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婚約破棄は脚本通り  作者: 月雅


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第2話 自由という名の武器


 荷物の少なさは、未練のなさに比例する。


 アスター伯爵家の私の部屋は、驚くほど殺風景になっていた。

 豪奢なドレス、流行の装飾品、高価な家具。

 それらは全て部屋に残されている。

 私が持ち出すのは、使い込まれた手帳と文房具、そして母の形見である数点の宝石が入った小箱だけ。

 足元には、慎ましいトランクが二つ並んでいる。


「お嬢様、本当にこれだけでよろしいのですか? あの青いドレスは、お嬢様がお小遣いを貯めて生地を買われたものでしょう?」


 侍女のアンナが、クローゼットに残されたドレスを惜しむように見つめている。

 彼女は私の乳姉妹であり、この家で唯一、心から信頼できる「共犯者」だ。


「ええ、置いていくわ。仕立て代は家のお金から出ているもの。難癖をつけられる隙を残したくないの」


 私は手元のリストにペンを走らせ、チェックを入れた。

 これは「資産分離リスト」。

 伯爵家の資産と、私の個人資産を厳格に区分けするためのものだ。

 あの婚約破棄の夜、王子と元婚約者にサインさせた契約書には、私の「個人資産」の保全が明記されている。

 逆に言えば、少しでも家の金が混じったものを持ち出せば、それは契約違反となり、彼らに付け入る隙を与えることになる。


「法的に潔白であること。それが私たちが持つ最強の盾よ」

「……相変わらず、可愛げのない完璧さですこと」

「褒め言葉として受け取っておくわ」


 私はアンナに微笑みかけ、トランクの留め具をパチンと鳴らした。

 この音は、過去への決別を告げる銃声のようなものだ。


 屋敷を出る際、父である伯爵とは顔を合わせなかった。

 彼は今頃、王宮で「娘の不始末」に対する釈明に追われているだろう。

 あるいは、王子に取り入るために私を勘当する算段でもしているかもしれない。

 どちらでもいい。

 私はもう、アスター家の駒ではないのだから。


 用意させた辻馬車に乗り込み、行き先を告げる。

 王都の西区、職人と商人が暮らす活気ある街並みの一角。

 そこに、亡き母が私にだけ遺してくれた小さなタウンハウスがある。

 父ですら存在を忘れている、私の本当の城。


 馬車に揺られながら、私は窓の外を眺めた。

 街角の新聞売りが、大声で号外を叫んでいる。


「王宮の激震! 悪役令嬢ミレイン、ついに断罪される!」

「嫉妬に狂った女の末路! 聖女リリ嬢への陰湿な嫌がらせの全貌!」


 見出しが踊っている。

 随分と仕事が早いわね。

 王宮の広報官か、あるいはリリ嬢の取り巻きあたりが情報をリークしたのだろう。

 私の名前は今や、国中で最も有名な「悪女」となっていた。


「お嬢様……悔しくはございませんか?」


 アンナが膝の上で拳を握りしめている。

 私は肩を竦めた。


「まさか。これは『宣伝』よ」

「宣伝、ですか?」

「ええ。考えてもみて。清廉潔白な令嬢よりも、手段を選ばぬ悪女の方が、裏の交渉事や厄介な依頼には適任だと思わない?」


 私は商会を立ち上げるつもりだ。

 表向きは服飾や雑貨の卸しだが、本業は別にある。

 貴族社会のしがらみを解く、相談役としての業務。

 悪名高い私になら、表沙汰にできない悩みを抱えた貴族たちも、こっそりと接触してくるはずだ。

 悪名は無名に勝る。

 彼らが流してくれた悪評を、私は一銭も払わずに利用させてもらう。


 別邸に到着すると、私は早速アンナと共に掃除を始めた。

 埃を払い、窓を開け放つ。

 古いけれど、手入れの行き届いた木の床。

 ここにあるものは全て、正真正銘、私のものだ。

 誰の許可もいらない。誰の顔色も窺わなくていい。


 私は広間の真ん中で、大きく息を吸い込んだ。

 自由の味がした。


     * * *


 その頃、王宮の執務室は、冷ややかな停滞に包まれていた。


 私は眉間を揉みほぐし、山積みになった書類の塔を見上げた。

 レオンハルト・クレイグ。それが私の名前であり、この国の財務と法務の一端を担う者としての自負もある。

