ジブラルタル沖、日本国海上自衛隊輸送艦〈おおすみ〉
海上自衛隊所属の輸送艦〈おおすみ〉はフランス南部トゥーロンに向けて航海が続いていた。ジブラルタル沖を通過し、地中海に入っていた。
セリア・ケイは時間が空くと、輸送艦〈おおすみ〉の後部にある高性能20mm機関砲(CIWS)の台座脇にいることが多かった。機関砲の台座がオランダ風車の塔部分を思い出させるので、なんとなく懐かしさがあり、気持ちが落ち着くのである。あくまでも彼女の主観であるが……、ついつい来てしまうのである。
すっかり意気消沈していたケイは、輸送艦〈おおすみ〉の艦上で、夜の海を眺めていた。彼女の手には、艦内で購入したミネラルウォータが未だに未練がましく握られていた。
夜の水平線は見渡す限りにどこまでも広がっていた。本来なら見事な星空が見えているはずであるが、雲に覆われ続けた夜空の下では、輸送艦〈おおすみ〉の航海灯以外には明かりが見えなかった。
艦上から見る水平線は、まるで海に蓋でもかぶせているように、海面の下に潜む深い海底を隠していた。この艦の下には遥か先まで深い海底が広がっているのかと思うと、まるで、この艦は海という空を飛んでいるようにも思えた。
艦内から聞こえてくる機械や人の声を除けば、海からは航路波の音が聞こえてくるだけであった。その単調なリズカルな航路波の音は、まるで子守歌のように甘い眠気を催した。睡魔に身をゆだねると、そのまま夜の海にも落ちてしまいそうな気分であった。
生きることに執着がわかなかった。世界の状況が状況なだけに、なにもかもから逃げ出したかった。それはある意味で簡単なことなのかもしれない。たとえば目の前の海に身を投げ出してしまえば、叶うに違いない。そんなことを考え始めるようになっていた。
海に身を投げ出し、海の底に沈んでいく。彼女はその時の自分の姿を想像した。泥で濁った海底は深く、光が届くことも無い。そこは冷たく、そして闇に覆われている。意識が消えるその時まで、闇の中で、孤独を感じながら、必死に息をしようと掻きむしるような苦痛に耐えなければならない。そして、海底で朽ちていくにつれて、腐り果てた自分の姿を晒す光景が浮かんだ。死ぬということは、そういうことなのだと考えていた。
「逃げたいけど、そんなふうに死にたくない」
航跡が夜光虫の眩しいほどの発光に満たされていた。夜の闇に夜光虫の美しさは言葉にできないほどに幻想的であり、彼女の心を癒そうとしてくれるようにも思えた。
先ほどから、水平線近くに星のような小さな光が見えていた。その小さな光は、次第に近づきつつあるように思えた。その数も増えてくると、その正体が船の航海灯であることがわかった。輸送艦〈おおすみ〉に並走するように航行しているようであった。
見えてきた船は特徴的なマストから軍艦であることが、すぐにわかった。フランス共和国海軍の地中海艦隊の駆逐艦が輸送艦〈おおすみ〉に並走しているのである。
彼女は気づいた。この輸送艦〈おおすみ〉と目的地が同じに違いない。これから始まる戦争のために、地中海艦隊の司令部基地のあるトゥーロンに集結しようとしているのであろう。夜光虫のロマンに浸っている状況でなかった。もはや、オランダ王国だけの問題ではなく、これから世界を巻き込む大きな戦争が始まろうとしている現実を嫌でも思い出させられた。
そう考えると、安全な場所にいる今の自分が、なんだか恥ずかしいような気分になった。安全な場所に逃げるために、今まではあんなにも必死に頑張ってきたが、いざ安全になると後ろめたい気持ちになった。心の中がどうにもすっきりしなかった。自分が成すべきこと、それがわからないのである。
再び、夜の海を眺めた。この瞬間にも最前線では多くの人が戦っているに違いない。そう考えると、海底に沈んでいる自分の姿が、見知らぬ兵隊の姿になっていた。この見知らぬ兵隊のひとりひとりにも人生があった。家族があり、家庭があり、そして夢見る未来があったはずである。小説に出てくる殺されるだけの役柄では決してないのである。
死は綺麗なものではなく、死は耐えがたいほどに苦痛を伴い、死は耐えがたいほどに孤独である。今まさに戦場で失われる命は、先ほどに想像した海底に沈んでいく自分のように、耐えがたいほどの苦痛と耐えがたいほどに孤独の中で消えていくのであろうか? 海底の暗い闇に沈んでいくような死にざまは、誰でも絶対に嫌なはずである。
彼女の心は、海底の闇にとらわれていた。見渡す限りの海底に、数えきれない程の人が沈んでいく光景が広がっていた。そのひとりは妹のサラであり、他にも子どもたちがいっぱい海の底に沈んでいく光景が頭に浮かんだ。沈みゆく子どもたちの生気を失った瞳が、自分を見ているような気がした。それはなにもできない自分を責めているようにも見えた。
「お願い、私を見ないで。私に何ができるというの?」
無力感に、口から出てくるのは言い訳だけであった。
「どんな辛くても、たとえ自分の命と引き換えになっても、あなただけは絶対に守るつもりだったのよ。サラ」
それは彼女の正直な気持ちであった。妹とは、いつもいっしょに遊び、よく喧嘩もした。妹がいつも隣にいるのは、なによりも当然のことと思っていた。だから、妹の死が、こんなに早く訪れるとは思ってもいなかった。
