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フェアリーリング  作者: 坂井美春
第六章 ダンケルクの夜
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フランス北部オー=ド=フランス地域圏ダンケルク港

 夜が訪れたが、ダンケルクには未だに避難民たちが残されていた。セリア・ケイも、その一人に戻っていた。使う機会が無さそうであるにもかかわらず、彼女は財布、時計などを落としていないか気になった。大丈夫、背中のディパックに予備の財布が入っている。それだけ確認すると、なにをするにしても、明日の朝に行動することにした。とにかく体を休めたかった。

 ダンケルクは海岸に沿って立派なリゾートマンションが立っている。住人は残っているはずがないので、部屋に入り込まないまでも、建物の共用部分の一角であれば風をしのげるし、体を休める場所として落ち着けると思えた。そして、朝になれば、再び船がくるかもしれない。

 取り残された避難民たちは、誰もが同じようなことを考えていたようである。それほど多くなかったが、ぞろぞろとリゾートマンションに向かう人たちがいた。彼女は、あるリゾートマンションのエントランスで既に休憩をしている人がいるのを見つけた。広さ的には十分に余裕があったので、ここにお邪魔することにした。

 すすり泣く声が聞こえていた。こんな状況に無理もない。もう聞き慣れてしまった。泣く気力もない自分に代わって、泣いてくれているようなものである。彼女は背中を壁に寄せて体操座りのままにもかかわらず、疲れも手伝ってうとうとしていた。明日になれば、きっと状況が変わる。そう信じたかった。

 入り口には、時折人の出入りがあったが、誰も疲れ切っていたので、暗黙のうちに、お互いが邪魔にならないように行動するというルールができあがっていた。良くも悪くも、皆が同じ境遇なのである。積極的に助け合うことはしなくても、お互い生き延びるために、乗り切ろうという不思議な仲間意識があった。

 入り口から再び誰かが入ってきた。汗と泥の臭いにまみれたその人物は、エントランスに人がいることに気づいて立ち止まった。それは空いている場所を探しているというよりは、入り口を立ち塞ぐような不自然な動きであり、室内を物色しているような動きであった。

 不審者? その場の全員の全神経が逆なでされたように、緊張が走った。ひとりがライトで照らし出すと、兵隊であることがわかった。彼らは避難民たちに向かって信じられない言葉を吐いた。

「食い物と水を出せ!」

 兵隊たちはエントランスの中を回って、めぼしそうな物品を次々と取り上げていった。今や貴重な水である水筒さえも、老若男女問わず、根こそぎ奪っていった。今まで国を守る兵隊、住民を助けてくれる兵隊と思っていたが、それは逆だった。強盗同然な兵隊のやり方に唖然とさせられたが、武器を手にした兵隊には逆らえなかった。

 無言の怒りを受ける兵隊たちの背後で、なにかが動く気配がした。建物の影となっていた暗闇の中から、忽然と現れたようにみえた。それは兵隊たちに気づいて止まった。

 強盗行為にすっかり開き直った兵隊たちは、自ら飛び込んできた新たなカモの登場に、二ヤつきながら迫った。しかし、そのカモられる人物は兵隊たちを完全に無視していた。目の前に迫っても全く動じせず、そのまま突っ立っていた。

 兵隊のひとりが武器をチラつかせて威嚇すると、姿が忽然と見えなくなり、かわりに周囲の暗闇の中で、なにかが動く気配がした。確かになにかが動いた。兵隊たちが銃のウェポンライトで照らし出したが、なにも浮かび上がらなかった。まさしく、光が闇の中に吸い取られたように、なにも浮かび上がらなかった。その光景は、逆に不自然である。

 ウェポンライトを左右に揺らしてみると、まるで空間が切り取られたかのような浮かぶ闇が見えていた。闇は光を全く反射していない。このような現象を、この場の誰もが未だかつて見たことがなかった。

 何かが得体のしれないものが目の前にいる。それは切り取られたような闇の奥で、獲物を狩るハンターのごとく、自分の存在を隠すために、闇を造り出しているのである。それは明確な敵意である。兵隊たちは今まで感じたことがない強い恐怖を抱いた。

「シゥーッ、シゥーッ」という音が聞こえてきた。自分の存在に気づかれたので、隠れることを止めたのかもしれない。切り取られたような闇の奥から現れた人間には、セリア・ケイは見覚えがあった。先日の夜にネズミに噛まれた避難民である。彼も乗船できなかったことには気づいていたが、今のその姿は全く想像を超えるものであった。まるで生気がなく、まるで彷徨する生ける屍のように見えた。

 生ける屍は無言のまま、先ほど水筒を奪った兵隊たちのひとりをなにかで突き刺した。手で殴りかかるわけではなく、身体からなにかの棒のようなものが飛び出して、兵隊を突き刺したように見えた。そうとしか表現のしようがなかった。

 その棒に見えたものは、暗闇の中でも、なにかの生き物の触手であることが見て取れた。槍のように突き刺した仮捕捉手は、皮膚に絡みつき、触れた場所から浮き上がる血管のように侵食を始めていた。兵隊は痛みにもだえ、這ってのがれようとした。すると、新しい触手が伸び、兵隊の手や足を絡めるように動き回っていた。喉はとっくに潰され、助けの声を出すこともできない。その光景は殺人が起きているというよりも、まるで魚を三枚におろすような、戦利品を解体しているように見えた。

 悪人とはいえ惨殺が起きているという認識はあったが、泣き叫ぶものはいなかった。もはや死体といえるものではなく、血だまりの中に手首や足の一部だけが落ちていた。一部始終を見せつけられたエントランスの避難民たちは腰砕け状態となり、少しでも離れようと後ずさりするのが精いっぱいであった。ケイも同じである。とても女性ひとりだけで助けられる状況を超えていた。

