英仏海峡トンネル
英仏海峡トンネルの入り口は、大陸側ではフランス北部のカレーの街にある。英仏海峡トンネルの入り口には未だに大陸から脱出ができない避難民の一部が残っていた。英仏海峡トンネルを通過する高速鉄道は既に動いているはずもなく、その事実を知った大勢の避難民は、ここまで来て立ち往生途方に悲嘆して座り込むもの、危険を承知でドンネルを抜けようとするものと分かれていた。
トンネルの入り口に通じる道路付近には、多くの車が乗り捨てられており、トンネルに電力を供給する変電所の壁には、安否をつたえるメモがびっしり残されていた。トンネル内に入る際に、はぐれた家族や友人たちに残していったメモである。既に多くの避難民が英仏海峡を横断しようと徒歩でトンネル内に入っているようである。
トンネルの入り口にはフランス共和国陸軍の兵隊が見えた。英仏海峡トンネルを通過中の列車が消息を断ち、救出捜索のために派遣されていたのである。フランス共和国陸軍はトンネル内が危険であると判断していたが、避難民の数が多すぎたため、次々と中に入っていく避難民たちを思いとどませることができないでいた。
セリア・ケイは、英仏海峡トンネルの入り口で、ネズミたちが、奥に入り込むのを見かけた。列車が消息を絶ったのであれば、内部で大きな事故が発生しているはずであり、最悪の場合にはトンネルの奥が崩落によって塞がれているのかもしれない。しかし、大陸から逃げるためには、たとえ危険であっても、英仏海峡トンネルの中を進むしかない。それも、できるだけ他の避難民といっしょに進むほうが安全と思われた。
彼女は決心した。ある避難民のグループが入っていくのを見かけると、離されないように急いで続いた。この時の彼女は、対岸のグレートブリテン島のフォークストンの出口まで英仏海峡トンネルの距離が40KMあることを知らなかったのである。
英仏海峡トンネルは、鉄道用海底トンネルであり、海底中央部分で交差する直径7.6Mのレールトンネル(鉄道トンネル)2本と、その真中にある4.8Mのサービストンネルの3本のトンネルから成り、3本のトンネルをつなぐ連絡通路が各所に設けられている。
英仏海峡トンネル内は停電により、非常灯も含む全ての照明が消えてしまっていた。トンネルの入り口から差し込む光に、少し先はトンネル内の状況が把握できていたが、その先は文字通りの闇なのである。これではトンネルの奥の状況が外からわかるはずもない。
トンネル内に設置されていた非情用の懐中電燈は、持ち去られていた。しかし、懐中電灯を探しに戻ることも躊躇された。直前に入ったグループは、懐中電灯を入手しているようであり、サービストンネルの奥に小さな明かりが動いているのが見て取れた。小さな明かりといえども、あるとないとでは、光の全く差し込まない暗闇の中では全然に勝手が違う。このまま悩んでいても、他の避難民たちは先へ進んでしまい、置いていかれることになる。それはこの暗闇の中では、避けたかった。
入り口からの明かりも届かなくなるほど奥に進むと、あたりは暗闇となり、足元すら見えない状況に歩くことすら非情に困難であった。ケイは、今になって奥に進むことを躊躇した。幸いなことに、サービストンネル内部は単調は造りになっていて、道に迷うこともなく、また障害物もないため、無理をすれば進めないこともないように思えた。
決心がつかないまま進んでいると、幸運にも前方の明かりが見えていた。その明かりは一方向を照らしたまま全く動かず、どうやら置かれているように思えた。近づくと、落ちていた懐中電灯であることがわかった。しかし、周囲には落とし主どころか誰もいなかった。ただ、壁面がなにかの分泌物のような液体で濡れているように見えた。
この暗闇の中で懐中電灯を落としても気づかないということが不可解ではあったが、彼女は懐中電灯を借りることにした。おそらく、落とし主は先を進んでいるはずなので、追いついた時に返せばいいと思った。
