フランス北部北海沿岸 貨物船〈レオン・ド・ロニー〉
貨物船が岸壁を離れると、船上は避難民たちの歓喜の声があがった。このままグレートブリテン島、すなわちイギリスに到着さえすれば、そこは安全とされている。貨物船はゆっくりではあるが、確実に沖に向かって進み始めると、最後に祖国の姿を瞳に焼き付けておこうと、多くの避難民たちが船尾に集まってきた。
洋上で待機している小型の船上から、まだ乗船ができることを報せる信号弾が絶えず上げられており、その色は青く輝き、その音は止まなかった。
「食事の分配をするので炊事場へ取りに来てください。そこで、名簿に登録してもらいます」
船員が大声をあげながら、船上を回っていた。
食事ができるという事実は、長かった緊張と重苦しい気持ちから、避難民たちを開放することになった。船上は急に活気づき、談笑する声や冗談を交わす声が聞こえるようになった。
あたりまえの平穏が、こんなにも人をリラックスさせるものとは、思いもよらなかった。船上の片隅で、ケイは、そんな平穏な空気を感じてとって、その大切さを楽しむ余裕さえ戻っていた。
しかしそれは、ほんのわずかの間であった。1頭のドラゴンが、どこからともなくやって来ると、貨物船の上を何度か旋回した。獲物を物色しているのは間違いはない。船団を護衛するイギリス王立空軍やアメリカ合衆国空軍機がドラゴンを追い払ったものの、皆の顔に不安の色が走った。間もなくその嫌な予感が的中した。
「右前方、水中に何かがいる」
船員の甲高い声に、皆の視線が一斉にその方向の水面に集まった。大きなうねりの間から、白い線を引いた航跡1本が、猛スピードで貨物船に向って来ていた。今度は水中から忍び寄ってきたのである。水中にもまさか敵性来攻生物がいることに避難民たちは想像すらしていなかった。
護衛のイギリス王立海軍の駆逐艦が、爆雷投射機によって爆雷を割り込むように落とした。大した威力がないのか、敵性来攻生物は攻撃にまったく意にも介さずに、前進を止めようとしなかった。全力で舵を取る貨物船が、船尾をじわりじわりと左へ振れていく。大型船の舵は反応が鈍い。見ていると非常にじれったい。
右舷すれすれに、かろうじて航跡は通り過ぎようとしていた。衝撃音とともに船体が大きく揺れると、その後、金属を引っ掻くような不快な音が船体の前から後ろに向かって轟き始めた。貨物船は攻撃を受けていた。船体が軋むような非常に大きな音も響いた。敵性来攻生物のやりたい放題であった。
音が止むと船体の傾きが復元し、水中の航跡は次の獲物を求めて去っていった。
貨物船は航行を続けていたので「助かった!」と避難民たちは思わず思ったに違いない。ところが、貨物船は大きく弧を描き、船首をダンケルク港に向けていた。避難民たちが事態を飲み込めずに騒ぎ始めると、船底の複数個所で浸水が発生しており、間もなく沈むことを船員から伝えられた。
落胆する避難民たちに救命胴衣が配られた。彼らの一部は諦めきれなかったのかもしれない。浸水箇所は水面下のため、避難民たちには損害状況が見えない。表面上は貨物船が無傷に見えている。グレートブリテン島に到着するまで、貨物船は持つかもしれないと船員に詰め寄る者も現れた。だが、決定は変わらなかった。
護衛のイギリス王立海軍の駆逐艦の爆雷攻撃は、まだ続いていた。その衝撃音が、悲嘆に嘆く避難民たちの腹をズシンズシンと叩くようであった。先ほどまでは爆雷の爆発音に一喜していたのであるが、不快な大音量に一憂するだけになってしまった。
双発の水上飛行機が水面近くを飛んで、翼を左右に大きく振っていた。貨物船の避難民たちが見守る中、その飛行機に守られて、沈みかけた船、動けない船を残して、無傷の船は去って行った。高速で航行できる駆逐艦だけが、懸命に救助を続けていた。低速な船は、乗せている避難民たちとともに、敵性来攻生物が追いかけてこない北方に逃げるしかない。残した貨物船に「許せ……」と発光信号を送って、水上飛行機とともに他の船は走り去っていった。
敵性来攻生物は、大きな頭を海上から突き出して、海の上の様子をうかがっていた。やはり、ドラゴンである。水性のドラゴンなのであろうか? 沈没が決まった船に乗る避難民たちにとっては、正体がわかってしまうと、逆にあまり恐ろしさを感じなかった。見えないことが恐怖を煽り立てて、巨大な鮫のような残酷な生き物を勝手に想像していたのかもしれない。ドラゴンは爬虫類に近いので、冷血生物という意味では、たいして差はないのであるが、ある意味ではドラゴンを見慣れてしまったのかもしれない。やがてドラゴンが去ったのか、海面が静かになった。
