フランス共和国大統領官邸エリゼ宮殿
ルーアンに集結した多国籍軍はドラゴンの包囲殲滅戦のために集結した戦力であったが、いまやルシファーとドラゴンの両方に対して、パリを守るための前哨戦となっていた。しかしながら、ルーアンにおける損害の大きさから、もはや時間稼ぎが精いっぱいであり、いずれパリすらも感染あるいは戦火から逃れることは不可能とフランス軍指揮官によって早々に判断されていた。その情報はフランス共和国国防省にも伝わる結果となり、事態収拾が極めて困難である実情がフランス共和国大統領にも報告された。
本当の脅威は、ドラゴンなどの大型爬虫類のような来攻生物ではなく、真正粘菌ルシファーのほうであった。なぜなら確実に死に至るこの寄生菌は、人類が今まで体験した様々な微生物と全く異なり、寄生した人間を操り、積極的な接触や捕捉による感染活動を行うからである。それはまるで死者の軍隊であった。
死者の軍隊とは言っても映画に出てくるようなゾンビではなく、人間の本質である意識が破壊され、認知能力や思考力はそのままに寄生菌の繁殖や拡大のための挙動を行う半死体である。寄生菌が無意識に代わって身体を操り、身体を道具として自らの増殖のために利用する。そうやって、その寄生菌は周囲の健康な人間にも忍び寄り、新たに寄生するのである。この繰り返しによって、寄生菌は爆発的に増殖していくのである。
その正体は未だ解明されていない部分が多く、病原性微生物というよりも、寄生性微生物というべき性質であり、航空機などの輸送機関の発達により世界的規模な感染拡大の恐れがあった。これは人類が真正粘菌ルシファーの感染拡大を抑え込むのが困難であることを意味していた。パンデミックの発生である。近代兵器はルシファーには効果が少なく、特効薬が無いミクロの敵の侵入は、人類にとって対処が困難な敵であった。このため、ドラゴンのような敵性来攻生物の殲滅よりも、ルシファーの封じ込みが最優先事項とされた。
しかしながら、フランス北部のノルマンディー地方圏に集結していた他国籍軍は、すでに拡大した感染域内に取り込まれており、生物兵器に対する防護装備が想定外であったため、感染者や死亡者、あるいは、行方不明者の数が著しい事態になっていた。頼みの綱である多国籍軍が、感染の拡大によって機能不全に近い被害となっており、軍事作戦に影響を与えているのである。
ワーテルローラインの戦いにおける勝敗の真実は、十分に訓練された近代的な軍がドラゴンに負けたのではなく、ルシファーの存在が裏にあったと考えられるようになっていた。続くルーアンの戦いでも、同じ結果の繰り返しが予想された。多国籍軍のほとんどは、感染の拡大防止に動員できる戦力ではなく、逆に寄生を拡大する感染源になっている。
脅威が認識される前ではあったにせよ、ワーテルローラインの戦い、ルーアンの戦いの結果から、十分に訓練された組織でさえも、ルシファーに対処することが非常に困難であり、かつ、危険であることが証明されていた。脅威が認識された今であっても、ルシファーを一掃し、あるいは、封じ込めて人類に近づかないように隔離できるかというと、フランス共和国軍を含む世界のいかなる軍であっても、現在のところ不可能としか言いようが無かった。
歴史は証言している。インカ帝国やアステカ王国は、なぜ、全人口とは比べものにならないほどの少人数であったスペイン人の手で滅ぼされてしまったのか? 天然痘、はしか、風疹など、それまでメソアメリカ文明圏には存在しなかった病気がスペイン人たちによって持ち込まれたために、軍人や貴族を含めて多くのメシカ人が命を落としたのが原因であるとされている。クィトラワク王が病死するなどしており、状況はかなり深刻化していたのである。疫病の種類は違うが、同じことが、ここでも起きようとしている。
ルシファーの感染拡大を止めることができないのであれば、感染は首都パリにまで拡大し、ルシファーによる寄生者は計り知れないほどの人数になると分析が出ていた。その後の感染域の拡大する速さは、さらに加速度的に早くなり、地球全体に広がっていくと分析されていた。今後の人類の生存は生易しいものではないという分析である。
フランス大統領官邸エリゼ宮殿では、大統領がルーアンの惨状の報告を聞き、茫然自失となっていた。ワーテルローラインの敗退、ダンケルクの撤退、ルーアンの感染、次第にパリ近郊へと危険が迫ってくる事実を目前に控え、首都パリ近郊の防衛準備を進めなければならなかった。パリの民間人だけでも死傷者が約200万人に達すると分析された。首都パリに接近する敵に対し、フランス共和国軍の全戦力を持ってしても、時間稼ぎにさえならないことはわかっていた。しかしながら、頼みの多国籍軍は風前の灯であり、壊滅の危機に瀕していた。