先に進むと、さらに別の懐中電灯が落ちていた。奥にはもっと多くの懐中電灯が見えていた。これらの持ち主は、いったいどうしてしまったというのか? こんなおかしな状況は、嫌な予感しかしてこなかった。考えられることは、ただひとつ。ダンケルクの夜の再来が頭をよぎった。
自分の気持ちを騙して、必死に恐怖心から落ち着かせようとしていると、間の悪いことにトンネルの奥から不気味な咆哮が聞こえて来た。なにかが、前方の奥にいる。避難民であれば問題はないが、とても人間の出す声ではなかった。
彼女は懐中電灯を抱きかかえるように強く握りしめて、周囲を見回した。とりあえず周囲にはなにもいないようである。少しずつ、後ずさりした。背中を見せた途端に、なにかが襲ってくるような気がした。
彼女が後ずさりするたびに、懐中電灯の明かりもいっしょに動いていることにきづいた。暗闇の中で動く懐中電灯の光は、自分の存在をなにものかに教えてしまっているも同然である。慌てて懐中電灯の電源をOFFにした。
地面に落ちている懐中電灯によって暗闇にはならなかったが、サービストンネルに沿って点々と落ちている光の先に、懐中電灯のような小さなものではなく、明らかに設置式の大型照明のような明かりが見えていることに気づいた。
そこに誰かいると直感した。列車の消息を探しに来たフランス共和国軍陸軍の兵隊かもしれなかった。今まで進んできた距離を戻らなければならないのであれば、その明るい場所は近いので、こちらに向かったほうが安全に思えた。
彼女はできるだけ何も考えないようにして、大型照明の場所を目指すこととした。恐る恐る進んでいくと、ネズミたちが、慌てて奥に逃げていくのが見えた。そこはカビのような菌糸が、サービストンネルの壁一帯に貼りついていた。菌糸が発光しているのである。大型照明ではなかったのである。これは人間をおびき寄せる罠だった。
カビのような臭いがサービストンネル内部に充満していた。なにかが暗闇に紛れて、そばで気配を消して潜んでいる。子供の頃に、そんな怖い思いをしたことが一度や二度はあると思う。今がその時であった。普通であれば、それは単なる思い過ごしであるが、今の世界では違う。本当になにかが潜んでいるかもしれないのである。
気が付くとネズミの集団が、夜行生物のように目を光らせ、セリア・ケイを見つめていた。ネズミの数は、さきほど逃げていったネズミの数よりも増えていた。
サービストンネルの奥から、再びこの世のものとは思えない叫び声が聞こえた。ネズミの行動は早かった。なにかに怯えるようにケイの隣をとおりすぎて、一目散に出口側に向かって逃げて行った。その必死な様子に彼女にも恐怖が伝染し、ついに出口に向かって走り出した。懐中電灯の灯りだけが頼りなので、何度も転びそうになりながらも、待ち受けるなにかの危険から必死に逃げようとした。すると、レールトンネルとつながる連絡通路を見つけたので、危険なものをやり過ごせるかもしれないと思い、迷うことなく飛び込んだ。
しかし、連絡通路の先には、さらにおぞましい光景が広がっていた。停車している高速列車が見えていたが、カビのような菌糸でびっしりと覆われているのである。菌糸がトンネル内の壁にびっしりと生えており、まるで菌糸が造るトンネルの中にいるような様相となっていた。それはまるで、高速列車がカビの菌糸にひっかかって停車してしまったかのように見えていた。消息を絶った高速列車に違いないが、今やここはさながら菌糸の苗床と化していた。高速列車の乗客を食べつくした菌糸は、死体を苗床として菌糸を広げているのである。
高速列車の車内には明かりがなく、乗客と思われる人たちが倒れているのが見えた。生きている気配は全く感じられなく、その足元には菌糸が絡みついていた。まるで菌糸に絡まって身動きが取れなくなったようにも見えた。
さらに菌糸の中に埋もれたネズミの死骸が横たわっているのも見えた。そのそばには、手足を怪我をしているのか、這うように動くネズミも見えていた。でも、それはただのネズミの死骸ではなかった。ネズミの本来の小さな目とは異なった大きな目玉が腹部にできており、じっとあたりをうかがっていた。今までの常識では、そんなことがありえるわけがなかった。
