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フェアリーリング  作者: 坂井美春
第九章 ルーアン上空
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フランス西部ノルマンディー地域圏ルーアン

 今回の来攻生物や寄生菌との非対称の戦いは、全く予想もしない状況の連続であった。多国籍軍は、陽の明かりの元では肉薄してくる敵性来攻生物との白兵戦となり、夜の闇の元では忍び寄る寄生菌の感染者との遭遇戦となり、24時間の休むことのない脅威にさらされ続けていた。高度な技術によって開発された兵器も、今までの歴史で学んだ戦争の教訓も、この戦いでは全く生かすことができなかった。

 このようなルーアンの絶望的な戦況であっても多国籍軍司令部は、各国部隊の統制と連携の維持に尽力し、損害を増やしながらも、「時間を稼ぐ」という1点を達成するべく、かろうじて優劣を拮抗させていた。

 大量の負傷者、大量の行方不明者、凄惨を極めるルーアンの状況に、敵性来攻性生物に反撃するという当初の作戦はほぼ不可能となり、攻略方針についてフランス共和国大統領府官邸と多国籍軍司令部は対立することとなった。しかしながらワーテルローラインの戦いにより、ほぼオランダ軍やベルギー軍の戦闘能力はなくなった今では、国土深くまで侵入されたフランス共和国の単独の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題であった。

 ついにフランス共和国大統領府官邸側の主張する浄化作戦とその前提の戦略的転進が基本戦略となり、多国籍軍司令部はルーアンからの事実上の退去命令を受け入れた。

 もはや多国籍軍兵士にルシファーの存在は周知の事実であった。ルシファーの被害を免れていた部隊は、退去命令の意味するところを理解しており、なんらかの特殊対策が投入されることを予感していた。たとえそれが禁句の兵器の使用でもあっても異議はない。そうであれば、巻き込まれる前に即刻の退去することに何のためらいもなかった。

 多国籍軍の退去が完了すれば、結果的に敵性来攻生物やルシファー感染者だけがルーアンにとりのこされるはずであった。もちろん、ルシファー接触の疑いのある多国籍軍兵士は、厳格に隔離されなければならない。

 報道機関にも厳しいかん口令がしかれた。ルシファーの脅威が報道され、いま世界にパニックを起こさせるわけにはいかなかった。人類がこの先の未来にわたって生き続けるためには、考えうる全ての方策を進める環境が維持されていなければならない。

 多国籍軍の退去を進めるにあたって、ただひとつだけ懸念事項があった。多国籍軍の退去が開始されることは、ルシファーにとっては餌がなくなることを意味する。多国籍軍の退去とともに、餌の後を追ってルシファーも散らばってしまう可能性があった。特殊対策が実施されるまでルシファーをルーアンに引き留めておく必要があった。はっきり言えば、ルーアンに引き付けておく囮役が必要であった。

 多国籍軍司令部は退去作戦と同時に囮作戦を実施することを決定した。囮作戦の目的は、特殊対策が実施される瞬間まで、あらゆる方法でルシファーの注意を引き付けることである。幸いにも囮作戦を担当する部隊にも救いはあった。化学防護装甲車両であれば、特殊対策後でも、人体への影響を最小限にして移動することができるからである。

 急遽、ルシファーの餌とするべく家畜が集められた。家畜だけでは足らず、ルーアンの西側にある野生動物公園からも動物が集められた。大人しい家畜は繋げられることを免れたが、多くの動物は紐で繋げられ、自由を奪われた。どの動物たちにも、食べきれないほどの好物の食事が残された。最後の食事になるため、せめてものの労いである。ルシファーがこれらの動物たちの咀嚼に夢中になっている間に、多国籍軍兵士の多くが安全な場所に逃げることができるであろう。

 いざ作戦に向けた準備が開始されたが、生き残った部隊から囮部隊を編成しようにも、過酷な任務から逃げ出すものが続出しており、準備段階でつまずいてしまった。

 そんな中、日本国から派遣されていた陸上自衛隊の自衛官が囮部隊に志願してきた。炊き出しでも、戦闘救護でも、なんでもいいから手伝わせろというのである。彼らは日本国から民間機で移動し、輸送艦〈おおすみ〉に合流するはずの自衛官たちであった。アムステルダム・スキポール空港の閉鎖の影響により、遠く離れたシャルル・ド・ゴール空港に到着したため、自力で輸送艦〈おおすみ〉に合流するべく移動中に、ここにたどり着いたのである。

 なお、囮部隊は日本国から命令を受けた正式な任務ではない。命を助けたいという派遣陸上自衛隊の隊長の思いからの志願であった。その正義感に、派遣陸上自衛官の全員が協力を申し出たために、部隊ごとの参加となっていた。

 派遣陸上自衛隊の隊長は作戦の開始にあたって、ノルマンディー上陸作戦の直前にアメリカ合衆国陸軍ジョージ・パットン将軍が指揮下の第3軍に対して行なった「ザ・スピーチ」を参考にして、部下に演説を行った。それは以下のとおりであった。


 諸君らは、どこから来たのだ? 平和にもっとも高き価値をおき、その維持と擁護に最大の努力を払うことを目指す日本国から来たのではないのか? 高い技術力により世界経済の持続的かつ包摂的な成長を促すという平和的な世界貢献を目指す日本国から来たのではないのか?

