第59話 2-26 目隠し結婚 3
「やめろよぉっ!!!」
牢の中に閉じ込められたリースは、絶望的に叫んだ。
彼が最も恐れていたことが、今まさに目の前で起きようとしていた。
何かに操られた体が、エリゼに覆いかぶさり、彼女の服を荒々しく引き裂いた。
それは満足げに笑いながら、エリゼが悲鳴を上げて必死に身をよじって逃れようとするのを楽しんでいた。
「くそったれぇっ!!!」
リースは窓ガラスに頭を思い切り打ちつけた。
霊体の頭にヒビが入るほどだった。
しかし、頭から足の先まで走る痛みなど、操られた体が今まさに犯そうとしていることへの罪悪感に比べれば、何の価値もなかった。
リースには、それを止めることができなかった。
このまま放っておけば……この体はエリゼを穢し、彼女はもうマクウィス家に戻ることなどできなくなってしまう。
彼女にはここに閉じ込められる以外、選択肢など残されないだろう。
そしてリース自身は、アルトニオの駒となって、エスタの期待を裏切ることになる。
もう、取り返しがつかない……
「ごめん……僕が弱いせいで……」
大きな涙が、ひび割れた頰を伝って、粘つく液体の上にぽたぽたと落ちた。
口では強がったことばかり言っていたくせに、
自分を過信しすぎたせいで、最悪の戦場に足を踏み入れてしまい、惨めな失敗をしてしまったのだ。
自分自身もエリゼもこんなことになってしまったのだ。
「ごめん……エリゼ……エスタ……マリッサ様……みんな……ごめん」
少年は誰も見えず誰も聞こえない暗い部屋で、自分の泣き声を解放した。
しかし、その惨めな泣き声の中で、ひとつの声が頭の中に割り込んできた。
「希望は……常にそこにある……今も……そしてこれからもずっと」
それは耳で聞こえる声ではなく、意識に直接響く声だった。
それはリースがアンダーアイゼンで聞いたことのある男の声だった。
大賢者アイゼンの声。あの時、リースをエスタの元へ押し戻した人物の声。
「アイゼン様!? どこにいるんですか!?」
リースは叫び声を上げた。
彼は慌てて左右をきょろきょろと見回した。
部屋の中は真っ暗で、アイゼンの姿はどこにもなかった。
しかし、その声は再び響いてきた。
「希望は……常にそこにある……今も……そしてこれからもずっと」
二度目の声で、リースは悟った。
それは励ましや慰めの声などではない。
それは、ひどく悲しい声だった。
繰り返し再生されるために記録された声なのだ。
しかし、それはどこから、どうやって聞こえてくるのだろう?
それとも、あの時、彼はアイゼンの残像と交わした会話で、その声が残されていたのか?
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「希望は……常にそこにある……今も……そしてこれからもずっと」
三度目に意識に割り込んできた声が、リースの視線を自分の足元へと引き寄せた。
リースの足元では、何かが粘つく液体を押し分け、円状に割って周囲に広げていた。
それにより、彼は下にあるものを見通すことができた。
大きな心臓が鼓動を打っていた。
青く輝く無数の魔法文字がその心臓を取り囲み、まるで城の周りを練り歩く兵士のように回転していた。
彼らは黒い液体が溢れ込むのを防ぐように立ちはだかっている。
「これが……僕がまだ正気を保っていられる理由なのか……」
リースは苦々しい声で呟きながら、その心臓を見つめた。
腐臭のする液体と戦う心臓を。
それはグレイモアがリースに呪いを追い出して治癒魔法で破壊する方法を教えた時の魔法陣に酷似していた。
ただ、呪いの量がはるかに多いだけだった。
「希望はまだある……んですね……だったら、一度試してみましょうか……」
少年は鼻で笑い、ひび割れた両腕を上げた。
動かすたびに全身に痛みが走ったが、今の激情に比べれば何でもなかった。
彼は両手の平に魔力を集中させ、魔力を広げながら投げやりな叫びを上げた。
「 おい!! おいこの汚らわしいヤツ!! そのあほう面を晒しやがれ!! 」
彼の頭上に紫色の光が現れ、以前ハンスたちの呪いを解いた時と同じようにくるくると回り始めた。
目の前の光景がリースの心臓を激しく鼓動させた。
今が霊体であるにもかかわらず、それを感じ取ることができた。
「はっ、はっ、はっ……本当に出てきたな……」
内なるリースは再びその場に座り込み、興奮からくる荒い息を抑え込んだ。
そして先ほど自分が泣いていた愚かな後悔を嘲るように、苦々しい笑いを口から零した。