ケイは、不吉な予感を感じた。ダンケルクの夜と同じことが、ここでも起きている。異常な世界から逃げるつもりが、自分から飛び込んでしまったことに気づいた。
高速列車の中から人の声が聞こえてきた。「助けて、助けて、痛い、痛い」という言葉が絞り出すように繰り返されていた。
「今、助けるわ」
彼女は助けを求める声に躊躇なく答えた。誰しもが取る当然の行動である。前に進み出ようとすると、いきなり横から腕をつかまれ、口を押えられた。突然のことに全く対処ができなかった。
フランス共和国陸軍の軍服に身を包んだ大柄な兵隊が、人差し指を口にの前に立てて「シー」と言っていた。そして、物陰に身を隠すように無理やり移動させられると、兵隊は声のする方向を指さした。よく見ろということであろう。
暗くてよく見えないが、倒れている人間に不自然な目玉が現れ、きょろきょろとあたりをうかがっていた。その人間は探し物が見つからなかったのか目を閉じて、再び「助けて、助けて、痛い、痛い」と言葉を絞り出していた。今考えると、不自然な発音で繰り返される言葉には、まるで感情がこもっていなかった。痛みに苦しむ時の切羽詰まった口調は全くなかったのである。
状況を理解できたと考えた大柄な兵隊は、ケイの口と腕から手を放し、自由にした。
「あれはなんなの?」
セリア・ケイは、ダンケルクで襲ってきた怪物を思い出していた。
「あれはルシファーと呼ばれている。動物に寄生する粘菌のようなやつだ。一度寄生された人間は、あのように身体が弄られて怪物となる」
腕を掴んだ大柄な兵隊以外にも、数名の兵隊がいるのが見えた。彼ら全員は体格が大きく、鍛えられた体であることが軍服の上からでもわかった。その屈強な彼らが、非常に警戒していた。決して臆病ということではなく、警戒しても警戒が足りない、そういうものが相手であることを承知しているようであった。
「あれはダンケルクにもいたわ」
それは単に事実を告げているだけであったが、彼女自身もルシファーが危険なものであることを知っていることを相手に伝えるには十分であった。
「フランス共和国陸軍の軍曹のマールス・グラディウスだ。我々の小隊は英仏海峡トンネル内で連絡をたった高速列車の捜索のために派遣されてきたのだが、部下があいつらにやられた」
「私はセリア・ケイ。ひとことで言うと、イギリスに向かう避難民のひとりね」
「それならば他の道を探せ。このトンネルは地獄にしか通じていない」
「どうやら、そのようね」
「もっとも、今となっては、出るのも難しいようだ」
グラディウス軍曹は、先ほどとは別の方向の少し先を指さした。その方角にはグラディウス軍曹と同じ軍服の兵隊が倒れていた。彼は防毒マスクと化学防護服を着用していたが、大きく破れていた。謎の多い菌の感染から守るために用意されていたのであろうが、感染方法についてまったくの誤解があり、実際には役に立たなかったようである。空気感染などのような生易しいものではなく、寄生した身体や仮捕捉手によって、物理的な攻撃をしてくるのである。化学防護服など簡単に突き破って、中の人間の身体に寄生してしまう。
グラディウス軍曹が言うように、あのルシファーがあの場所に留まる限り、入ってきた道に戻ることもできない袋小路状態であり、ここを動くのは危険に思えた。ここから脱出することさえ難しい場所へ入り込んでしまったのである。
ルシファーによって不自然な部位に造られた目玉が、至る所に放置されている人間やネズミの死体に現れていた。とにかく今は身を隠して、脱出のチャンスができるのを待つしかなかった。
ケイは脱出のチャンスをうかがっている間、物陰からルシファーに寄生されたばかりの人間の様子をじっと観察していた。それはルシファーに寄生された者の成長の過程ともいうべき姿であった。
損傷の少ない四肢を持つ死骸があると、引きずって他の死骸と融合させ、今までと異なった身体の構成になる。それは、でたらめな工作であり、決して進化の過程で研ぎ澄まされた洗練な身体の構成ではない。
