第1話 開幕のベルは婚約破棄で
音楽が、唐突に止まった。
華やかな旋律に満ちていた王宮の大広間が、水を打ったような静寂に包まれる。
数百の視線が一点に集中する。
その突き刺すような熱を全身に浴びながら、私は扇で口元を隠し、ゆっくりと瞬きをした。
舞台の幕が上がったのだ。
「ミレイン・アスター! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」
大広間の中央。
一段高い場所から響いたのは、この国の第一王子、ギルバート殿下のよく通る声だった。
金髪碧眼、絵本から抜け出したような美貌の王子。
彼は今、自分の正義に酔いしれた表情で私を指差している。
その隣には、小動物のように震える桃色の髪の少女、リリ男爵令嬢が寄り添っていた。
「……殿下、今、なんと仰いましたか?」
私は声を震わせ、よろめく演技をした。
あえて足音を立てて一歩下がる。
絹のドレスが擦れる音が、静まり返った広間に大きく響いた。
「聞こえなかったのか。婚約破棄だと言ったのだ。貴様のような嫉妬深く、陰湿な女に、我が国の貴族たるレオンハルトの妻となる資格はない!」
ギルバート殿下は、まるで英雄気取りだ。
周囲の貴族たちがざわめき始める。
嘲笑、軽蔑、そして好奇の目。
彼らにとって、これは極上のエンターテインメントなのだろう。
悪役令嬢が断罪され、正義が勝つという、ありふれた三文芝居。
けれど、脚本を書いたのは彼ではない。
私だ。
「そんな……あまりに急な……」
私は悲嘆に暮れる令嬢を演じながら、視線をそっと横へ滑らせた。
そこには、当事者であるはずの私の婚約者――いや、元婚約者が立っている。
レオンハルト・クレイグ侯爵。
黒髪に氷のような青い瞳を持つ、冷徹な実務家。
彼はこの騒ぎの中にあっても、眉一つ動かしていなかった。
ただ、この非生産的な時間が一秒でも早く過ぎ去ることを願っているかのように、手元の懐中時計に視線を落としている。
「レオンハルト様……貴方様も、同じお考えなのですか?」
縋るような視線を送る。
彼はゆっくりと顔を上げ、私を見た。
その瞳には、愛も憎しみもない。あるのは純粋な「無関心」だけだ。
「殿下の御意志だ。私に異存はない」
短く、事務的な返答。
予想通りだ。
彼は感情で動かない。
王族の決定に逆らってまで、私という「愛してもいない婚約者」を庇うメリットがないと判断したのだろう。
それでいい。
貴方が冷徹であればあるほど、私の計画はスムーズに進む。
「……酷いですわ」
私は両手で顔を覆い、肩を震わせた。
指の隙間から、周囲の様子を観察する。
リリ男爵令嬢が、ギルバート殿下の腕にさらにしがみついた。
「ミレイン様……ごめんなさい。でも、真実の愛には逆らえないのです」
「黙りなさい、リリ。君が謝る必要はない。悪いのは全て、君をいじめ抜いたこの女だ」
いじめ、か。
覚えのない罪状だが、今は反論すべき時ではない。
観客は「悪役の無様な姿」を求めている。
ここで私が冷静に反論すれば、彼らの期待を裏切り、興醒めさせてしまう。
舞台を盛り上げるには、悪役は愚かでなければならない。
「殿下……そこまで仰るなら、仕方がありません」
私は涙を拭う仕草をして、顔を上げた。
瞳を潤ませ、唇を噛み締める。
完璧な「敗北者」の表情を作る。
「ですが、口頭だけの破棄など……私の名誉に関わります。後になって『言っていない』などと言われては、アスター家の恥となりますわ」
「なんだと? 余が嘘をつくとでも言うのか!」
「いいえ、滅相もございません。ただ……これほど公の場で宣言されたのです。確かな証が欲しいのです。それが、私へのせめてもの情けではありませんか?」
私は震える手で、ドレスの隠しポケットから一枚の羊皮紙を取り出した。
丁寧に折り畳まれた書類。
インク壺と羽ペンは、近くの給仕が持っていた盆から拝借する。
給仕は驚いた顔をしたが、私の気迫に押されて盆を差し出した。
「これは?」
「……万が一のために用意していた、婚約解消の合意書ですわ。私だって、貴方様たちの噂は耳にしておりましたから……いつかこうなるのではと、覚悟はしておりました」
嘘だ。
これは今日のために、私が徹夜で条文を練り上げた完璧な契約書だ。
「ほう、用意が良いな。まあいい、余がサインしてやろう。これで文句はないな?」
ギルバート殿下は内容もろくに読まず、私の手から羽ペンを奪い取った。
