フランス共和国大統領官邸エリゼ宮殿
ワーテルローラインの戦いは、ドラゴンを中心とした巨大爬虫類についてのさまざまな情報をもたらした。ドラゴンの弱点が徹底的に分析された結果、戦闘を優位に進めるための対抗策が考え出され、以後の戦いは万全の対策を講じて臨むことができるため、負けるはずがなかった。しかしながら、ルーアンのドラゴン包囲殲滅戦の最新状況がもたらされた時、大統領官邸エリゼ宮殿の国家安全保障会議室に集まった大統領のほか、首相、国防大臣、統合参謀総長、上級将校、高等弁務官、法律顧問などの政府高官たちの表情は冴えなかった。
ルーアンにおける遂行中の作戦の当初の目的は、ベルギー国境の北東部から進入してくるドラゴンなどの巨大爬虫類をフランス北西部のノルマンディー地域圏に誘引し、多国籍軍と協力して巨大爬虫類の脅威を地上から払拭するというものであった。ところが、敵はドラゴンやヴイーヴルのような巨大爬虫類型の敵性来攻生物だけではなかったのである。巨大爬虫類型の敵性来攻生物とともに真正粘菌ルシファーが急速に拡大しているという事実は、軍事作戦の見直しを求められた。
ルシファーの二次感染現場や三次感染現場には菌糸が異常に繁殖していることから、ウイルスのような病原性粒子ではなく、生命活動を伴う菌類と予測された。アムステルダムが放棄される直前に、新種の病原体が確認されていたことは、アメリカ疾病予防管理センターからの通報でわかっていた。オランダ王国の医師団が病原体の出所場所を究明するため、何度もオランダ北部に向かっていたことまでは記録が残っている。しかし、そこで途切れていた。オランダ全域からの避難、続くワーテルローラインの戦いの敗北による混乱で、ルシファーについての情報が完全に失われてしまったのである。
オランダ王国だけではなく、ベルギー王国、ルクセンブルク、さらには、フランス北東部で、ルシファーによる影響と思われる怪奇な病状の報告が見え隠れしている。ワーテルロー、ルーアン、どちらにも感染者が出現し、ドラゴンとの戦争にも多大な影響を及ぼしていたのである。それは今や無視できないほどに広がっていた。
感染地域は都市と都市の最短経路をつなぐように広がり、効率よく拡大し続けているという現実があった。まるで知能を有するように地理の複雑な2点間の経路問題を解き、旧感染地帯から新感染地帯へ広がっていく。今やルーアンに到達し、多国籍軍を飲み込もうとしている。多国籍軍が完全に飲み込まれた場合、次に狙われるのは国内人口最大の密集地である首都パリであることは確実と考えられた。
現在の技術力では、小さな寄生菌を殺すには、消毒や殺菌といった感染拡大を防ぐ対処方しか存在しない。それは従来の大人しい菌の場合には有効であるかもしれない。今回のルシファーの場合、寄生された感染者が生者を襲い感染させるのである。繁殖能力と攻撃能力を兼ね備えた無敵な菌なのである。当然に、大人しく消毒や殺菌されてくれるわけがない。
世界でもっとも危惧されるべき脅威は、巨大爬虫類型の敵性来攻生物ではなく、寄生菌の真正粘菌ルシファーほうであったのである。ここに至って国家安全保障会議室に籠る政府高官たちにも問題の深刻さを認識することとなっていた。しかしながら、国家安全保障会議室に集まった政府高官たちが対策を検討しようにも、ルシファーについて分かっていることはわずかであった。世界を本当に混乱に貶めているこれらの生物に対する情報が圧倒的に不足しているのである。会議は長時間の議論を続けるばかりで、結論を出せないでいた。
夜遅くになって緊急に呼び出されたパスツール研究所所長も会議に加わるが、現物のルシファーを見ていないのであるから、一般的な対処方法とこれから行う検体の分析の段取りを説明するのが精いっぱいであった。
「誰でもいい、すぐに対処方法を考え出せそうな専門家を知らないか? この瞬間にも兵が死んでいるんだぞ」
会議室が沈黙に支配される度に、大統領は同じことを繰り返し言った。政府高官たちはパスツール研究所所長の顔を期待のまなざしで見つめるが、対抗策を提示するにしても、情報が無いのは所長も同じなのである。頭を横に振るしかなかった。
