き換えてしまえばいい。


「踊り方を教えて差し上げるわ」


 狭い部屋に、私の低い声が響いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