彼にとって、これは勝利のサインなのだろう。
サラサラと署名し、満足げに鼻を鳴らす。
「レオンハルト、お前も書け」
「……はい」
レオンハルトが前に出る。
彼は殿下とは違い、書類に目を落とした。
その鋭い視線が、文字の上を滑る。
一瞬、彼の手が止まった。
気づいただろうか。
この書類には、巧妙な罠が仕掛けられている。
『慰謝料は一切請求しない』という、彼らにとって都合の良い文言の裏に隠された、本当の条件。
――両者は互いの個人資産に対し、今後一切の干渉権を持たない。
――ミレイン・アスターは婚約破棄に伴い、アスター家およびクレイグ家からの後見を離れ、独立した居住権と商行為の自由を有する。
つまり、私は「慰謝料」という僅かな金を捨てる代わりに、「自由」と「自分の財産」を完全に守る権利を得るのだ。
通常、未婚の女性の財産は家の管理下に置かれる。
だが、この契約が成立すれば、母が遺してくれた別邸も、私がコツコツと貯めた運用益も、すべて法的に私のものとして確定する。
レオンハルトが私を見た。
その瞳に、初めて「疑問」の色が浮かぶ。
この女は、ただ泣いているだけではない、と。
しかし、今は王子の面前だ。
ここで書類の精査を始めれば、殿下の顔に泥を塗ることになる。
「効率」を愛する彼が、そんな手間を選ぶはずがない。
私はただ、悲しげに微笑んで見せた。
早くサインをして。
この茶番を終わらせましょう?
レオンハルトは小さく息を吐き、無言でペンを走らせた。
彼自身の署名と、クレイグ侯爵家の印。
これで契約は成立した。
「……っう、うう……!」
サインが終わった瞬間、私は再び顔を覆って泣き崩れた。
完璧なタイミングだ。
書類を素早く懐にしまい込む。これは私の命綱。誰にも触れさせない。
「さあ、消えろ悪女め! 二度と余とリリの前に顔を見せるな!」
ギルバート殿下の怒号が、退場の合図だった。
私はよろよろと立ち上がり、深く頭を下げた。
カーテシーの姿勢だけは、完璧に美しく。
それが、せめてものプライドであるかのように。
「……幸せに、なってくださいませ」
震える声でそう告げ、私は踵を返した。
背中に浴びる嘲笑の雨。
「ざまあみろ」という囁き。
それら全てを心地よいBGMとして聞き流しながら、私は大広間の扉へと向かった。
扉が開く。
冷たい夜風が頬を撫でた。
私は一度も振り返らず、廊下を早足で進んでいく。
王宮の出口で待っていたアスター家の馬車に乗り込むまで、誰とも言葉を交わさなかった。
御者が心配そうに声をかけてくる。
「お嬢様、大丈夫でございますか……?」
「ええ、出して頂戴。屋敷へ」
「は、はい」
馬車が動き出す。
石畳を車輪が叩く規則的な音が、遠ざかる王宮の喧騒を掻き消していく。
窓の外を流れる街灯の明かり。
それが十分に見えなくなった頃、私はようやく背もたれに深く身を預けた。
ふう、と長く息を吐く。
緊張で強張っていた肩の力を抜く。
扇をサイドテーブルに置き、懐から先ほどの書類を取り出した。
月明かりにかざす。
王子の署名。侯爵の署名。
間違いなく本物だ。
これで私は自由になった。
「悪役令嬢」という汚名を被ることで、家という牢獄から脱出する鍵を手に入れたのだ。
ハンカチを取り出し、目元を拭う。
演技のために絞り出した涙は、もう乾いていた。
ガラスに映る私の顔は、泣き腫らした惨めな女ではない。
口の端が、自然と吊り上がる。
「……ふふ」
笑いが込み上げてくるのを止められなかった。
前世の記憶が蘇ったあの日から、この日のために準備をしてきた。
理不尽な断罪、身に覚えのない悪評、冷淡な婚約者。
それら全てを逆手に取り、私は自分の人生を勝ち取ったのだ。
けれど、これで終わりではない。
これはまだ、序章に過ぎない。
私を陥れた者たち、私を利用しようとした者たち。
彼らはまだ、自分たちが何を敵に回したのか気づいていない。
ギルバート殿下。
貴方は私を「舞台装置」だと言ったわね。
ええ、その通りよ。
でも、舞台装置が勝手に動き出し、主役を食ってしまうこともあると、教えて差し上げましょう。
馬車が屋敷の門をくぐる。
これから忙しくなる。
荷物をまとめ、母の別邸へ移動し、事業の基盤を固めなければならない。
アンナには苦労をかけるけれど、彼女なら喜んでついてきてくれるだろう。
私は窓の外を見つめ、静かに呟いた。
「さあ、始めましょうか」
夜の闇に溶けたその声は、驚くほど弾んでいた。




