フランス北部オー=ド=フランス地域圏カレー近郊
交通信号機さえも灯が消え、誰も通らなくなった道路とはいえ、進むも止まるも信号が指示されないのは、これからのセリア・ケイの逃避行を暗示しているかのようであった。
カレーの英仏海峡トンネルでは、彼女の機転のおかげで、フランス共和国陸軍部隊ともどもルシファーの餌食になることから逃れることができたものの、ダンケルクもカレーも単に逃げのびただけであった。
当面の目標は、パリへ向かうために、フランス共和国陸軍海兵隊が駐屯するブーローニュ=シュル=メールまで歩かなければならなかった。英仏海峡トンネルにいたフランス共和国陸軍部隊は救助活動を続けるため、現場を離れることができなかったため、彼女は自力で避難しなければならなかった。
まずはカレーの街に入ると、玄関に大きく×印が書かれた家があることに気づいた。その意味することは容易に想像できたので、住民が残してくれた危険なサインを避けながら、必要な食料や飲料水を探したが、やはりなにも見つけることができなかった。すでに街は略奪や避難により、なにもかも持ち去られたあとであったからである。ただ単に貴重な時間と体力だけが失われただけだった。
どうしたものかと考えていると、茂みから鳥が一斉にとびたった。動けずに硬直していると、茂みの中から落ち葉を踏みしめる音が聞こえてきた。
「誰かいるの?」
呼びかけても返答はなかった。気のせいでは決してない。何かがいるのは確かなのである。重たいものが地面を踏みつける足音が次第に近づくとともに、森の木々が倒されていく音が聞こえた。おもわず身を隠し、遠ざかるのを待ち続ける。
ドラゴン以外にも危険な敵性来攻生物が周囲に潜んでいる可能性がある。人間の暴徒や略奪者も、それ以上に恐ろしい。
ケイは道路上に放置されている車の影から影へとなるべく目立たないように移動した。すぐそこになにが潜んでいるかわからないからである。数メートル先をじっくり見定めて安全を確認しながら移動を続けるのは精神的にきつかった。
移動距離をほとんど稼いでいないにもかかわらず、再び夜になろうとしていた。南の夜空が赤く染まっていた。昨日のように、他の街が燃えているのであろう。
やがて雷とは似ているが、雷とは違った大きな音が空に響いた。その音はあちらこちらに反響するかのように空全体を揺さぶり、まるで天と地を駆け巡っているかのようであった。その音の正体はわかりきっていった。戦闘が行われているのである。ドラゴンの拡大の勢いは、もはやとどまるところを知らなかった。
セリア・ケイは無理に先を急ぐよりも、闇に包まれる前に安全な場所を見つけ、そこで一晩を過ごすことを目指した。一刻も早くブーローニュ=シュル=メールにたどり着き、安全な場所でゆっくりと心身を休めたかったが、無理な移動は危険が大き過ぎた。焦る気持ちを抑えるしかなかった。
住人が逃げ出した後の夜のカレー市内は、暗闇に浮かぶ家々は明かりから見放され、物陰の多い不気味な場所と化していた。誰もいなくなった夜の街に、風が吹き抜けると、木々の葉がこすれあう音が聞こえて来た。それほど、音がなく、静かなのである。そして、夜にもかかわらずカラスの鳴き声が聞こえてきた。
不気味な音が夜通し聞こえていた。なにものかがガラスを割る音も聞こえてきた。ルシファーが獲物を探しているのか、人間が建物を荒らしているのか、あるいは全く別なことが起きているのか、まったくわからなかった。確かめる気もさえもなかった。近づいてこないことを祈るだけである。
まるで、どこかのジャングルの奥にひとりでいるような心細さだった。ここが本当にフランスなのだろうかというくらいに信じられなかった。とてもではないが、ぐっすり眠ることはできなかった。
待ちに待った朝がくると、不気味な声は聞こえなくなり、静けさが戻っていた。誰もいない街の静寂は不気味ではあるが、当面は安全のように思えた。このため、いよいよブーローニュ=シュル=メールに向かって行動を起こすことにした。
カレーの街を出ると見慣れない国籍マークをつけた回転翼の航空機が低空のまま旋回し続けているのが見えた。その航空機はなにをするのでもなく、ひたすらあたりを旋回を続けているようであった。
今までも回転翼の航空機、すなわち、ヘリコプターは何度か見かけたが、救助活動のために飛んでいるわけではないことを承知していた。だから助けてもらえるとは思えなかった。そもそも避難している人が多すぎて、救助しきれないのが実情であろうということは彼女にもわかっていた。
救助を望めないにしても、ヘリコプターが旋回するあたりなら比較的に安全かもしれないと考えた。逼迫した危険が迫る事態になれば、さすがに助けてくれるに違いないと思ったからである。ひょっとしたら、姿を見せれば助けてもらえるかもしれないと心の底で、少しは期待していたのかもしれない。
周囲に危険なものがないか細心の気を配りながらも、特に隠れることもなく、普通に歩いた。ヘリコプターはケイの頭上にさしかかると彼女は期待のあまりドキドキしてしまったが、予想どおりそのまま通り過ぎていった。