「アイゼン様……僕が馬鹿だったんです。自分が絶望したと信じていたなんて……でも今度こそ、失敗しません」
言い終わると彼は立ち上がり、両手を頭上に掲げた。
それぞれの手から魔力を、浮かんでいる文字へと送り込み、ゆっくりとそれを消し去っていった。
自分の体に起きる危険を顧みることなく。
呪いの文字の連なりが一部外れると、残りの部分も崩れ落ちた。
すると、暗い部屋に充満していた腐臭のする粘つく液体が、上方へと素早く吸い込まれていった。
そして次の瞬間、リースは自分が再び外の世界に戻っていることに気づいた。
彼はエリゼの体の上に覆い被さったままだった。
そして彼の手には引き裂かれた服の断片が握られていて、顔は彼女の白く滑らかな首筋にキスをするように近づいていた。
そしてその後……
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「お願い……やめてぇっ!!!……お願い!!」
エリゼの悲鳴が響く中、リースの体は白いシャツをさらに引き裂き続けた。
それは白く滑らかな右の首筋に顔を埋めようと屈み込んだ。
しかし、素肌の首に顔を埋めていたその顔が突然止まった。
体は木の人形のように数分間硬直した。
やがて体が起き上がり、自分の顔を拳で強く殴りつけ、ベッドの横に転がり落ちた。
「何が起きた……」
エリゼは呆然として起き上がり、心臓が恐怖で胸を突き破らんばかりに激しく鼓動していた。
それでも彼女は息を整えようと努め、リースを見つめた。
あれが本当にリースなのかどうか、まだ確信が持てずに。
彼の体が激しく痙攣し、大量の黒い液体を吐き出した。
「リース??」
エリゼが呼びかけても、体はなおも黒い液体を吐き続け、時間が一時間も過ぎた。
ようやく吐き気が止まり、リースは黒い液体の上で倒れ込み、意識を失った。
「どうしたらいいの……」
エリゼは正気を取り戻し、片腕で裸の上半身を隠しながら、震える足でベッドから降りた。力が入らない。
彼女は床に横たわる体に近づいたが、床に広がっていた黒い液体が素早く蒸発していった。
彼女はリースの体を仰向けに返し、腐臭の液体を蒸発させやすくしてから、必死に彼をベッドの上に引きずり上げた。
体勢を整えて寝かせ終わると、エリゼも力尽きてその横に倒れ込み、眠りに落ちた。
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天井に描かれた星とドラゴンと騎士の模様が、リースの目の前にゆっくりと浮かび上がってきた。
それは一般人が手に入れられるものとは思えないほど美しかった。
「夢か……いや、違う」
少年はかすれた声で呟き、ゆっくりとまばたきをした。
吐き出される温かい息が、目の前が現実であることを確かに教えてくれた。
右の手が重く、動かすのも難しい。
普段使っている手とは思えないほどの重さだった。
リースはその手で体を支えながら起き上がり、柔らかいベッドに沈む感触で自分が快適なベッドの上にいることを知った。
丸い窓の内側から見た記憶が少年の頭に蘇り、彼を苦々しさと罪悪感で染め上げた。
しかし、右側に視線を向けると、リースは上半身裸のエリゼが眠っていることに気づいた。
リースは小さく身を震わせたが、その驚きはすぐに消えた。
「エリゼ……」
彼は歪んだ口から小さな声を漏らし、苦々しく目を細めながらゆっくりと顔を背けた。
(もし僕が……もっと早く直せていたら……エリゼは……きっと……)
呪いとの戦いを終えたばかりの体の痛みと、エリゼに対してしてしまったことへの罪悪感が、
少年が本来持つべき少年らしい高揚感をすべて奪い去っていた。
しかし、再び目を開けた時、彼はベッドの足元に投げ捨てられていた毛布を見つけた。
彼はそれを手に取り、隣で眠る少女に優しくかけてやった。
(僕は……ここから出る方法を見つけなければ)
リースは小さく自分に言い聞かせ、重くなった体を数倍も重く感じながら立ち上がり、部屋の中を歩き回った。
彼が吐き出した腐臭のする黒い液体の痕跡は、わずかしか残っていなかった。
それらはすでにすべて蒸発してしまっていた。
それが、彼に魔法を教えたアーニャの声が頭の中に響かせた。
『魔法の液体は安定性が低いから、魔法で作った水はすぐに蒸発してしまうの。飲料水を作るなら、魔法で直接作るんじゃなくて、空気中の湿気を蒸留する方法を使わなきゃ』
不適切なタイミングの思い出だったが、それでも彼の肩の荷を少し軽くしてくれた。
(今は昔を懐かしむ時じゃないだろ!!!)