でたらめな身体では、最初はまともに動くこともできずに、寝返りを繰り返すだけであるが、次第にずりばいやお座りする程度の姿勢を覚える。支えがなくても座っていることができるようになると、体をねじらせたり、方向を変えたり、さまざまな動作を試し始める。そのうちに背筋を直立するように上半身を立てることができるようになると、視界がぐんと広がるためか自分のまわりの世界を興味津々と眺め始めていた。
そして興味のあるものを発見すると、成長速度が非常に速くなった。ハイハイなどのいろいろな方法で前へと進む方法を試し始めるようになった。どの方法も動きが遅いので満足せず、脚で立ち上がることに挑戦を始め、立ち上がろうとしては失敗して尻もちをついた。そんな動作を何度も繰り返し、次第に安定して立ち上がることを覚えていた。這うよりは、立ち上がって歩いたほうが、はるかに移動しやすいからである。
脚による歩き方の学習だけでなく、腕の使い方の学習も同じであった。人差し指と親指で小さなものをつまんで拾うことを学習していた。両手を使うという新たに身につけた技術、そして好奇心を存分に活用しながら、自分が生きて行くために「必要な糧を発見し捕食する方法」を学んでいった。
さらに、知能にも変化が現れ、餌となる生物と非生物との違いを見分けるようになり、非生物には全く関心を示さなくなった。逆に餌となる生物に対しては強い興味を持つこととなり、常に餌となる生物がいないか頻繁にチェックするようになると、何かが隠れる、あるいは自分が隠れるという「永続性」を理解するようになっていた。
このように成長したルシファーは自力で動くことを覚え、餌を見分け、捕食することに熱中し、非常に危険な存在となる。
さらに学習が進むと、餌となる生物の行動や生態にも興味を示した。餌を引き付けるために、まさに言葉を認識しようとしているのである。おそらく、餌とした人間が最後に発した言葉を真似しているにすぎないのであるが、餌の人間がこれらの言葉に大きな反応を示していたことで、それらが特別な言葉だと理解し、真似をするのである。
これ以上はルシファーの成長の様子を見ていられなかった。成長が赤ちゃんであれば、微笑ましいのであるが、目の前のルシファーは怪物であり、わずかな時間で成長していくのである。
枯れ葉が風に吹かれて、足元に舞ってきた。セリア・ケイはびっくりしてとびのくが、枯れ葉であることに気づいて安堵した。
少し考えればトンネル内に風が吹き込むことはないので不自然であることはすぐに気づくべきであったが、人間は誰も枯れ葉を警戒しない。ルシファーはそれを見て、枯れ葉にくっついて、餌に警戒されずに近づく方法を学習していた。兵隊のひとりの足元に張り付いた枯れ葉から、ねばねば、ぬるぬるとしたルシファーの変形体がゆっくりと向かってくるのを見つけた。
異変に気付いた兵隊が慌てて、枯れ葉を踏みつけた。しかし、菌糸はもともと小さいので、踏みつぶしたくらいでは殺せない。それどころか大騒ぎしてしまったため、隠れていることを知られてしまった。
それが合図となった。ネズミもどきルシファーや人間もどきルシファーが、隠れ場所を目指して迫り始めた。それは離れた場所にいるルシファーさえも同様であり、こちらにまっすぐに向かってくるのである。言葉の真似を発すことはできていても、彼らにとって意味をもたないはずである。ではどうやって、ルシファーは互いに情報をやり取りしているのか不思議であった。
グラディウス軍曹の兵隊たちがH&K MP5短機関銃で応戦を始めた。接近を食い止めようと足や頭を狙って射撃しているが、粘菌に寄生された身体に効果がないことは明らかである。
「もう、無理」
逃げ場がない今の状況では、ルシファーに接近された時が、最後なのである。セリア・ケイは絶望に座り込み、目を閉じると覚悟を決めた。
「ごめんね、サラ。すぐに会えるわ」