国籍マークは日の丸であり、日本国所有の機体であるが、ケイは東洋の国には詳しくなかったので外国の軍隊の機体であることがわかった程度であった。やはり軍事行動が目的で、救助目的ではないと諦めるしかなかった。ドラゴン包囲殲滅戦のために各国の軍が集結することを聞いていたので、そのために飛行しているにすぎないのであろう。やはり多くの避難民たちが危険な状態である以上、自分だけが特別なわけはなく、安全なところまで自力で逃げるしかなかった。
しかしながら、そのヘリコプターは突然に旋回を止め、すぐに反転して戻ってきたのである。ケイは思わず立ち止まって、成り行きを見守った。その機体は日本の海上自衛隊の輸送艦〈おおすみ〉の艦載ヘリコプターSH-60Jであった。
ヘリコプターSH-60Jは、ケイの近くまで戻ってくると、なかば強引に高度を下げ、ホバーリング状態となった。彼女は自分に用があるのかと、やっと理解しかけていた。
「セリア・ケイさんですね」
スピーカーのようなもので話しかけてきた。ヘリコプターSH-60Jのターボシャフトエンジン音が煩かったが、オランダ語であれば十分に聞き取れた。
「そうです」
セリア・ケイは声が届くとは思わなかったので、相槌で答えた。
「迎えにきました。覚えていますか? ダンケルクまでいっしょにいた和田継矢です。国際連合所属機関である敵性来攻生物対策委員会から日本国政府経由で、あなたを迎えに行くように依頼が出ています。カレーの英仏海峡トンネルで行われた戦闘に関して、貴重な情報の提供により、初めて勝利できたことが評価され、さらに詳しい話を聞きたいようです。同行してもらえますか?」
正直な話、情報がどうのこうのということに興味はなかったが、ヘリコプターに拾ってもらえるなら、歓迎だった。おそらくパリにでも降ろしてもらえるだろう程度にしか考えていなかった。
「わかりました」
セリア・ケイは再び相槌で答えた。
するとヘリコプターSH-60Jは、着陸できそうな場所を近くに見つけると、着陸態勢に入った。自分にヘリコプターが迎えにくるなどまるで映画や小説のワンシーンを演じる俳優になったような気分だった。
ヘリコプターSH-60Jの扉が開くと、和田継矢が出迎えてくれた。ダンケルクで離れ離れになって以来の再開である。別に親しい間柄ではなかったが、最終的に彼がいたおかげで自分が危機を脱出することができたことを思い出した。これで二度も助けられたことになる。感謝の気持ちが高まった。
「生きていてくれて、ありがとう。二度と置いていかないわ」
一度目についても礼をきちんと言いそびれていただけに、ケイは感謝の言葉とともに、和田継矢にハグして感謝を伝えようとした。すると、彼はさっとあとずさりしたために、ハグする機会を失ってしまった。ケイがあとで知ったことによると、ハグする習慣がない日本人であったため、照れていたようである。
セリア・ケイは事情を知らないので、その行動になんかひっかかるものがあったが、ヘリコプターSH-60Jに乗り込み、久しぶりに落ち着くことができた。食事も十分にできていないであろうと、おにぎりや日本茶を用意してあったのである。おにぎりも日本茶も初めてであったため、最初は黒い海苔が食べ物とは知らずに苦戦してしまった。海苔も食べられることを教えてもらうと、空腹も手伝って夢中で食べた。とてもおいしかった。これが日本のおもてなしなのかと妙に感心してしまった。この経験が知らず知らずのうちに今後の彼女が日本びいきにしてしまうのである。
離陸したヘリコプターSH-60Jの中で、彼女はさまざまな説明を聞いた。まず、ヘリコプターSH-60Jの目的地は、北海を航行中の日本国の海上自衛隊の輸送艦〈おおすみ〉であること。〈おおすみ〉はドラゴン包囲殲滅戦に参加する軍事車両を輸送するため欧州に派遣されていること、〈おおすみ〉の陸揚げ港は、当初の予定であったル・アーヴルから地中海沿岸のトゥーロンに変更となっていることなどである。
また、世界情勢についても教えてもらった。イギリスは英仏海峡でドラゴンの侵入の阻止に成功し積極的に避難民を受け入れていること、フランス共和国は戦力をルーアンに集結するように全世界に呼び掛けていること、それを受けて各国の軍隊がノルマンディー地域圏などに上陸してルーアン一帯に合流しつつあることなどである。
フランス共和国軍は総力をあげてルーアンに集結しようとしているのに、自分たちの目的地がなぜトゥーロンなのか、彼女は特に聞いたりはしなかった。勝手に軍事上の理由であると思い込み、そんなことを聞いても答えてもらえないと思ったのである。
おなかがいっぱいになったセリア・ケイは、気づかないうちに少し眠ってしまった。見ず知らずの人の中であるにもかかわらず、なぜかここは安心することができたのである。
目覚めた時は、輸送艦〈おおすみ〉にちょうど着艦しようとしているところだった。輸送艦〈おおすみ〉は全通飛行甲板のドック型輸送揚陸艦であり、上甲板の艦橋構造物より後方のヘリコプターSH-60Jが離着陸する場所以外は、戦車や装甲車のような車両が乗せられているのが見えた。戦車に見えたのは、実は16式機動戦闘車であり、装甲車に見えたのは82式指揮通信車であった。写真でしか見たことがない戦車や装甲車に、まるで戦争小説の中に紛れ込んでしまったようだった。




