第60話 2-27 目隠し結婚 4
夕暮れのオレンジ色は、星明かりに彩られた紫紺の夜に飲み込まれていく。
貴族の館の二階にある応接間の窓からは、明るい光がこぼれていた。
ミランド侯爵は、部下たちによる毎日の巡回報告を座って聞いていた。
しかし部屋にいるのは侯爵と彼の者たちだけではなかった。
他に三人……いや、今は二人と一体と言った方が正しい。
「彼らの心の準備期間は、刻一刻と短くなっていく」
報告が終わり、軍の長が応接間から退出した後、ミランド侯爵はため息をついた。
「ご心配には及びませんわ、侯爵様」
自信に満ちた女性の声が、すぐ横から響いた。
大賢者アルティシアは応接テーブルの向かいに座っており、その傍らには彼女の精霊鳥アズアラが止まっていた。
瞼の下の隈と首の青い痣は、彼女がまだ呪いから解かれていないことを物語っていた。
高貴なるミランドは、その言葉を発した相手を軽蔑の眼差しで見返した。
しかし、温かい紅茶のカップを置いた後、彼女は首を傾げてミランド侯爵を挑発的な目で見つめた。
「『ドーハ帝国の賢者協会』と戦うのが怖いのは分かっています。でも今は魔法が使えなくても、私はあなたの魔導軍を指揮できますわ」
「お前がそれを言うのは十回目だぞ、アルティシア」
アルティシアの隣に座っていたグレイモアが、うんざりした声で言った。
偉大なる賢者の加護を持つくせに無能な弟子を、刺すような目で見つめながら。
「黙りなさいよ、ジジイ。何十回言おうが、何百回言おうが、私は言うわ」
「だからこそ、私はリースのことをお前たち二人なんかより百倍も愛してるのよ」
弟子と師匠が言い争う様子を見ていた侯爵は、首を横に振りながら心の中で思った。
……今がそんな時なのか?
彼はグレイモアとアルティシアから視線を外し、窓の外をぼんやりと見つめ始めた。
そして、思考の海に沈み込んでいく。
今回の戦いは、アリアルデルとパイソン帝国の戦争に比べれば、取るに足らない小さなものだ。
なぜならアッシュズ家は今や、名前の通り灰燼に帰したも同然だから。
賢者協会の名が絡んできたとはいえ、彼は自軍が十分に対処できると確信していた。
ミランドが心配しているのは、むしろ娘の命だった。
ミランド侯爵は娘を深く愛していた。
エリゼがランドール学院でいじめを受けたと知った時は、軍を率いて犯人の首を刎ねてくる勢いだった。
しかし、王子がその少女たちの後ろ盾だと知り、渋々引き下がったものの、歯を食いしばり、政治的な手段で叩き潰すことを決意した。
ところがエリゼは、さらに重大な事件を起こしてしまった。
彼女は全員を裏切り、反乱したアッシュズに加わったのだ……これだけでも首を刎ねて晒し者にされるに十分な罪だ。
たとえ身柄を取り戻せたとしても、処刑されるのは避けられない。
それこそがミランド侯爵が最も恐れることだった。
彼女を生かしておく方法があるとすれば、館に幽閉し、彼女のことを秘密にしておくくらいしかないだろう。
-*
しかし、ぼんやりと座っていたその時、突然アズアラが金色の光を放ち始めた。
彼女は翼を広げ、甲高い鳴き声を上げた。
「侯爵様、窓ですっ!」
アルティシアが大声で叫び、指を窓に向けた。
ミランドの傍らに立つ重装の近衛兵は、大賢者少女が指差した位置へ駆け寄り、主を守るように盾を掲げた。
一方、グレイモアは片手を上げて呪文を唱えた。
「聖なるルセリア母神よ……まあいい、光の壁よっ!」
淡い金色の透明な光の壁が即座に現れ、侯爵の正面をもう一層守った。
次の瞬間、何かが高速で窓を突き破って飛び込んできた。
重装近衛兵の盾を一直線に貫き、鎧を着けた左腕を斬り飛ばし、宙に舞わせた。