貨物船はダンケルクの港近くまで戻ると、急速に傾き始めていた。貨物船の汽笛が「ボー、ボー、ボー」と鳴った。これは退船命令である。大きく傾くと貨物船が動けなくなるため、再入港は断念した。救助用筏に避難民たちを乗せて、他の船に収容されることになった。しかしながら、この貨物船はもともと定員を上回る避難民たちを乗せていたため、救助用筏が足りなかった。
さらに船は傾きを増しつつあり、45度にも達すると救助用筏は降ろすこともできなくなった。避難民の一部が覚悟を決め、救命胴衣を着けて海に飛び込み始めた。セリア・ケイも続くしかなかった。他の避難民たちも後から後から飛び込んで来たため、水面は救命筏とそれに取りすがった人々で、みるみる一杯になった。
傾いた貨物船は、暫くはそのまま留まって浮いていたが、回転するようにひっくり返り始めると、突然に大きな爆発音とともに焔に包まれ始めた。あっという間に船は真っ二つに割れて、沈もうとしていた。高熱な機関内部に海水が流れ込んだための水蒸気爆発であった。
貨物船の沈没後、沈んだ船からいろいろなものが次々に浮き上って来た。セリア・ケイはオランダから避難する際に背負っていたディパックが浮き輪の働きをして、楽に海面に浮かぶことができていた。しかし、それ以外になす術もなく、ただただ水面を漂っているだけである。大きい波は、容赦なく頭の上から襲いかかった。耳から入った海水が、鼻や口へ自由に抜ける。次々と起きることに、それを防ぐ気力さえも残っていなかった。
北海の海面温度の年間平均は10度程度であり、初夏とはいえ、少し冷たい水に浮いた彼女は、取り乱すこともなく妙に落ち着いていた。同じように海に浮かぶ避難民たちは、貨物船が沈んだ際に浮かび上がってきた漂流物を求めて、右往左往しているのとは対照的であった。
イギリス王立海軍の駆逐艦が近づいてくると、少し離れた場所で停船した。海の上を漂流していると幻覚を見るということがあるらしいが、ぼんやりとした頭の避難民たちにとっては、これが幻なのか現実なのか、すぐには区別がつかなかった。「おーい」と呼ぶ声に、これが現実であることに、やっとのことで気がついた。
自力で泳いで駆逐艦に近づいた人には、すぐにロープが投げられた。ところが避難民たちには、それに掴まって上がる力が残っていなかったり、両手を火傷で傷んでいたりと、思うように救助が進まなかった。いつドラゴンが戻ってくるのかわからないために、時間は無駄にできない。今度は、ロープを輪にして投げて、「両腕を通せ」と指示する声が聞こえた。避難民たちは、ひとりひとり釣り上げられたマグロのように、船に引き揚げられていった。船上は見る見る人で鈴なりになっていくとともに、助けられたと思われる数名の泣き笑いしている声も聞こるようになった。
指示する声や励ます声に交じって、何人もの水兵が大声で呼んでいるのが聞こえた。元気づけているものと思ったが、実は違った。波がますます大きくなり、警告していたのである。速い海流にも流されて、水面に残されていたセリア・ケイが駆逐艦から離されようとしているのである。
波に揉まれて、うまく泳ぐことができなかった。高いうねりが容赦なく海上を漂う人々に襲いかかった。うねりが大きいので、高く上がったときは随分遠くまで人々が浮いているのが見えた。また、低くなったときは、谷底にいるようであった。
駆逐艦上の水兵が慌てているのが見て取れた。私たちはここにいる。しかし、声が出なかった。無理に口をあけようものなら、容赦なく海水が口の中に入ってきた。
次の大きな波に呑まれ、浮いていた漂流物もだんだん散らばって行った。遠ざかるにつれて、貨物船の漂流物の中に紛れ、残されていた避難民たちと区別がつかなくなり、やがていつの間にか見えなくなっていた。ふと気がつくと、イギリスの駆逐艦がさらに遠くに見えていた。もはや、潮流にあがなう術が無かった。
そして遂に、周りには誰もいなくなり、海上に浮かぶ一粒となっていた。それから気絶していたのか、その間は全く覚えがなかった。無意識のまま、自分の唯一の荷物であるデイバックに掴まって、彼女はただ独りで漂流物のように流されていた。
随分経ったのかもしれない。貨物船は十分に海岸近くまで戻っていたことが幸いし、潮流によって自然と元の海岸に流されていた。しばらくそのままでいるうちに、少しずつ意識がはっきりしてきた。しかし、目と頭以外は全く働かず、首から下は、存在さえ分からなかった。ただ浮かんでいることしかできなかった彼女は、少し頭を動かして、段々近づく陸地をじっと眺めていた。あたりが暗くなりかけていた。時間間隔が麻痺していたが、日没が近いに違いない。しかたなく、船に拾われることを諦め、海岸に向かって戻ること、つまり泳ぐことにした。