世界では子供たちの命が脅かされ、彼女はいつも逃げているだけであった。必死で逃げていただけであった。まず、もっとも大切な妹のサラを救えなかった。さらに、お世話になった和田継矢も置き去りにした。それだけではない、避難時には数多くの負傷者を見て来たが、誰も救えなかった。たぶん、それはこれからも同じ。世界が滅ぶ瞬間を目の当たりにしても、きっと自分は逃げているだけ……。自分なりに頑張ってきたつもりであったけれども、ここで最期を迎えるのも身の丈に合った人生、そう考えると潔く諦めがついた。
覚悟を決めると、彼女の頭の中にサラとの思い出が次々と浮かんでは消えていった。ふたりで初めて作ったチーズ、干拓地のどろんこレース、巣から落ちた雛鳥のこと、どれも今は懐かしい思い出ばかりである。
巣から落ちた雛鳥を見ていた時も、今のように隠れて見ていたことを思い出した。その時も、地面に小さな粘菌がいたことも思い出した。不思議な縁である。
地面の粘菌も生物であればなんでも餌とする。餌が豊富にいる落枝を見つけて、枝の上をたどって移動する。あんなに小さな生き物でさえ、まるで目が見えるかのように進むべき方向を知っていた。
ここに集まっているネズミもどきルシファーや人間もどきルシファー同士はも、進むべき方向を知っている。いったいどうやって連携しているのかしら?
臭い?
目視?
そのように考えると。ルシファー目玉の動きが全て同じであることに気づいた。こちらは応戦する兵隊が数人いるにもかかわらず、まるで統率されているかのように必ず同じものを見ようとしている。例外な動きをしている目玉はひとつもなかった。ここに複数いるように見えるネズミもどきルシファーや人間もどきルシファーは、たったの1つのことしか見ていない。カメレオンのように左右の丸く突き出した目が違う方向を見るという複雑な動きをする生物もいるが、それは特別である。そう考えると、ここにいるルシファーは実は1体しかいないかもしれない。
もしもそうであるなら、ネズミもどきルシファーや人間もどきルシファー同士がコミュニケーションしているように見えないにもかかわらず、お互いが補完しあうように動いている理由も説明ができる。
英仏海峡トンネルの奥に潜んでいるルシファーは、別々の個体に見えているが、巨大なたった1個体しかいないに違いない。おそらく1個体がはりめぐらせた菌糸によって繋がっていて、頭脳ともなる核から身体の隅々のネズミもどきルシファーや人間もどきルシファーにまで指令が伝えられているだけなのである。
事実、世界でいちばん大きな生き物は、実はキノコ菌である。アメリカ合衆国ミシガン州にて1個体で15万m2もの範囲に菌糸をはりめぐらせ、推定重量は100tにも及ぶというキシメジ科のキノコであるヤワナラタケが発見されている。そのキノコ菌は実に山1つを丸ごとに覆っている。
1個体で狩りをするのであれば、ルシファーの頭脳ともなる核は、餌を追い詰める様子がわかり、かつ、自身は安全な場所に隠れているはずである。そんなことができる場所は多くはない。簡単な常識の問題である。それは正面を見る人間の体型にとって、もっとも死角となるのは真上の天井である。
彼女は、恐る恐る天井を見上げた。
「天井を照らして」
セリア・ケイは叫んでいた。グラディウス軍曹はAN-M14/TH3焼夷手榴弾まで持ち出して応戦中であったが、騒音の中でも命令や指示をきちんと聞き分けることに問題がなかった。
セリア・ケイが前方のルシファー以外の危険を襲えようとしていると理解し、射撃で牽制しながらも、ライトを天井に向けた。
ライトは確実に天井を照らしているが、真っ暗でなにも見えなかった。部下の兵士たちも前方のルシファーに集中していたが、一瞬だけ照らされた天井を見たが、やはり何も見えなかった。
でも、おかしいのである。奈落の底というわけでもないのに、ライトを照らしても数メートル先の天井が真っ暗で見えないのである。不自然である。セリア・ケイが、おかしいことに気づいた。
「もう一度、照らして、近くの様子がわかるように……」