 今は捕らえた兵隊の咀嚼に夢中になっているが、この後に起こることが容易に想像できた。次の犠牲者は、この中の誰かになるとしか思えなかった。緊迫した危機感は、自分だけが生き残りたいという感情を暴走させた。仲間の兵隊のひとりが恐怖に耐えきれずに一目散に逃げ出すと、避難民たちも一斉に海岸に向けて逃げ出した。

 そこでは予期せぬことが起きていた。海岸の事態は一変していたのである。海上でいくつもの船が燃えていた。船体に損傷は見られないため、戦闘によって被弾したわけではない。内部から火災が発生しているように見えた。まだ乗船できていない避難民たちが、火災で明るくなった海を見守っていた。

 この場所で、なにかが起きている。ケイはただならぬ状況に、危険が迫っていることを直感した。先ほどの生ける屍と関係があるのではないかという考えが、頭がよぎった。

 その予感は正しかった。海岸の一角で人間の悲鳴があがったのである。その直後に、悲鳴から聞こえた方角から、どっと人が駆け出していた。先ほどまでいたリゾートマンションとは別の場所からである。つまり、先ほどの生ける屍と遭遇した場所とは別である。

 ケイは安全な方向を見極めようと、周囲を見回した。ここにいては駄目だと本能が警鐘を鳴らしていた。まずは、身を隠さなければならない。彼女は五感に全神経を集中し、目にするもの、聞こえるもの、臭うものから安全な場所、あるいは、方角を見極めようとした。

 その時に、自分の名前が呼ばれていることに気づいた。貨物船の乗船時に分かれた和田継矢であった。彼女は和田継矢に先ほどの兵隊に起こったことを説明した。

 リゾートマンションでは、既に惨劇が終わっていた。そうとしか言いようがなかった。兵隊の上に生ける屍が重なるように倒れており、二人は菌糸のようなもので覆われていた。二人は仮捕捉手でつながっており、とても生きているとは思えなかった。にもかかわらず、兵隊の手足だけがひくひくと動いているように見えた。

 隣にはネズミの死骸も横たわっていた。死臭につられて近づいたのかもしれない。ただ、そのネズミの死骸に見えたものも動いていた。しかもただ動いているわけではなく、その挙動がおかしかった。まるで人間が手を使わないで足の動きだけで立ち上がろうとしているかのように、尻尾を腕のように使って上体を起こしたのである。ネズミの尻尾は、体のバランスをとることはあっても、腕ではないはずである。非常に違和感があった。

 和田継矢はオランダ語を簡単な会話程度しか話せないので、セリア・ケイとは意思疎通がうまくできなかった。しかし、和田継矢もネズミの行動がおかしいことに気が付いたようである。

 内部の体組織を曝け出して死骸にしか見えないネズミが大人の人間二人に威嚇してきた。ネズミからすれば巨人にしか見えない人間を見て逃げ出すどころか、人間を狩る気が全開である。ネズミの瞳は白く濁って生気がなく、そもそも視線が明後日の方向を見つめていた。姿はネズミであっても、ネズミ以外のものに操られているとしか思えなかった。

 ネズミは集団となり、逃げ道を塞ぎ、一斉に襲い掛かろうとしていた。まるで原始人がマンモスを狩る時のような連携した動きを見せていた。無理に逃げ出そうとすれば、背後を見せた途端に襲ってくるであろうことは容易に想像がついた。ネズミは人間が逃げ出す瞬間を待っているのもしれなかった。

「逃げろ!」

 和田継矢が叫ぶとともに、ネズミの群れに自分の荷物を投げつけた。ネズミは投げつけられた荷物に気を取られた。一瞬ではあるが、取り囲むネズミの群れに隙をつくったのである、

 オランダ人のケイには、日本語がわからないが、言っていることは容易に想像できた。和田継矢とは、数語の挨拶を交わしただけである。親しいわけではなかったが、自分だけ行く、すなわち、逃げることに抵抗感があった。

 しかし自分がここに留まっても、なにも役に立たない。足手まといの自分がいなくなれば、和田継矢が身軽な一人になれば、逃げることができるかもしれない。それは、気休めな考えであったが、その時の彼女には、それが最善の策であることのように思えた。

 決断した彼女は、早かった。しかし、後で冷静になると、それは彼を見捨てただけであり、とても後悔することになるのである。

 不気味なネズミたちから十分に安全な距離が確保できると、彼女は一度だけ振り返ったが、炎に包まれつつあるダンケルクの港が見えただけであった。

 海岸から脱出すると周囲は暗かったが、同じように逃れてきた避難民たちが身を寄せ合っているのが見て取れた。すすり泣くような音があちらこちらから漏れ聞こえ、あるものは家族とはぐれて悲嘆して座り込み、あるものは逃避行に疲れ果てて廃墟と化した故郷への道を戻り始めた。

 ダンケルクの空は炎によって明るく照らし出され、助けを求める声や悲鳴のような声が、海岸からいつまでも聞こえ続けていた。

 世界がおかしくなっている。彼女の率直な感想であった。故郷のベームスター干拓地で触れて来た今まででの優しい自然に、自分の知らないことが起きていることをはっきりと自覚した。自然は時には厳しいこともあるが、そこには理由があり、巡り巡って恵みをもたらしてくれた。それは、生きる者すべてに公平であった。今晩のような出鱈目なことはなかった。ここにいると、人間や動物がみんなモンスターに思えた。冗談じゃなくて本気で!

 彼女はダンケルクから船で避難することを諦め、新しい逃げ道をさがさなければならなかった。

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