トゥーロン海軍基地内軍病院
セリア・ケイは最初に健康診断を受けるため、基地内の軍病院に到着した。彼女自身は体調に問題はないと考えていたが、本当の理由は彼女が真正粘菌ルシファーに感染していないことを、念のために確認することになっていたのである。
彼女は病院に入る前に、スカートの裾に泥がついていることに気づいた。この泥はベームスター干拓地で付いたまま、どうしても裾から落ちずにここまでいっしょに来てしまったのである。服の胸元を片手で抑えながら、スカートの裾に手を伸ばして泥を叩いた。
すると意外にも簡単に泥がはがれ、下にあった花壇の中に落ちていった。花壇の植物は最近の曇り空の天候により日光不足であったため、残念ながら萎れてしまっていた。
健康診断の結果に問題が見つからなかったため、つまり感染に対して陰性であったため、このままルシファーの生態に関して質問を受けることとなった。彼女の体調を考え、医師立ち合いのもと、軍病院にある個室タイプの病室で行われた。
彼女はベームスター干拓地を脱出し、アムステルダム、アントウェルペン、ダンケルク、さらには、英仏海峡トンネルで見て来たことを詳細に語った。その中には、人間よりも、むしろネズミのような小動物によって急速に感染が広がっているのではないかという彼女の洞察も含まれていた。
報告からトゥーロンやイエールなどの周辺一帯で、それは後に計画名であるポートブリッジ計画実施予定地で、ネズミの大駆除が行われることとなったことは言うまでもない。
適時に休憩を挟みながら何時間にもおよぶ聞き取りが終ると、ディック・クレイグ少佐は用済みといわんばかりに彼女を仲間はずれにしていた。話を聞いていた軍人たちは、そそくさと場所を移して、作戦会議を開くつもりなのである。
彼女は輸送艦〈おおすみ〉で藤森多聞艦長と話をした時の自分の正直な気持ちを思い出し、妹と同じような子どもたちに、これ以上に被害者を出さないために行動したいという決意が沸き上がっていた。彼女は軍に志願することを心に決めていた。それが彼女の素直な考えであった。生きるということに目的を持ちたいのである。
彼女は世界がどうなってしまうのか尋ねたが、答えてもらうことはできなかった。それは彼女の予想どおりの反応であった。
「軍に志願させてください」
ケイは、心に決めていたことを突然に言い出した。自分もひとりの人間として、役にたちたいのである。
ディック・クレイグ少佐は改めて彼女を見たが、まだ子どもとしか見えない。功労者の彼女を決してわがままを言いだした子どもとして邪見にするわけではないが、この後のことは大人が対応しなければならないと考えていた。適当な理由をつけて話を無理やり終わらせようと考えた。
「歳は?」
「次の11月29日で二十歳になります」
「こういうとなんだが、まだ子どもではないか? それに女だ。ここからは、きつい仕事だ。我々にまかせなさい」
ディック・クレイグ少佐は、この一言で話が終わるものと考えていた。
「私が女だから無理というのなら……」
ケイの口から勝手に言葉が出ていた。小娘とバカにされたことに怒って、脇机にあった医療用ハサミを取り出すと、なんの未練もなく髪を切った。その場を格好良く決めた。というよりは、その時の動作が長い髪を抑える女性的な仕草を残していたため、髪の手入れをしているようにしか見えなかった。それでも、彼女が目標を持ち、前向きに努力をしようとしている姿に、ディック・クレイグ少佐は感銘を受けた。今すぐに活躍することは無理でも、彼女の決意を長期的に大切にしたいという気持ちが育まれたのである。ケイは容姿が良く、スラリとしたスタイルである。これから厳しい時代が続くからこそ、軍のイメージアップにも丁度良いと打算が働いたのかもしれない。彼は入隊に便宜を図ることを確約した。
その行動はサラ・ケイの憧れのジャンヌ・ダルクがオルレアンの前線に援軍として駆け付けた際にとったと言われる行動とどこか似ているものがあった。それはこの世界の時間の流れが方向づけられているために起きているのであるが、そのことに人々が気づき始めるのは、遠い先のことである。