彼は軽く自分の頰を叩いて正気を取り戻し、部屋の中を歩き回って脱出路を探した。
しかし、いくら探しても逃げ道は見つからなかった。
寝室は広く豪華で、室内は精巧に作られた調度品で満たされていた。
だが、窓と扉は外側から完全に封じられ、彼らを閉じ込めていた。
その封印はただの鉄の錠前ではなく、リースは強固な魔法が重ねられているのを感じ取った。
「ここまで準備しているなんてな……」
彼は失望を込めて、低く呟いた。
すべての脱出路が封じられていた上に、今の彼の体では天井を這って逃げることすら不可能だった。
逃走は選択肢から完全に除外された。
リースは力の抜けた体を、ベッド脇の豪華な木製ティーテーブルの椅子に沈めた。
その時、エリゼが声を上げたので、彼はすぐに音のする方へ振り向いた。
「うーん……カレン……」
彼女はそこにいないはずのメイドを呼びながら体を起こして座り、右手を上げて目をこすった。その仕草は茶色の子猫のように可愛らしかった。
しかし、リースが先ほどかけてやった毛布が、彼女の脇へと滑り落ちていた。
それを見ていたリースは、慌ててすぐに顔を背けた。
エリゼもリースが顔を背けていることに気づき、ほとんど悲鳴を上げそうになったが、必死に堪えた。
「あー」
エリゼの悲鳴は奇妙に長く伸びた変な声になり、小さな口がぴたりと閉じた。
彼女はしばらく無言になった後、か細い声で口を開いた。
「あなたは……リース……本物……ですよね?」
「はい」
「もう、顔を向けて大丈夫ですよ」
リースはエリゼの方へ振り向いた。
今の彼女は毛布をしっかり体に巻きつけ、頭と、もう片方の手で毛布を押さえている部分だけが顔を出していた。
彼女はリースが何か慰めの言葉を言うのを待つように見つめていた。
しかし、リースの口から出たのはそれではなかった。
「僕が……あんなことをしてしまったこと……ごめんなさい……」
「『大丈夫だよ』って言ってくれると思ってたのに……」
「……本当に、ごめんなさい……僕のせいで……」
リースの視線は下を向いていた。
彼は必死にエリゼの顔を見ないように耐えていた。
そうしないと、『自分の体』が彼女の服を引き裂いていた光景が蘇り、吐き気が込み上げてきそうだった。
気まずい状況が、二人の間に再び重い沈黙を落とした。
エリゼは沈黙など望んでいなかったが、何も言えずにいた。
彼女の中にも、リースと同じくらい罪悪感が溢れ出そうとしていたからだ。
だから彼女は必死にその感情を抑え込まなければならなかった。
長い沈黙が二人の間を隔てた後、ようやくエリゼが口を開いた。
「一緒に……逃げませんか? 」
リースは静かに首を横に振り、それから顔を上げて彼女を見た。
「ここは強力な魔法で厳重に封じられています。今の僕には何もできません。それに、たとえ体が万全の状態でも……自信はありません」
リースの疲れきった声が、エリゼを苦い笑みしか浮かべさせなかった。
それは残酷な言葉の断ち切りだった。
まるで彼女が皆に対して残酷だったように。
そう、これはエリゼの罪だ。
彼女は再び震える声で口を開いた。
「ごめんなさい……全部……私のせいなの……」
「大丈夫ですよ……」
リースは短く答え、視線はエリゼではなく、着替え用の衝立とそこにかけられた数え切れないドレスに向けていた。
遠くを見つめるリースの姿が、エリゼの胸を素手で抉られるような痛みを与えた。
彼女は唇を噛みしめ、血が滲むほどに噛んでから、悲しげな声で続けた。
「私が……アルティシアの信頼を利用して、彼女を罠に誘い込んだの…… それから、あなたとエリゼを騙して、呪いと一緒にあの子の体を連れ出させたの…… それに、アルティシアにあなたがアッシュズの人間だって吹き込んで、彼女にあの街を滅ぼさせたの…… それに、眠り薬を使って、あなたをここに連れ去らせたの…… 全部……私のせいなの 」
そう言いながらも、リースは依然として黙ったまま振り向かなかった。
温かい涙がエリゼの瞳から頰を伝って流れ落ちた。
その瞬間、彼女は悟った。
『自分をまだ信じてくれていた最後の人物』を失ってしまったのだと。