そしてグレイモアが張った光の壁に深々と突き刺さった。
その半分は内側に突き刺さったまま、もう半分は光の壁の縁に引っかかっていた。
射来したものが光の壁を貫けなかったとはいえ、強烈な衝撃はミランド侯爵の体を吹き飛ばし、椅子から転げ落ちさせた。
次の瞬間、厚い鉄の盾と宙に浮かんでいた近衛兵の腕が床に落ちた。
彼は倒れ、苦痛に満ちた叫び声を上げた。
「アルティシア、侯爵様のところへ!」
「はっ!!」
グレイモアが女弟子に叫んで命じると、自らは床に倒れた腕のない近衛兵のもとへ駆け寄り、彼を元の攻撃線から引きずり出して治癒魔法を唱えた。
一方、命令を受けたアルティシアは中央のテーブルを倒して盾代わりにし、ミランド侯爵に向かって叫んだ。
「侯爵様、ここに伏せてください!」
ミランド侯爵はテーブルのかげに転がり込み、兵士らしい熟練した動作で両手を組み、伏せる姿勢を取った。
もうこれ以上何も飛んでこないと確信すると、アルティシアは体を起こして座り直した。
ミランドもそれを見て立ち上がろうとしたが、アルティシアが手を挙げて制した。
「私が行きます」
そう言い終わると、彼女は慎重な足取りでグレイモアの光の壁に突き刺さったままのものに近づき、手を伸ばしてそれを引き抜いた。
「これは……鶏!?」
それは呪いの魔法で硬くされ、体をまっすぐに伸ばされて矢のようにされた鶏だった。
アルティシアはその足をつかんで、テーブルの端に勢いよく叩きつけた。
「素晴らしい……鉄のように硬いわ」
「邪悪な呪いってのは何でもできるのよ」
グレイモアが冷たい声で答え、振り返りもしなかった。
アルティシアはうんざりしたように息を吐き、再び口を開いた。
「少しは驚かないの?」
「ドーハの賢者が絡んでるなら、空が金になるくらいで驚くことなんてないわ」
「まあ、そうよね」
自分の先生が興味を示さないのを見て、アルティシアは話を切り上げ、その鶏を本格的に調べ始めた。
翼の下の羽のあたりに手を入れ探ると、指一本分くらいの長さの筒に入った手紙が紐で結びつけられているのが見つかった。
「先生、手紙も入ってました」
彼女は鶏の矢を床に放り投げ、素早く封を切って手紙を開いた。
しかし読み終えると、首を傾げて眉をひそめた。
「内容はどうだった?」
すぐ隣で伏せていたミランド侯爵が、その様子を見て尋ねた。
彼女は彼に視線を向けると、もう一度声に出して読み上げた。
「アッシュズ公爵家の権力網の競売にご招待申し上げます。エリゼ・ミランドとアッシュズ公爵家の後継者の結婚式にて。署名 アッシュズ公爵。 ……先生、貴族の『権力網の競売』って何ですか?」
読み終えたアルティシアはグレイモアの方を見た。
しかしグレイモアは青ざめた顔で彼女を見つめ返しただけだった。
すると、ミランドの激しい怒声が響き渡り、アルティシアをグレイモアと同じくらい青ざめさせた。
「貴族の権力網の競売とは、利益提供をオークション形式で競わせ、最も多く利益を提供した者が報酬と家系の絆を得るというものだ……あの卑劣な連中、よくも私の娘を使って、腐り落ちた自分の家系に価値を上乗せしようとしたな!!!」
ミランド侯爵は怒りに顔を歪め、再び叫んだ。
「マリッサにすぐ連絡を取れ!!!」
/
侯爵からの早馬が屋敷を飛び出してから間もなく、豪奢な馬車の車輪が石畳の道を激しく回る音が響いた。
車内には三人と一羽が乗っていた。
街灯がまばらに立つ薄暗い街を駆け抜け、マリーナの教会の前に停まった。
しかし夜更けだというのに、教会の門扉は不自然に大きく開け放たれていた。