 では、諸君は何者だ? 防衛計画の大綱の定めたるところの国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国の防衛を職務とする自衛官ではないのか? 

 最後に問う、ここに来た理由はなんだ? この地では、危険な生物により、多くの民間人が苦難の状況にある。女性、子どもにかかわりなく命の危険に晒され、人々は明日の生活の糧すら得ることが厳しい状況に置かれている。彼らに、彼女らに、国際支援を積極的に差し伸べるために来たのではないのか? 迷うことは無い。世界を守ることが、日本を守ることになる。我らの活動は国内だけではない。今まで諸先輩方が努力された国際平和協力活動は、国内外でも高い評価を受けている。

 誰しも最初の戦いを怖れる。違うと答える奴が居るなら、そいつはとんでもない愚か者だ。しかし、真の英雄とは恐れながらでも戦える人間のことなのだ。真の人間の名誉、祖国への使命感、そして生来の人間らしさを貶める恐れという奴に、数分、数時間、あるいは数日を費やして、何人かは乗り越えるだろう。だが、この戦いで何人かは殉職する事になるかもしれない。その時は、俺も後から必ず行く。無論、我々は例外無く帰国を望む。加えて、我々は例外なくこの世界混乱の終結を望む。しかし諸君が逃げ回っていては戦争に勝利する事はできない。これを乗り越える最も単純な方法とは、つまりこれを始めたロクデナシどもを倒すことだ。我々は必ずや奴らを引きずり出し、細胞の一片も残さず一掃する。とっとと奴らを引っ叩いてやれば、我々はとっとと帰国できる。

 傍観するだけの腰抜けたちが勝てた戦争などない。それで勝ったとしたら他のおしとよしな同胞の犠牲のおかげなのだ。よし、私の気持ちはわかっただろう。いつも、どこでも、諸君のような素晴らしい人間たちを率いて戦えたことを私は誇りに思っている。以上だ。


 部下からは何も質問はなかった。自衛官のひとりが決意を示そうと「必勝」と書かれたハチマキを頭に巻いたが、特攻に行くのではないと隊長に戒められて、緊張の中にも笑いを誘う場面もあった。

 夕方、フランス共和国陸軍の囮部隊が家畜の一部を連れて、無人と化したルーアンの街の中を前進した。市内には戦闘の痕跡があちらこちらに散在し、未だに煙がくすぶっていた。特に目立つのは数えきれない死体袋や血にそまった包帯の山であった。まるで戦争に敗れ降伏したばかりの都市のような有様であった。

 フランス共和国陸軍の囮部隊は可能な限り広範囲に広がり、すぐにルシファーの巨大な苗床を彷徨する感染者の集団を発見した。囮部隊はルシファーの注意を惹くために、次々と各所で家畜を置き去りにして、早々に退去した。ルシファーの注意を引いたことを確信したフランス共和国陸軍の囮部隊は、ルシファーが囮に食いついたことを無線で司令部に報告した。これが多国籍軍の戦略的撤退の開始の合図であった。

 ところが多すぎる多国籍軍の部隊が一斉に撤退を開始したために、急ぐあまりの事故や過度な渋滞によって時間どおりに撤退が進まない状況であった。

 多国籍軍兵士に焦る気持ちが生まれる中、夜になって、上空にて警戒中のヘリコプターから投光する光が、徘徊する別のルシファーの集団をとらえた。暗闇の中に浮かびあがったルシファーは、撤退中の退路に向かって接近していたため、緊急連絡として多国籍軍全体に通報された。

 この通報は正確な情報を伝えていたが、多国籍軍の各部隊に混乱を発生させることになってしまった。撤退を一時見合わせる部隊、計画外の退路を模索する部隊と各自によって臨機応変の対応となり、全体の状況管理ができなくなってしまった。

 日本国の派遣陸上自衛隊の隊長は、多国籍軍の撤退が進んでいないと誤断する結果となった。ルシファーを継続して惹きつけなければ、このまま多国籍軍の多くの兵が逃げ遅れることを承知していたため、派遣陸上自衛隊は現地に急行することになった。

 実際には、発見された新たなルシファーの集団は反転して他の集団と合流しながら家畜に襲い始めたため、続報が少し遅れて各多国籍軍部隊にもたらされていたが、この続報は囮部隊にだけ届かなかったのである。

 派遣陸上自衛隊の隊長が、撤退によって乗り捨てられた多国籍軍の兵員装輪装甲車を使ってもいいかと尋ねた。燃料が片道しか残っていないことを告げられても、「問題ない」とだけ答えた。