しかしエリゼは一人になりたくなかった。
ランドール魔法学院にいた時や、貴族の紙の花園にいた時のように、置き去りにされたくなかった。
だから彼女は毛布を頭までかぶり、声を上げて泣き出した。
「全部……私のせいなの……ただ王子を苦しめたかっただけなのに……でも私がしたことは……もう取り返しのつかないことになって……私たち二人をこんな袋小路に追い込んでしまった……」
「エリゼは……王子を愛しているからこんなことをしたんですね……王子を苦しめて、彼の目を自分に向けさせるために、何でもやった……」
リースの声が再び響き、毛布のもう片方の端にそっと手が触れた。
声はかすれていたが、彼の問いは彼女を串刺しにする鉄の棘のようだった。
エリゼが最初の質問で凍りついている間に、リースの二番目の質問が続いた。
「それで王子は……エリゼのことを愛してくれていたんですか?」
エリゼはその問いに沈黙したまま、毛布の下でうつむいた。
彼女は王子が自分を愛してくれていたかどうかわからなかった。
あの頃、二人はほとんど言葉を交わすことすらなかったのだから。
エリゼは、王子が『飾り人形 』と一緒にいるとき、
または自分の体を傷つけるのを好むあの野蛮な少女の近くにいるとき、
いつもすぐに逃げ出していた。
王子はエリゼを愛していないだろう。
たとえ彼女が処刑されても、彼は振り返りすらしないはずだ。
そんな絶望的すぎる考えが胸をよぎると、エリゼの力のない声が唇から零れ落ちた。
「王子は私を愛してくれていないわ……少しも、関心なんて持ってくれない……」
「証明してみますか?」
リースの声にエリゼはびくりと震え、それと同時に彼が隣に腰を下ろしたのを感じた。
彼女は毛布を少し自分の方へ引き寄せた
「証明……ですか? どうやって証明するっていうんですか……」
「僕と結婚してください」
その言葉にエリゼは飛び上がらんばかりに驚いた。
「結婚ですって!?」
彼女は慌てた声を上げ、頭までかぶっていた毛布から顔を覗かせた。
目の前にはリースの背中があった。
彼はベッドの天蓋に描かれた絵をぼんやりと見上げていた。
「僕はアルトニオ公爵の呪いに操られ、エリゼをアッシュズ家の所有物にするよう命じられたんです」
リースは再び口を開いたが、顔はこちらを向けず、ただ天井を無意味に見つめ続けていた。
リースが話を続ける間、エリゼは黙って彼の背中を見つめた。
「結婚の知らせはもう広まっているはずです。彼らは近いうちに僕たちの結婚式を挙げるでしょう……」
彼の顔がゆっくりとエリゼの方へ向き直った。
「もし王子がエリゼを愛しているなら……きっと傷ついて、すぐに助けをよこすはずです」
「リース……つまり、私たちは一旦彼らの言う通りに従って、助けが来るのを待つ……ということですか?」
「まあ、そんなところですが、もし本当に誰も助けに来なければ、その機会を利用して逃げ出すこともできます。それにエリゼ自身も、王子が本当にあなたを助けに来るかどうかを知ることができるでしょう」
リースの視線が彼女を見つめると、それはエリゼに『リースはまだリースなのだ』と告げていた。
それは以前、彼が市場に連れて行ってくれた時のように、温かく優しい視線と全く同じだった。
しかしその視線は、王子の虚ろで冷たい視線よりも、ずっとエリゼを怖がらせた。
なぜならエリゼにはわからなかったからだ。
あの優しい視線は、彼女をまだ信じてくれているリースの本物の視線なのか……それとも、彼が誰に対しても浮かべる、ただの無関心な視線に過ぎないのか……
『あとがき』
こんにちは、ゼリです。ようやく、執筆する上で一番悩んでいたシーンを書き終えることができました。
今回のエピソードは6,900文字以上も詰め込んでしまい、長くなってしまってすみません。
次回は、作中で語られた「結婚式」がどのようなものになるのか。
そして、王子はエリゼの願い通りに助けに来てくれるのか……。
ぜひ、次回の更新も楽しみにしていてください。
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