このままで負ける。早急な対応が必要であり、感染拡大の対応に、なにふりを構っている余裕のない様相を呈していた。劇薬や消毒などの方法で撃退できるような相手ではない。未だかつて自分の家ですらカビを駆逐することに成功していないのが実情である。かといって、約200万人を疎開させるのは現実的とは思えなかった。根本的な対策、あるいは、新たな対策を実行するためにも時間稼ぎが必要であった。
ルシファーの首都パリ侵入を完全に阻止し続けるには、首都パリ一帯は巨大過ぎるのである。もう少し小さな都市であれば、侵入経路が限定されていれば、可能性はあるかもしれないのであるが……
「もはや一刻の猶予もない。痛みを伴わない方法を模索していては手遅れになる」
係る事態に、大統領は盟友のフランソワ・オードランを副大統領に指名した。しかし、オードランは高齢を理由に辞退を申し出た。
「そう申すであろうことは分かっていた。しかし、この危急の時に際して、もう他に人はいないのだ。どうか承知してもらいたい。頼む」
大統領にここまで頼むとまで言われては辞退に固辞するわけにもいかず、フランソワ・オードランは最後の御奉仕をすることを決心した。
これを受けて、フランス大統領官邸エリゼ宮殿で大統領側近と統合参謀総長による緊急閣議が開かれることとなった。大統領は「ここで決着をつけるべきである」と宣言したものの名案が出るはずもなく、核兵器使用の選択肢も検討されたが、任命されたばかりのオードラン副大統領の反対により、議論は意見が割れて、決着はつかなかった。大統領の盟友であったフランソワ・オードラン副大統領は、就任した直後であったが、初めて大統領に反旗を翻し、核兵器の使用を不服として、政府機関とパリ市民の全面疎開という代案をあげたからである。統合参謀総長も副大統領の意見に賛同し、長時間の議論にもかかわらず、やはり決着はつかなかった。
大統領は、緊急事態にも関わらず、決着のつかない事態に、独り言をつぶやいた。
「わしが命がけでやるしかないのか?」
立ち上がり1つの提案を提示した。
「すでに長時間にわたって議論を尽くして参りましたが、結論を得るに至りません。しかし、事は極めて重大であり、かつ一刻の猶予も許されない状態であります。前例も無く、はなはだ畏れ多い極みでございますが、この際、サン=ドニ大聖堂に眠る歴代のフランス王に報告した上で、思し召しをうかがい、決定と致したいと存じます」
大統領は、伝家の宝刀をここ一番で抜いた。かつてない国体の危機に瀕して、混乱を恐れた大統領は、事態を収拾するため、「サン=ドニ大聖堂に眠る歴代のフランス王に報告した上で決断する」と宣言したのである。フランスでは、重大な決定は「サン=ドニ大聖堂に眠る歴代のフランス王に報告した上で決断する」ことが慣習化されていたからである。
大統領はサン=ドニ大聖堂を訪問すると、歴代の王の前にひざまずき、「パリを護る」という一点について聖断を仰いでいた。
「大統領はこの私であります。国難ともいうべき忌まわしき生き物から、国民を護り、国家を維持する一切の責務は、この私にあります。これから、私はより多くの生命を護る戦いのために、禁句を犯さなければなりません。この護るための戦いは、私の命令において、すべてが行われます限り、また私はフランスの名においてなされるすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても、直接に責任を負います。私の命令において、すべてが行われました限り、フランスにはただ一人も、歴代の王の教えに背いた者はおりません。禁句を犯した自分自身の運命について、歴代の王の判断が如何様のものであろうとも、それは自分が受ける当然の報いであります。わが身が地獄に堕ちることになっても、また、いかなる苦しみに処されても、いつでも罰を受けるだけの覚悟があります」
大統領は静かに続けた。
「しかしながら、罪なき200万の国民が住む首都はいずれ孤立し、救援の手を望むべくもありません。この忍び難いことも忍ばねばならない状況に、希望を失った国民の姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき歴代の王のご配慮を持ちまして、国民たちの未来に、ご配慮を賜りますように」
ついに聖断が下され、オードラン副大統領の代案は退けられることとなった。
「本当か? 歴代の王も決断したとはな? まぁ、今回の聖断で歴代の王が失うものなどないからな」
オードラン副大統領は皮肉まじりに揶揄した。
「築いてきた名誉がある。もっとも代えがたいものだ。だが、勇気があるのは歴代の王だけではない」
国防大臣は、自国の大統領を間接的に支持した。
「盟友として、英断したことは確かに尊敬に値する。今は決断し、動くべき時だからである。しかし、わかっているだろうが、この件で本当に傷つくのは当の兵士たちだ。国民自身なのだ」
