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フェアリーリング  作者: 坂井美春
第三章 アムステルダム
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アムステルダム大学病院

 通報を受けたアメリカ疾病予防管理センター研究員がアムステルダム大学病院に到着し、すぐさま警察官に感染した菌の検査を開始した。

 一方、オランダ国立公衆衛生環境研究所も、これ以上の感染拡大を防ぐため、疑いのある場所のすべてで徹底的に除染を開始した。警察官の自宅、そして勤務先の警察署までも立ち入り禁止にするとともに、徹底した隔離、除染作業による封じ込め作戦をとった。

 しかし同じ頃、市内の火葬場でも、警察官と同様の症状に苦しむ従業員が見つかった。ただちに同従業員も隔離されたが、オランダ国立公衆衛生環境研究所はもっとも恐れていた現実を突きつけられることとなった。従業員からも検査により同じ菌が見つかったからである。隔離した場所以外でも、すでに感染は広がり始めていることを意味していた。しかも、従業員の場合、発疹は喉の奥にまで広がって呼吸を妨げているため、気管に挿管チューブを入れて空気を送り込まなければ生存ができないほどに重症であった。

 さらに従業員以外にも、感染の疑いのある患者がオランダ北部の3つの州で新たに計19人も見つかった。疑いのある20名全員が、隔離病棟に移されるだけでなく、その家族もすでに感染している可能性があり、自宅に軟禁状態となった。感染被害は少しずつだが確実に広がっていた。感染拡大の危惧は兆候から現実になりつつあった。すべての患者の隔離などしかるべき対応をとるよう、感染症対策の本部が置かれたオランダ国立公衆衛生環境研究所は、オランダの全病院に指示を出した。

 正体不明の菌は、なんらかの原生生物の一種であることまでは確認できていた。新種の菌が、未開の地から離れたオランダ北部にて、今なぜ猛威を振るうのか? 原因究明の鍵を握るのは、最初の感染者の警察官であるが、貴重なサンプルとしてあらゆる検査が行われていたため、度重なる検査で体力は急激に低下していた。 警察官は弱っており、意識を失ったまま、植物人間状態となってしまっていた。

 やがて、最初に治療にあたった医師にも同じ症状が現れた。研究員たちは、新たな患者である医師から血液サンプルや皮膚細胞など、あらゆる検査材料を採取した。オランダ国立公衆衛生環境研究所に持ち帰り、専門的な検査を行なった。培養実験と同時に、実験動物を使用した感染実験も行なわれ、その驚くべき生態についても、次第に明らかになっていった。

 未知の菌は、宿主から取り出されると集合した細胞、すなわちアメーバ細胞の形態となり、動き回る。増殖は分裂して数を増やすのではなく、ひたすら身体が大きくなり、広がっていく。つまり、増殖したアメーバ細胞はつながっているのである。一定の形をもたず、葉状の仮足を出して活発に運動し、積極的に動き回って餌を狩るのである。

 十分に大きく成長すると、同じ細胞アメーバどうしが集まり始め、移動体と名付けられた新たな形態となることがあった。単なる集合体ではなく、身体の部位にあわせて、それぞれの組織に成長しているため、ひとつの別の生き物のようにふるまう。

 ところが、寄生する生き物がいる場合には、状況は全くかわる。自らの身体能力は貧弱であるため、捕獲した宿主の神経系をのっとることで、宿主の身体の前肢、後肢などを道具のように操るようになる。

 最初は不器用な動きであるが、試行錯誤を重ねて前肢、後肢などの動かす方法を徐々に学習する。自身の細胞群だけでは成しえない狩りを、宿主の身体の前肢、後肢などを道具のように利用することで、非常に効率的に行うことができた。それは餌を効果的に捕獲するための卓越した能力ともいうべき特性であり、宿主の皮をかぶった別のなにかとも言える。

 そのためであろうが、寄生した際には、宿主の身体の組織を進化させたり、あるいは、再生させたりする能力すら見られ、宿主の身体を動きやすいように再編することも確認された。しかしながら肢体の操作には限界があるようで、宿主の手を操作できるからといって物を掴むような細かい作業ができるわけではなく、また、宿主の足があるからといって激しい運動ができるというわけではない。宿主の複雑な体の動きは真似できないようであった。

 いずれにしても餌となる動物を最終的に捕獲するには仮捕捉手を伸ばして直接に絡み取る必要があり、この時に仮捕捉手の先端を捕獲した動物の体内に侵入させ、内部から寄生する。そのまま動物を内部から弱めてから絡み取るのである。