グラディウス軍曹はいわれたとおりにした。やはり不自然な光景が目に入った。天井の一部が、まるで空間が切り取られたように真っ暗なものが浮かび上がっているのである。今度は誰の目にもおかしいことがわかった。
理由はわからないが、天井が光を反射していない。だから真っ暗に見えるのである。暗闇の中であれば、光を反射しない闇ともいうべきものは、まさに隠れるには完璧であろう。見つけることは不可能に近い。しかし、ライトで照らし出されては、光を反射しない闇は逆効果である。怪しいことを自ら曝け出している。
「あそこよ。あそこに、きっと、本体が隠れている」
セリア・ケイの意図がグラディウス軍曹に通じた。
「まかせろ!」
グラディウス軍曹は、とっておきの弾丸であるドラゴンブレスト弾を装填した短銃身のベネリM3散弾銃に持ち換えた。ドラゴンブレスト弾は、12ゲージ散弾銃用に設計された焼夷弾である。焼夷剤が燃焼することで対象物を火で包み込むことができる。
ドラゴンブレスト弾を上に向かって撃つことは危険極まりないが、彼は部下を下がらせると躊躇することなく、天井の暗闇に向けて撃った。暗闇の中に派手な射撃によって花火のような炎が飛んだ。マグネシウムが天井に貼りついて燃え出すと、光を反射していない闇が薄くなり始めた。そして、アメーバのような粘々した物質が地面に垂れ下がってきた。燃えたままのマグネシウムの小片も剥がれずにいっしょに垂れ下がっている。
たった1個体であるが、トンネルの奥に広がるルシファーは大きすぎてこれを完全に殺すことができるわけもない。頭脳ともなる核を壊しても、おそらく他の部位に核が再生される。しかし1個体であるゆえに、その1個体の頭脳ともなる核をだますことができれば、全体をだますことができる。そうすれば、逃げ道が確保するための隙ができるかもしれなかった。
セリア・ケイはグラディウス軍曹が持ち込んだと見られる備品に目を向けた。M1978ヘルメットが放置されているのを見るや、それを拾い上げて垂れ下がるルシファーの下に向けて放り投げた。狙いどおりに天地がひっくり返った状態で、地面に落ちた。ルシファーは相変わらず垂れ下がり続け、M1978ヘルメットの中に落ちようとしていた。
完全にM1978ヘルメットの中に落ちてしまったルシファーは、菌糸を伸ばして地面に触れようとしていた。まさに菌糸の戦端が地面に触れた瞬間を彼女は見逃さなかった。備品の中から、外傷時の応急処置として用意されていた冷却材を片っ端からM1978ヘルメットの中へ投げ込んだ。M1978ヘルメットは、粘々したルシファーと冷却材が詰め込まれる結果となった。
グラディウス軍曹や他の兵隊は、彼女がなにをしているのか意図がわからなかった。しかし、ルシファーの行動は正直であった。明らかに冷却材を痛がっているようであった。M1978ヘルメットから必死に出ようともがいている。
「もっと、冷やすものはないの?」
セリア・ケイの今までの穏やかな性格が嘘のような切羽詰まった口調であった。
「説明してくれないか? なにが起きている?」
グラディウス軍曹が困惑していた。応戦と冷却材のどちらを優先すべきか判断がつかないのである。
すると、奇跡としか言いようがないことが起きた。温度の急激な変化に、ルシファーは子孫をつなげるために、見る見ると子実体を形成し始めた。オナモミの種のような形状の胞子袋をつけた子実体が、定点観測ビデオの早送りでも見るかのように急速に大きく成長していった。その変化は、次々と周囲のネズミもどきルシファーや人間もどきルシファーにまで広がり、だらしなく崩れると、身体の至る所から子実体が伸び始めた。
まるで波紋が広がっていくように、周囲に子実体の群れが出来上がっていた。植物状態の子実体には攻撃性はない。安全なのである。しかし、ルシファーが死んだわけではない。胞子はいずれ発芽して、さらに大量のルシファーが成長を始めることになる。それでも、この状況は逃げるには十分である。結果的にセリア・ケイはグラディウス軍曹たちとともに英仏海峡トンネルの脱出に成功したのである。




