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フェアリーリング  作者: 坂井美春
第三章 アムステルダム
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アムステルダム

 朝から霧が立ち込めたアムステルダム市内は、先日まで、あれほど賑やかであったにもかかわらず、まるで映画の撮影セットであるかのように建物が並ぶだけの風景となっていた。朝食の時間が終わり、通勤や通学に向かう人たちで賑わうはずの市内は、人がまばらであった。しかしながら、通勤や登校時間を間違えているわけではない。

 ベームスター干拓地から現れた敵性来攻生物であるヴイーヴルが、オランダの首都アムステルダムにも出現し始めていた。もはや、市内中心部にも公然と姿を見せるようになっていたのである。市民は自主的にオランダから脱出してしまったか、あるいは自宅に籠って様子を見守っているか、そのどちらかであった。

 オランダ王立陸軍は、逐次部隊を投入していたが、ヴイーヴルは神出鬼没であり、広大なオランダ北西部で、もぐら叩き状態となっており、有効な手段に欠けていた。一方、アムステルダムの警察機能も、真正粘菌ルシファーによる影響によりマヒ状態になっていたため、市内は無防備となっており、みすみすヴイーヴルの侵入を許す結果になっていた。このため、市内は敵性来攻生物ヴイーヴルと真正粘菌ルシファーの2つの脅威にさらされることになってしまったのである。

 市民には目に見えやすい脅威であるヴイーヴルの危機のみが主に伝えられるだけで、真正粘菌ルシファーの危機はあまり伝わっていなかった。さらに真正粘菌ルシファーの感染を防ぐため、オランダ国内の橋がいくつか閉鎖されていたのであるが、この事実は世界中にて報道されることは一切なかった。

 アムステルダムの住民は自発的に避難を始め、ハーグやロッテルダムなどの周辺の都市、あるいは、鉄道の中心であるユトレヒトに向かうこととなり、道路に沿って避難する人々の行列ができていた。オランダは鉄道密度が高い国であり、国内各都市への直通運転を行なっている。オランダ国鉄はすぐに臨時避難列車の運用を決定した。

 周辺国であるベルギー、ルクセンブルク、さらにはフランス北東の各都市には、政府によって避難民を受け入れるための一時避難所が設置され始めていた。しかしながら、避難民を送り届けた車両が次第に戻らない状態となり、すぐに鉄道輸送は機能麻痺に陥ってしまった。

 このようにアムステルダムは、まるでゴーストタウンと化していた。人だけではなく、犬も、猫も、小鳥も姿を消していた。それに伴って、いろいろな音も聞かれなくなった。ただ、ネズミだけが、我が物顔でごみを荒らすさまが、あちらこちらで見かけるようになった。

 オランダ国防省は、係る事態に敵性来攻生物ヴイーヴルに襲われたときの対処法を公開した。それは蜂に襲われた際の対処法を書き直したものであり、いかに情報が不足しているかを曝け出す結果となってしまった。

• 全力で走って逃げる。子どもや老人がいるなど、どうしてもそうする必要があるとき以外は、ほかの人を助けるために立ち止まったりしないこと。車や建物など隠れられる場所に行き着くまで、走り続ける。

• 水の中に飛び込まないこと。ヴイーヴルは、人が水から顔を出すのを待ち受ける。

• 走りながら、シャツを引っ張って頭にかぶせ、毒から顔、口、目を守る。

• 走っているときに、ヴイーヴルを攻撃しないこと。攻撃されたヴイーヴルや、死んだヴイーヴルが出す匂いが、群をますます攻撃的にさせる。

• 安全な場所に着いたら、緊急通報に電話をかけ、目撃状況を伝える。

 しかしながら、アムステルダム市内では警察や消防に電話をかけても誰も出なかったし、国防省が指示する緊急通報先も、同様であった。ようやく連絡が取れたとしても、人手が足りなく取り合ってもらえなかった。まるで市内から行政機能が消えてしまったかのようであった。

 誰も通らなくなった交差点ではあったが、あいかわらず交通信号機は規則的な点滅を繰り返していた。吹きつける風が、避難していった住民の落としていったゴミを舞い上げながら、人間の代わりに道路を横切っていった。そのたどり着く先は、枯れ葉とともに、吹き溜まりになっていた。住民たちがいなくなろうとしているアムステルダム市内では、残された機械とゴミだけが、かつての日々の生活の営みを記憶に留めていた。そのわずかな記憶を蘇らせることができなければ、やがて市内は自然に還ることになる。それは時間の問題なのかもしれない。


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