フランス北東部オー=ド=フランス地域圏カレー
大陸では敵性来攻生物の進出は留まることを知らず、その姿はフランスの北東部から北部でも見られるようになっていた。それは目に見えない脅威の真正粘菌ルシファーの感染も同様であった。
セリア・ケイはダンケルクの街から離れていた。海岸では今でも避難民たちが船に乗るために待ち続けているのかもしれない。もっとも現実的に考えるのであれば、戻って船を最後まで探したほうがよいのかもしれない。そんな思いはあった。
昨晩の怪物のような生ける屍に襲われた出来事を考えると、どうしても戻る気にはなれなかった。怪物に襲われて誰も残っていないと考えるほうが自然であった。しばらく待ってみたが、ダンケルクの街から脱出してくる避難民はいなかった。顔見知りどころか、誰も来なかったのである。ケイはダンケルクの港周辺が怪物の活動圏内に落ちた事実を受け止めるしかなかった。
しかし、希望はまだある。1994年に開通したばかりのトンネルによって、グレートブリテン島とヨーロッパ大陸間は陸路でつながっている。海峡トンネルであれば、渡れるかもしれない。ケイは、大陸から脱出するために、イギリス海峡トンネルのフランス側入り口であるカレーへ向かうことを考えた。
カレーまでは約47Kmの道のりである。時間はかかるが、歩いていけない距離でもない。今までもアムステルダムからダンケルクまで歩いてきたが、そばには必ず誰かがいっしょにいた。これからはひとりであり、助けは期待できない。すべてのことにひとりで切り抜けなければならないのである。ひとりで向かうにはあまりにも心細かった。さらに大きな問題として、食糧や飲料水が無かった。
泣き言を言っても始まらない。体力が残っているうちに、行動を起こすしかない。彼女は人が消えたフランス北東部の大地をひとりで歩き始めた。
道路に沿って死体が放置されており、死体の臭いがきつかった。ひょっとしたら、死体の中には、食糧か飲料水を残したまま絶命した人がいるかもしれない。しかし、とても死体をあさる気分にはならなかった。
彼女は経験的に、死体の状況に不自然を感じていた。内部に溜まったガスで膨らんでいる死体には、虫が湧いていないのである。彼女の考えは正解であった。死体の内部には、真正粘菌ルシファーの菌糸が詰まっていて、内部で成長を続ける際に発酵が行われて膨らんでしまっていたのである。真正粘菌ルシファーは、死体の肉につられて新たな獲物が接近してくるのを辛抱強く待ち受けていた。
彼女がこれから進まなければならない先は、平和な世界が消え、まるで異世界と化していた。人が消えた街には野生の動物が現れるようになり、真正粘菌ルシファーに感染して生ける屍と化した兎が、健康な猪を襲っていた。猪は草食動物である兎が執拗に攻撃してくることに当惑するが、生ける屍と化した兎は情け容赦なく猪の命を奪い、自分の糧としてしまった。まさしく自然の理が崩壊していた。
街の至る所では、道路を塞ぐように放置された自動車などがあり、まるで何者かに襲われないようにバリケードとして置かれたのかもしれなかった。いずれにしても、誰も残っていないということは、それは役には立たなかったに違いない。
カレーに向かってさらに進むと、あちらこちらに目立つように菌糸が張り巡らされた苗床を見かけるようになった。もはや隠れることもなく待ち伏せして、獲物を絡めとろうと罠をしかける菌糸は、飲料水が手に入りそうな水場には、必ずと言っていいほどに潜んでいた。