オードラン副大統領は、国のために敢えて反対しているのである。国民があってからこそ、国があるのである。
「副大統領閣下も国のために信ずる考えを提案したことは勇敢だと思う。でも、大統領は、想像もしていなかった立場に置かれているのだ。しかも人の命に直結する問題なのだ。誰も好き好んで、そんな決断をしたりしないだろう。大統領は選ばれた時から、建国の理念である自由・平等・博愛の意味を最も理解し、尊重することを誓っている。国の緊急事態に重要な決断を行うのは、大統領の責務だ。時には、非情な判断もしなければならないことがあることは、大統領自身で分かっていたはずだ。彼はこの決断で、より多くの命を救うことが出来ると信じ、人生そのもののである国の将来を賭けたのだ。それこそ勇敢だと思う」
オードラン副大統領は大統領との交流が長く、大統領が今回の問題にどれほどに腹をくくって決断を下したのか、国防大臣に改めて言われるまでもなく察していた。
「私は半世紀以上を国に仕えることでフランスとともに生きて来た。その年数はどの議員の年数よりも長い。だから、築いてきたものの話は結構だ。この国は、そもそも大統領のものではない。国民のためのものだよ。大統領はより多くの国民を守るのが務めなのだ。そう思っていない人は、閣僚でいる必要はない。そのことは、この場の全員が承知してくれていると信じている」
緊急閣議の議論は尽くされた。
「この決断で、次の対策のための時間が稼げるのは確かなのだな」
大統領は国防大臣に確認した。
「100%」
今は動く時なのである。言葉を濁しては大統領の決断がゆらぎかねない。国防大臣は簡潔に答えた。ルシファーの効率の良い狩場に集まってくる習性が、この決断に功を奏しているのである。
「それならば、聖断のとおりに実行する」
大統領には大統領の責任があり、少数のためではなく、大勢のことを考えなければならない。多くの国民を守るという職務を果たすことが正義であるという信念にかわらなかった。
しかしながら、ルーアンの多国籍軍の生存者は、未だ戦っており、核兵器の使用は多国籍軍にも多くの犠牲が予想された。もともと、核兵器は敵対国へ警告のために投入されることが想定であり、攻撃を仕掛けた場合にどのような惨事が待ち受けているのかを知らしめ、攻撃を仕掛ける前の段階で敵対国に行動を思いとどめさせるためのものであった。
自国の友軍を含む多国籍軍の兵士が未だに残る場所に対して核兵器を使用することに、フランス共和国軍総司令部では核兵器の使用を撤回させるため、国防大臣に直訴することとなった。国防大臣は、大統領命令が出ない限り中止はできないと国防省ブリエンヌ館に閉じ籠ってしまった。
フランス共和国軍総司令部は、国防大臣の行為に「時間稼ぎ」とみなし、フランス共和国大統領官邸エリゼ宮殿内の電話線を切り、フランス共和国国家憲兵隊の指揮官にフランス共和国国家憲兵総局の命令が下ったように見せかけて、大統領の拘束のため宮殿内の制圧を呼びかけた。一時は首相の監禁に成功するが、フランス共和国国家憲兵隊所属フランス共和国親衛隊のアルテア・アルテミス衛兵に早々に看破され、鎮圧されてしまった。
以後のいかなる調整も、核兵器の使用を決定するための単なる通過儀式となっていた。この事態に、一部の議員も核兵器使用の停止を求めた連名の文書を手に、大統領に再考を求める動きが出てきていた。
この結果を受けて、最大限の譲歩として、予定爆心地からの友軍の退去を勧告し、可能な限りの命を救うことには同意させることに成功した。それであっても、全員の退去を確認するのは時間の制約上により不可能であり、多くの犠牲者がでることにはかわりはなかった。
これらの事態に、高齢で体調を崩していたオードラン副大統領は、核兵器の使用に同意できないことを意思表示するため、ワーテルローラインの戦役で帰らぬ息子の写真を見ながら、エリゼ宮殿を一人去ることになった。しかし、その手には国際連合の秘密計画の書類とともに大統領の手紙があった。大統領はオードラン副大統領の心が核兵器の反対にあることは初めから知っていて、パリを去るように仕向けたのである。それは、国際連合主導するもうひとつのフランスの将来の可能性を見届けて欲しかったからである。
そして、反乱の鎮圧に貢献したフランス共和国親衛隊のアルテア・アルテミス衛兵は、任務のためとはいえ、自分の行動によって友軍の頭上で核兵器が使用される事態を後押しすることになった事実を知ることとなった。
フランス共和国大統領官邸エリゼ宮殿の衛兵はエリートのみが許される憧れの職種である。にもかかわらず、衛兵の除隊を申し出てた。彼女は物悲しそうな表情を浮かべ、除隊した理由を誰にも告げることなく、首都パリを去っていった。