妹のサラは、頭脳明晰で、本当に才能に恵まれていた。姉として誇らしかった。妹がとっても好きだったし、妹を知る者であれば誰もが、そう思っていたはずである。妹が幸せであれば、それで幸せだった。自分の人生はそれでいいと思っていた。けれども、それが崩れ去ってしまった。妹が死んでなにもかもである。
だから、もう何もかも放り出して、楽になりたかった。それまでの人生で死にたいなどと考えたことなどなかったし、考える必要もなかった。自分を終わらせるというその考えは魅力的で、嫌なことを放り出して、安心できるような気がした。
でも、それはできないことだった。なぜなら、それは、きっと、サラが最も悲しむことだと思えたから……。それを考えると、死の恐怖に立ち向かう勇気もなく、生きることに執着もなく、単になにもかもから逃げ出したかった自分が情けなかった。
彼女の思考は、堂々巡りである。今までと何も変わらない。これ以上に考えないようにすることにした。
「ここを良いかな?」
突然に藤森多聞艦長がセリア・ケイに声をかけた。ゲストがミネラルウォータを持ったまま廃人のように佇んでいるとの話を聞かされて、藤森多聞艦長が心配していたのである。
「どうぞ」
そう言って彼女は立ち去ろうとした。
「辛いことでもあったようだな」
心の中を見透かしたような藤森多聞艦長の言葉に、つい彼女の足が止まった。本当は誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。
「ここに来るまで、多くの人が死ぬのを見ました。私は……、できれば……、私は助けてあげたかった。妹も、他の人も。でも、私は誰一人として助けることができなかった。なにもできなかった。私は本当に無力です」
「この艦と同じだ」藤森多聞艦長はケイの言葉を遮った。「この艦も、日本人を守るために、はるばる欧州までやって来たが、誰一人として救っておらん。だが、この艦も乗員も何も悩んでおらん。まだ終わっていないからだ。これから日本人を助けることができるからだ。フランス南東部に残されている日本人を祖国に帰すことができるのは、この艦がなかったらできないことだ」
「えっ」
セリア・ケイは別にこの艦について皮肉を言ったつもりではなかったので、藤森多聞艦長の気分を害してしまったのではないかと心配になった。
「本当にそう思うのなら、これからは、この艦と同じように、助けられなかった以上の人の命を助けなさい」
藤森多聞艦長は、真剣に悩むケイを我が子のように慈しんだ。
「そうだよ。セリアは十分に苦しんだよ。生き残るのに精いっぱいだった今までのセリアを誰も責めたりしない。これから、いっぱい助けようよ。まだ助けが必要な命はいっぱいいるんだよ」
伊藤夏音2等海士が艦長の後ろから声をかけた。彼女の言葉は、相変わらず価値観が斜め上になっているのであるが、どうやら、藤森多聞艦長とのこの会話は偶然ではなく、伊藤夏音2等海士がしむけたもののようであった。
「みじめな姿を晒してサラを失望させたくない。今でもサラを大好きだから、妹を失望させるなんてことは、絶対に嫌」
彼女はついに心の底に渦巻いていた本音を口にしていた。
「どんな時でも人の命を助けたいのであれば、医者になるのがよいだろう。ケイさんは医者になりたいのか? それは少し意味が違うはずだ。そもそも、すべての命を助けるなんて芸当は、神様でもない限りは無理だ。より多くの命を救いたい。でも何をすればよいのかわからないのだろう」藤森多聞艦長は、続けた。「完璧な結果を求めるのは当然だ。それが命の問題ともなれば、なおさらのことだ。だが、ここにたどり着くまでにいた場所は、まさしく戦場の真っ只中だったはずだ。戦場では助けられる命さえも、助けられない時は当然にあるだろう。我々自衛官はそんな時でさえ、より多くの命を救うことができるようにと備えている。戦場では完璧な結果を出せない現実があるからこそ、自衛官は日々の訓練を続ける。なにも敵と戦うだけが自衛隊の仕事ではない。より多くの命を救う戦いだってあるのだ。もう答えを持っているのではないのかね? 幾つもの選択肢があるはずだが、まだ若い。この先に立ち止まることがあったとしても、やり直すことも可能だろう。お願いだ。自分を責めてばかりいないで、どうか世界のこの混乱を止めて欲しい。そのヒントをあなたが持っていると国連は考えている。妹さんもそんな姉に誇りに持つのではないかな」
サラを失望させないためには、命が脅かされている境遇の子どもたちを守ってあげること……。今までの子どものような甘えた気持ちを捨てなければならない。今までの自分を卒業し、これから一生かけて、新たな自分を築いていかなければならない。でも、それはきっと、今の混乱した世界情勢では、もっとも大変な選択肢であり、苦労することが予想された。彼女は生きることにこれほどの覚悟がいるとは思いもしていなかった。
「私だって諦めたくない。ありがとうございます。なにをするべきかわかったような気がします。今すぐは無理かもしれませんが、生き続けてさえいれば、努力し続けていれば、妹と同じような子どもたちを、きっと助けてあげることができるようになれると思います。いえ、なって見せます」
藤森多聞艦長はその言葉を聞いて大笑いをしていた。