 だが、ここ数日、業務の効率が著しく低下している。


「……ない」


 呟きは、重苦しい室内に吸い込まれた。

 予算委員会の議事録が見当たらない。

 先月の地方税収の集計表も、商会への許認可リストも、必要な時に必要な場所に存在していない。


 以前は違った。

 私が「あれはどうなった」と思考した瞬間に、必要な書類がデスクの右端に揃えられていた。

 お茶は最適な温度で淹れられ、面倒な社交の誘いは当たり障りのない理由で断られていた。

 私はそれが、優秀な文官たちの働きによるものだと思っていた。

 あるいは、私自身の構築したシステムが完璧に機能しているのだと。


 だが、違ったようだ。


「おい、例の件はどうなっている!」


 ドアが乱暴に開かれ、ギルバート殿下が入ってきた。

 最近の彼は機嫌が良い。

 「悪しき婚約者」を追放し、愛するリリ嬢との未来を語ることに夢中だ。

 今日も新しい夜会の企画書を片手に、興奮した面持ちで私の机を叩く。


「リリのための祝賀会だ。予算を回せ。それと、招待状のリスト作成も急げよ」

「……殿下。予算については、前回の会議で上限に達しております。これ以上の支出は国庫を圧迫します」

「堅いことを言うな。どこかの項目を削ればいいだろう。ほら、例えば……治水工事の予備費とか」


 殿下は軽々しく言う。

 私はペンを握る手に力を込めた。

 治水工事の予備費は、近年の異常気象に備えて積み立てた重要な資金だ。

 これを削るなど、正気の沙汰ではない。


「それはできません。法的な手続きも必要ですし、何より国民の安全に関わります」

「お前はつまらんな。ミレインがいなくなってせいせいしたと思っていたが、お前まであの女のようなことを言うのか?」


 ミレイン。

 その名を聞いた瞬間、思考の歯車がカチリと噛み合った。


 そうだ。

 かつて、殿下の無理難題を、誰かがいつの間にか処理していた。

 予算の帳尻を合わせ、関係各所に根回しをし、殿下の顔を立てつつ致命的な破綻を防いでいた誰か。

 私はそれを「自然な調整」だと思っていたが、自然現象で書類が作られるはずがない。


 あの夜会の日。

 彼女は泣き崩れながら、私に契約書へサインを求めた。

 あの手際の良さ。

 感情に流されず、確実な成果だけを持ち去ったあの行動。


 ――両者は互いの個人資産に対し、今後一切の干渉権を持たない。


 あの契約書の文言が脳裏をよぎる。

 彼女は持って行ったのだ。

 彼女自身の私物だけでなく、彼女が担っていた「見えない業務」という能力の全てを。


「……殿下。少し、席を外します」

「おい、どこへ行く! 話はまだ終わっていないぞ!」


 殿下の声を背に、私は執務室を出た。

 廊下を歩きながら、部下に指示を出す。

 アスター嬢の現在の居所を調べろ、と。


 感情ではない。

 これは確認作業だ。

 私の管理下にあったはずのシステムに、これほど大きな穴が空いていた理由。

 それを確かめなければ、私の仕事は前に進まない。

 ただ、それだけのことだ。


     * * *


 夕暮れ時。

 片付けが一段落し、アンナと二人で質素な夕食を囲もうとしていた時だった。

 玄関の呼び鈴が鳴った。

 来客の予定はない。新聞記者か、あるいは野次馬か。


「私が出ます」


 アンナを制して、私は自ら扉へ向かった。

 護身用の小さなナイフをポケットに忍ばせる。

 警戒しながら、覗き窓を確認する。


 そこに立っていたのは、見慣れた、けれど酷く場違いな人物だった。


 黒髪に、氷のような青い瞳。

 仕立ての良いフロックコートを着た彼は、どこか所在なさげに、けれど真っ直ぐに扉を見つめていた。


 レオンハルト・クレイグ侯爵。

 元婚約者が、私の新しい城の前に立っていた。


「……あら」


 私は小さく呟き、口元を緩めた。

 思ったよりも早かったわね。

 もう少し、王宮の混乱が深まってから来ると思っていたけれど。


 私は鏡で表情を確認した。

 完璧な「悪役令嬢」の仮面を被る。

 扉の鍵を開け、ゆっくりとノブを回した。


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