「ゾンビ病の菌こそが危険なのだ。目に見えるドラゴンばかりに気をとられ、足元をすくわれた。せっかく世界中から集めた戦闘機や戦車では菌に対抗できん」
「菌の名前はルシファーです。真正粘菌です。ゾンビではありません。閣下」
ちなみにゾンビ病と呼ばれる既知の病気は存在している。いわゆる狂牛病と同じで、異常タンパク質のプリオンが原因となって発症する病気である。専門家による実験では、サルの一種が発症するなど、ヒトも含む異種間で伝染する危険性がある。専門知識がない一般の人からは、ルシファーによる寄生病もゾンビ病も同じに見えるかもしれないが、脳を破壊するわけではないルシファーによる寄生は全くの別物である。
大統領は、何度も何度も会議室の全員の意見を求め続けた。しかし、戦場から離れた首都パリにいる政府高官の自分たちに良い答えがあるわけがないので、会議室の沈黙がまだまだ続くと誰もが考えていた。ところが、統合参謀総長が恐る恐る進言した。
「閣下、カレーにある英仏海峡トンネル内で発生したルシファーとの戦いの結果をご存知でしょうか?」
「列車が脱線させられたそうだな」
大統領はそっけない口調であった。惨劇の報告なら、もう聞きたくもないのである。
「いえ、その後のことです。ルシファーと遭遇しながらも、撃退に成功している部隊がいるのです」
「本当なのか?」
大統領は関心を示したが、にわかに信じがたかった。実際には酷い結果に関わらず、苦し紛れに戦闘結果を水増しして、虚偽の報告をしているかもしれないのである。
「間違いありません。ルシファーの生態を予測し、一時的に無害化させたとの報告がありました。初めての、いえ唯一の勝利であることに間違いはありません」
人類側の勝利があったことは初耳であった。しかも、無害化させたということが信じがたい響きがあった。もしも本当であるのであれば、なんとしてでも現地の部隊を呼び出し、なにがあったのか至急に聞き出さねばならない。藁にもすがる思いであった。
「その部隊と至急に連絡を取るのだ」
「勝利したのは現場に居合わせた民間人のおかげのようです。民間人に、あの菌について詳しい話を聞くべきかと……」
「民間人? 生物学者なのか?」
「普通の少女だそうですが、オランダから避難してきた際に、多くのことを見て来たようです」
「少女? 子供ではあてにならないでしょう」
統合参謀総長は知っていることを正直に話していたが、国防大臣が時間の無駄だと言わんばかりに、話題を本来の対策検討に戻そうとした。
「君は口出しするな」
大統領は遮った。実は前夜に大統領は夢を見ていたのである。その夢は、シャルル7世がジャンヌ・ダルクの身柄引渡しに介入せず見殺しにした歴史上の出来事であった。夢はまさにこの兆しであるのかもしれない。その少女の身柄を確保することが、その少女から証言を得ることが、この世界にとって最優先とされるという確信に近い直感が働いていた。その直感は異例となる命令が出される後押しとなった。
「近くの部隊に、その民間人を見つけさせろ。最優先だ」
「北部全域は戦いの真っ直中であり、わが軍は戦闘中です。すぐには無理です」
フランス北部全域は、既に戦場と化している。混乱した地域にいる少女に何かが起きる前に、見つけ出さなければならない。信頼できる組織に、今すぐ任務にとりかかってもらう必要があった。
「ならば、信頼できる友好国に依頼しよう。カレー周辺の北海には、友好国の支援の艦艇が来ているはずだ。外国の組織だからといって、面目が潰れるとか、つまらん意識は持つな。今は、そんなことにこだわっている時ではない。今すぐに要請するのだ」
「わかりました。手配します。民間人の特徴を伝え、身柄をパリで保護するようにします」
「待て、その民間人はここパリではなく、もっと安全な場所に連れていこう。パリもすぐに戦場になるかもしれない。国連が提示している別案の候補地がよいだろう」