 派遣陸上自衛隊が現地に向かう途上、炎があがっているAT105C サクソン装甲兵員輸送車を発見した。戦闘が起きたばかりに違いない。

 周辺では散髪的に銃声の乾いた音も聞こえていた。取り残された生存者がいるのである。ここに繋ぎ止められた家畜は、周囲の状況など知る由もなく、呑気に食事をするだけであり、ルシファーの食いつきが足らないように思えた。

 しかしながら、囮作戦が安全に行動できる時間には限りがある。囮部隊もすみやかに撤退を開始しなければならない。これ以上にここに留まることは、自分たちが撤退するための時間がそれだけ短くなる。それだけではない。友軍が撤退を始めたこの時点で戦闘が始まれば、友軍からの支援を望むべくもなく、孤立無援で全滅すらありえることが予測された。

 派遣陸上自衛隊の隊長は部下を集めて最後の訓示を行った。

「俺は多国籍軍の最後のひとりが撤退するまで、作戦を継続する。ルシファーのさらなる注意を惹きつけることが、人命を救える方法であるからだ。本来の目的を達成することができないままに、任務を終わらせることは極めて残念であるが、どうかみんなで生き残り、輸送艦〈おおすみ〉と合流してくれ。ここでお別れする」

 すると、隊長の決意に気づいた部下たちは、隊長から誰一人として離れようとしなかった。

「隊長ひとりでは、囮になりません。我らは少数の人数ではありますが、 全員で体当たりするくらいの気持ちで、お預けを食らわせれば、極上の囮になりましょう」

 派遣陸上自衛官たちは、覚悟を決めた。これは決してやぶれかぶれでもない。ましてや無駄死でもない。

 「時間合わせ」とだけ言葉が飛んだ。カウントダウンが進む。「いま」自衛官全員が時計の時刻を合わせた。これで、特殊対策までの正確な残り時間がわかることになる。

 隊長は「我レ今ヨリ作戦ノ指揮ヲ執ル」と独断でこの囮作戦の指揮を執ることを多国籍軍司令部に連絡した。そして残った部下に向かって「我らは今より全力を挙げ攻撃に向かう」と宣言し、鬨をあげて激を飛ばした。

 しかし、顔が曇ったうかない顔をした部下を見出すと気配りを見せた。

「貴様には家族がいるだろう。貴様は家族を守れ」

 隊長が厳命すると、他の部下たちもうなずき、戻るように後押しした。

「何かお別れに戴くものはありませんか」と願い出ると、隊長は無言のまま「士魂」と刺繍された帽子を手渡した。「士魂」とは、武士の魂の意味であり、千島列島占守島に攻撃して来たソビエト連邦軍に対して激烈な守備戦を展開した旧大日本帝国陸軍戰車第11聨隊の部隊マークであり、その魂を受け継いだ陸上自衛隊第11旅団第11戦車大隊の非公式部隊愛称である。

 派遣陸上自衛隊はひとりを残して、借り物の兵員装輪装甲車で銃声のする方角に向かった。すぐにルシファー感染者を発見すると、彼らの無謀とも思われる肉薄した攻撃が、ルシファーの注意を惹くことに成功した。しかし、それはルシファーの個体群の一部にしかすぎないため、まだまだ多くのルシファーの注意を惹く必要があった。

 派遣陸上自衛隊は、最大限の効果を生むように、さらに攻撃と移動を巧みに繰り返すことによって、周囲のルシファーを次々と巻き込み、群れと化したルシファーを引き寄せるまでになっていた。危険な行為ゆえに犠牲者が出たが、その戦略的な効果は期待以上な効果をもたらした。

 ルシファーは生き残っていた派遣陸上自衛隊を餌として取り込もうと追いかけ続け、囮の家畜たちに到達した。ルシファーは目の前のごちそうに食らいついた。まるで押し寄せる波のような群れと化していたルシファーは、囮の家畜たちを飲み込み、新たな苗床を生み出そうとしていた。

 このおかげで、多国籍軍の本隊はルシファーに遭遇することなく、個別に撤退が進むのである。多くの多国籍軍兵士が、特殊対策の想定被害域から逃れることができたのである。

 しかしながら、この派遣陸上自衛隊は、装輪装甲車の燃料が切れ、進退いずれも不可能となり、絶対的に不利な状況となっていた。時間的にも、いつ特殊対策が実施されてもおかしくはなかった。

「皆が一生懸命努力したけれども、このとおり何人かの仲間もやられてしまった」

 隊長は、救助がくるまで装輪装甲車の中に立て篭もるよう部下に最後の命令を下した。部下の自衛官たちは当然、隊長もいっしょに立て篭もるものと思っていたが、隊長はルーアンの街の奥に向かって歩いて行った。隊長の意志は強固なものであった。もはや思い止まらせることは不可能と察した部下は、作戦中に戦死した部下との約束である「後から行く」を守ろうとしていることを理解していたのである。

 その後、派遣陸上自衛隊の自衛官たちは、ルーアンから出てくることはなかった。さらに、最後に分かれた唯一の生存者も、ブロセリアンドの森に留まり、トゥーロンに向かうこともなかった。


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