 つまり、こういうことである。未知の菌は感染した宿主を操ることで、周囲の未感染の動物に近づき、自身の仮捕捉手を使って侵入し、感染を広げていく。それは狩りそのものであり、その目的のためには宿主の破損した身体を修復させるどころか、異なる動物同士の身体であっても融合させて、狩るための道具ともいうべき身体を確保する。石器人が狩りの道具として矢尻に黒曜石を利用したように、未知の菌にとって宿主の身体は狩りの道具に過ぎない。まさしく悪夢的な生態であった。

 また、未知の菌は餌が不足すると宿主を下地にして自身の苗床を造る習性が見られた。石器人がそうであったように、餌を追いかけるだけが狩りの仕方ではない。餌を待ち受けることも狩りである。その苗床は死体に群がる動物を呼び寄せるための罠そのものである。餌がさらに不足し飢餓状態になると、宿主や動物の遺体の傍などの適した場所を見つけて子実体を形成した。動物の遺体は主に苗床として利用されるが、発芽した胞子の餌にも使われる。それどころか遺体に群がる動物を引き寄せ、子実体の胞子嚢の形状からそれらの動物に容易に付着することが可能で、胞子を運ばせるために利用する場合もあると考えられた。胞子を形成した後は、子実体は枯れるため、やっと無害な存在になると推測された。

 以前からハリガネムシと呼ばれる寄生虫の存在が知られている。その名前が現すとおり針金のような細長い生き物であり、水中に産卵し、孵化すると水生昆虫に寄生する。そして、寄生した水生昆虫を食べたカマキリや魚の体内で成虫になる。もともと水の中で生まれたハリガネムシは、寄生して陸にいる状態では水中に産卵ができないため、もとの水場まで帰る方法として、宿主の行動を操るのである。水辺まで向かわせ、さらに虫にとって致命的となる水へのダイブをさせるのである。未知の菌はこのハリガネムシが宿主を操るという生態に酷似した行動をとることができるのである。

 このような宿主を操るという特異的な生態は、人間のような高等生物に対しては、今までは不可能であるというのが常識となっていた。発見された患者、すなわち宿主には意識がないにもかかわらず、自分の足で立ち上がり、二本の足で歩こうとして何度も転び、失敗を重ねることで徐々に長い距離を歩くようになるという行動が観察された。それは、まるで歩くという行動を学習しているかのような動作であり、感染者の不可解な行動、すなわち、赤ん坊のような動作を繰り返すことの説明として説得力があった。

 人間の意識の本質に関する諸説のひとつに、意識とは無意識によって既に決定された物事を認識して、それを自分が行ったと主張するだけの受動的な機械に過ぎないという説がある。この説では、意識は私たちに「気づかせる」だけの脳の仕組みのほんの一部でしかなく、実際の機能のすべては無意識下で動いているため、意識は無くても人間は生存することができるというのである。

 もしも本当にそうであるのであれば、この菌が無意識を司る脳に侵入して、意識のスイッチを切り、無意識を支配することができるのであれば、人間を自分の都合のよい行動をとらせることができるのかもしれない。

 改めて照合する必要もなかったが、既知のすべての菌株を保管する世界中でただ2カ所しかないアメリカ合衆国とロシア連邦の研究所で照合された結果、どの菌とも一致しなかったことが判明した。さらに1~2日を要してDNA情報も解析され、最終的に未知の菌であることが確認された。

 ここ数日の調査により、地球上の生物が長い歴史を積み重ねて熟成してきた進化の過程を、この未知の菌が忌しめるという冒涜的な生態から、堕天使の名前がつけられることとなった。宗教によっては、悪魔の代名詞でもあるその名前が使用されることとなり、変形菌ルシファー(Deformation bacteria Lucifer)と名前が付けられた。通称、真正粘菌ルシファー(myxomycete Lucifer)、一般にはルシファーと呼ばれるようになった。

 未知の菌ゆえに根本的な治療法はなく、発症すると解熱剤の投与などの対処法により、症状を抑えることしかできない。抗生物質は、一般には、細菌の細胞壁を破壊したり、タンパク質の産生を防いだり、DNAを壊すことで、細菌を確実に殺すことができる。しかし驚くべきことに、この菌は抗生物質を認識し、宿主の臓器を改編することで、細胞外に排出する働きをもつタンパク質を獲得してしまったのである。しかも臓器は短期間で大量の自己増殖を行い、異常なほどに肥大化され、抗生物質を宿主の身体から外へ非常に早く排出させるのである。このため、ルシファーに抗生物質は効果がなかった。