ミランド侯爵、グレイモア、アルティシアの三人は馬車を降り、急ぎ足で門内へと入っていった。
ところが、一歩踏み入れた瞬間、三人は目の前の光景に息を飲んだ。
マリーナ女神像の胸の中央に、鶏の矢が深々と突き刺さっており、司祭が梯子を登って必死にそれを引き抜こうとしていた。
「マリッサ様!!」
ミランド侯爵が大声で呼ぶと、
青い髪の中年女性が振り返った。
マリッサは女神像の台座の前に輪を作って立っていた司祭たちを掻き分けて歩いてくる。
司祭とはいえ、彼女の顔には慈悲の欠片も残っていなかった。
それを見たグレイモアとアルティシアは、真っ白になるほど青ざめた。
先に我に返ったグレイモアが、服の内ポケットから手紙を取り出して差し出した。
「ご令嬢!! 手紙です!!」
しかしマリッサの方も、同じような手紙を掲げてみせた。
「ほう、貴女たちもこれを受け取ったのね」
彼女はそう言いながら三人を見つめた。
教会の広間に冷たい空気が広がり、ほぼ全員が震え上がった。
ただ一人、ミランド侯爵だけが耐えていた。
二人が同じ怒りを抱いているからこそだった。
「こんな形で招待状を送ってくるということは、すでに接待の準備は整っているということね。ならば私たちは当日、直接その歓迎の宴に顔を出しましょう」
彼女はそう言い残すと、背を向け、地下の秘密の部屋へと歩き出した。
彼らが作戦を練るために使っている部屋だ。
ミランドがその後に続いた。グレイモアとアルティシアは顔を見合わせた。
「なぁ弟子よ、今から抜けても間に合うか?」
「先生は確実に十回以上死ぬと思いますけど……」
/
ほぼ六日が経過した。
リースとエリゼが一緒に監禁されてからというもの、リースは食事の回数や、浴槽の水の交換、便器の取り替えなどで大まかな時間を計算していた。
それ以外にも、彼は怯えた様子を一切見せず、ただ静かに座って使用人たちをじっと見つめていた。
ベッドの上で丸くなっているエリゼとは対照的だった。
あの日以来、エリゼの目尻は一度も乾いたことがなかった。
複雑な感情が絶え間なく渦巻き、彼女はすっかり混乱していた。
過去に犯した過ちへの痛み、今のリースと向き合う恐怖、そして未来にリースが自分を裏切るのではないかという不安。
彼女は感情の泥沼に囚われ、ぼんやりと放心したり、何度も泣き出したりしていた。
しかし、どれだけ彼女が鬱陶しい態度を取ろうとも、リースは一度も文句を言わなかった。顔色を変えることさえなかった。
「怖がらなくても大丈夫ですよ。落ち着いてください」
彼は何度もそう言った。
それがエリゼには、あまりにも遠い善意のように感じられた。
(そう……私は、リースの信頼を失ってしまったんだ)
彼女は心の中でそう繰り返すたび、ほぼ毎回、涙が溢れ出た。
エリゼが涙を拭っている最中、不自然なノックの音が響いた。
少女は慌てて布団の中に潜り込んだ。
ドアがゆっくりと開き、力強く確かな足音が近づいてくる。
それは操り人形のような使用人たちの足音ではなく、明らかに違う響きだった。
彼女はそっと布団の端をめくって、リースが座っているベッドサイドのティーテーブルを覗いた。
「おはようございます、坊ちゃん」
入ってきた人物が簡潔に言い、食べ物と菓子でいっぱいのティーテーブルに近づいた。
「何かご用ですか、スミス執事」
銀の仮面をつけた執事は丁寧に頭を下げ、持ってきた箱をテーブルに置いた。
「明日の結婚式では、これをお召しください」
リースは何も言わず、その豪華な箱をじっと見つめていた。
スミス執事はリースの様子を見て、小さく「ふん」と鼻を鳴らし、背を向けて出て行った。