 それゆえに根本的な治療法は無く、回復するには菌が体から消え去るまで待つしか方法がないように思われた。しかし、現実には感染者2人が2人とも重症であり、患者は回復の望みも無く、ただひたすら苦しみに耐え続けるだけである。感染者は回復不能までに身体を徹底的に利用されるか、苗床の素材として利用されるか、そのどちらかを辿ろうとしている。この菌が体から消え去らない可能性のほうが高かった。すなわち生還率0%の完全な致死性の病気と考えられるようになった。この菌による本質は死に至る病なのである。

 警察官に端を発した真正粘菌ルシファーの猛威は、わずか数日の間に凄まじい広がりを見せ始めていた。このままこのような危険すぎる菌の感染の拡大を許す事態は、人類の将来を左右しかねない大問題に思えた。なんとしても、感染の拡大を防ぐことが必要であった。

 また、真正粘菌ルシファーが、どこから来たのか、全く見当もつかないことも大きな問題であった。現在はオランダ北部のみで猛威を振るっているが、未知のウイルスや菌に、都市部の日常の生活の中で感染するようなことはない。通常は未開の地に住む動物の体内から、何らかのものを媒介して感染したと考えるのが一般的である。主に感染動物との接触、あるいはその糞や尿、非加工乳製品の摂取、汚染された空気を吸い込むことで感染する。

 もっとも可能性が高い例としては、感染した動物の流産時に出る汚物や死骸などに接触してしまい感染することである。感染している動物の見極めは難しいので、海外などでは動物の死骸などに容易に近づかないほうが良いと言われるのは、これが理由である。

 対策を指揮するオランダ国立公衆衛生環境研究所は、真正粘菌ルシファーの封じ込め作戦を進めるも、感染者の増加を止めることができない現実に、オランダ全域に注意を促すため、ついに情報の公開を決断した。

 さらに感染源を突き止めることも、被害拡大を防ぐために必要なことであった。 最初に発症した警察官が感染した場所を特定し、大元の感染源も適切な処置をしなければならなかった。放置しておけば、再び、新たな感染者が出かねないからである。オランダ国立公衆衛生環境研究所は、感染経路の特定を専門にするエキスパートを呼び寄せた。

 それが疾病捜査官である。感染源の候補は2つ。1つ目のルートは警察官から発生し、二次感染として病院感染者が出ている。2つ目は、祭儀場の従業員である。両者には接点があるように思えなかったが、必ず接点があるはずである。捜査官たちが真っ先に向かったのが、最初の発症者である警察官の自宅だった。警察官の家屋の台所、風呂、トイレなどの水回りにカビのような菌が大繁殖していたことが報告されていたからである。この家のどこかに、感染源と繋がる重要な手掛かりがあると睨んでいた。 観葉植物、冷蔵庫の中、庭に生息する微生物まで、ありとあらゆる可能性が探られた。

 疾病捜査官は警察署に警察官の上司を訪ねた。すると警察官は発症する1週間前に、ベームスター干拓地で終末高高度防衛ミサイル爆発事故の現場検分に派遣されていることがわかった。ただちに警察官の作成した実況見分調書が取り寄せられ、現場でカラスの死骸の片づけを行なっていることがわかった。そのカラスの死骸は、ベームスター干拓地の現場検分の検証後、焼却処分のために祭儀場の隣のペット向け火葬場に運び込まれていたのである。従業員はそのカラスの死骸を受け入れた祭儀場の従業員だったのである。

 そして、他の患者は数日後に病院で検診を受けるまでに警察官の立ち寄った警察署、病院などで発生していたことを突き止めた。

 疾病捜査官たちはすぐさま祭儀場を捜索を実施し、焼却されたカラスの灰を回収すると、持ち帰り検査を行なうことになった。 そして、灰から真正粘菌ルシファーが発見されたのである。灰の中で真正粘菌ルシファーは芽胞状態となって生きていたのである。

 ついに感染源を突き止めたかに思われた。しかし、納得のできないこともあった。ベームスターは干拓地ではあるが、未開拓地ではない。欧州ではどこにでもある普通の田園地帯である。普通の居住地であり、人が暮らす普通の田園でもある。カラスの生息域も人類と全く重なる以上、真正粘菌ルシファーが今まで知られることなくカラスの体内で生き続けていたことは考えにくい。つまり、カラスもまた、何者かによって感染の被害を受けた犠牲者のはずである。


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