ドアが閉まり、いつものように鍵を掛ける音が響いた。
鍵の音が止むと、リースが口を開いた。
「もう大丈夫ですよ」
エリゼはようやく布団から出てきた。
彼女は全部見ていたが、それでもリースの声が欲しかった。
せめて少しでも、その声が彼女を慰めてくれるからだ。
リースは執事が持ってきた大きな豪華な箱をベッドの上に置き、蓋を開けた。
中には精巧に仕立てられた白いドレスが入っていた。
スカート部分には透明なクリスタルガラスを葉の形に成形したものが美しくあしらわれている。
もう一着は一見シンプルに見えるタキシードだったが、生地には打ち出しと細やかな縫製による浮き彫りの模様が隠されていた。
花婿と花嫁の衣装を丁寧に確認した後、リースはぽつりと言った。
「エリゼの身分に相応しい準備ですね……」
しかしエリゼはそれが違うことをよく知っていた。
彼女は小さく首を振り、口を開いた。
「違います。これは身分を過ぎた褒め言葉ですわ」
「身分を過ぎている、ですか?」
「ええ……この衣装は、侯爵家ですら容易に手に入れられるものではありません。公爵家か王族の血筋でなければ、注文することすら許されないものです」
エリゼは悲しげな瞳をリースに向けた。
「リースこそが、その栄誉を与えられた方なのです」
リースはエリゼの言葉に、ただ静かに黙っていた。
しかし視線を箱の中に戻した瞬間、何かに目が止まった。
「首輪……?」
箱の中には、薄い黒い金属の首輪が二つ入っていた。
一つはエリゼ用、もう一つはリース用だ。
「あれはチョーカーと言いますの。もう流行らなくなった古い首飾りですわ」
「苦しそうに見えるだけの飾りですね」
リースは悲しげな声で言い、手を伸ばしてそれを取り出した。
彼はエリゼの顔を見て再び微笑むと、口から汚い言葉を吐き出した。
「汚らわしい連中め。お前たちの愚かな面を今すぐ晒してみろ」
エリゼはリースの言葉に呆然とした。
これまで知り合って以来、彼が下品な言葉を口にしたことなど一度もなかったからだ。
しかしリースの声が終わると同時に、二つの金属チョーカーが不気味な紫黒の光を放ち、彼女の知らない文字が浮かび上がって二つの首輪の上で渦を巻き始めた。
「リース……あなたは何を……」
エリゼは震える声で尋ねたが、リースは微笑んだまま答えた。
「これを安全なものにしますよ」
エリゼはただリースが理解できないことをするのを座って見つめていた。
口を開く勇気すら出せなかった。
リースが非常に集中しているのがわかっていたから、声をかけてすべてを台無しにしたくなかった。
でもこの後……私はまだ彼と話せるのだろうか。
(信頼を失ってしまったとしても……せめて見捨てないで)
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『あとがき』
各勢力がそれぞれのやり方で一斉に動き始めました。リースとエリゼの結婚式がどのような形で始まり、どのような結末を迎えるのか、ぜひ次回を楽しみにお待ちください。
まずは、ここまで読み進めてくださった皆様に心より感謝申し上げます。
先週、私は大切な友人を亡くし、その悲しみのあまり、
『あなたは「優しいギャルとオタク」の話、信じますか?』
という記事を書き上げるほどでした。
皆様からいただいた温かい励ましの言葉のおかげで、こうして早くに再び立ち上がることができました。本当にありがとうございます。
更新が予定より遅れてしまい、申し訳ありませんでした。
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